ブックタイトル日本シティジャーナル vol.173
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日本シティジャーナル vol.173
2016年(平成28年)6月10日発行第173刊毎月第3土曜日発行購読無料てお祭りをすることもありました。実際、多くの神社は当初、道も無い山奥に建立されました。しかしながら、霊峰や岬、巨石などの自然の指標を結ぶ線上や、既存の神社と同緯度線上、または夏至の日の出を拝む方向にそれらの聖地が定められたことから、たとえ人気の無い山の中でも、神社の場所を見出すことができたのです。現代のような地理情報や先端技術が存在しなかった古代、未知の島に到達し、様々な目的に応じた拠点の地を見出すことは、極めて困難であったと考えられます。そのために、時には太陽と天地を見据え、ある時は島内の地勢に目を留めて、その中から特異な地勢の情報を見出しながら、指標となる場所が並ぶ直線上に、新しい拠点を見出していく方法が模索されたのでしょう。レイラインとは人間の英知の結果として、ごく自然に生まれた拠点や聖地を見定めるための考察ツールだったのです。そしてレイラインの視点から古代史を見直すと、単なる神話と考えられていたような場所でさえも、思いもよらず実在していた可能性が見えてくるのです。偶然の一致か、それとも運命か?先日、知人にレイラインに関する文献を読んでいただいたところ、「偶然!」「妄想!」と一蹴されてしまいました。本稿においては歴史的な背景も含め、誰が読んでもその根拠が理解できるように、様々な角度からコメントを書き加えて執筆しているだけでなく、レイライン上で結ばれている場所の関連性までも、わかりやすく解説することに努めています。これほどまでに、聖地や霊峰、神社、重要拠点が同一線上に名を連ねることが、果たして偶然の一致と言えるのでしょうか。レイラインに纏わる興味深い体験談を一つ紹介します。2014年に、筆者が経営に関わる会社の本社を、千葉県成田市から徳島県小松島市に移転することになりました。徳島で本社移転の場所を探している最中、たまたま安価に取得できる物件が、願ってもない海沿いに見つかったのです。そして本社移転の手続きが完了したある時、ふと気になり、小松島市の新社屋がレイライン上でどこに結び付いているか、地図で確認することにしました。す一直線上に並ぶ我が社と富士山の不思議偶然か運命のいたずらか小松島市ハウスホールディングス本社ると驚いたことに、小松島の本社と富士山の山頂を結ぶ延長線上に、成田の下総松崎にある「大和の湯」という天然温泉の存在が確認できたのです。「大和の湯」と言えば、筆者が関与する事業の中でも、成田で最初に立ち上げた温浴施設であり、今日でも自社の重要な位置を占めています。その「大和の湯」が小松島の本社と富士山の山頂を介して一直線に連なっているということは、単なる偶然として片づけるべきでしょうか。それとも運命のいたずらというべきものなのでしょうか。本件の場合、意図的に拠点を一直線上に並べた訳ではないことから、レイラインの主旨とは大きくずれていることは明らかです。しかしながら、ぴたりと一直線上に並んでいることから偶然とも思えず、不思議な思いに浸ることがあります。少なくとも、自らが関わる会社の拠点同士が、富士山を介して一直線上に結ばれている、ということを知ること自体に何らかの意味があるようにも感じられ、いずれにしても、単なる偶然にしては、あまりにでき過ぎているレイラインとの遭遇に心が弾むこの頃です。現代では多くの地理情報が地図上に散在していることから、複数の拠点が一直線に並ぶという現象を目にすることは珍しくありません。中には、偶然に並んでいるようなものも、多々存在します。だからと言って、全部が偶然の一致と言い切れないのも事実です。実際、古代に建立された神社の位置付けを精査していくと、何もない森林の真ん中に場所が特定された聖地も少なくはなく、偶然、その場所を見つけたとは信じがたいのです。そのような辺鄙な場所に建立された多くの神社や聖地がレイライン上に一直線に並ぶことも、レイラインの構想が実は妄想ではなく、極めて現実的なものであったことの証ではないでしょうか。そして日本列島に潜む多くのレイラインの実態を調べていくと、そこは古代史に関するとてつもない情報の宝庫であることに気が付きます。レイラインが示唆するオノゴロ島の場所大陸から沖縄までの渡航経路を検証人類の歴史において船を用いた航海の歴史は長く、日本列島富士山大和の湯の周辺でも弥生時代以前、遥か昔から人々は船で大陸と島々を行き来していたようです。古代では様々な言い伝えや経験則に基づいて安全な海路を定め、天候を十分に確認しながら船旅をしたことでしょう。目的地が海を越えて遥か彼方に見える場合、課題は潮の流れと天候の変化に限られてきます。しかしながら、行き先が全く見えない遠距離の場合は、天体を観測しながら潮の流れや風向きを検証しつつ、船が進む方角を見極めることになります。古代、大陸から日本列島を目指して渡来してきた民にとって、台湾、与那国島、石垣島や宮古島などの八重山諸島を行き来する際には、次の目的地を遥か彼方に視認することができたため、およそ安心して航海することができました。しかしながら宮古島から先は、別次元の話となります。宮古島から沖縄本島までは黒潮の流れをうまく利用できるにしても270kmほどの距離があり、久米島までも220kmという長い距離となるため、目的地が目に入らないのです。よって、旅立つ際には方角、潮の流れ、風、その他、天候要因が綿密に検証されたことでしょう。では、古代の識者らは未知の世界への船旅に備えるために、どのような準備をしたのでしょうか。文明がまだ、さほど開化してない当時の状況を踏まえると、八重山諸島においても地理的に参照となる旅の基点がまず、特定されたと推定されます。古代の航海術においては天体観測が不可欠であり、山や岬など誰もが一見してわかりやすい地の指標を基点として定め、その情報をベースに旅の方角や距離感を見定めることが重要でした。ところが、八重山諸島界隈には地域の中心となるような際立つ指標がほとんどありません。何故なら琉球石灰岩が風化した土地が広がる島々が多く、宮古島や竹富島のようにおよそ隆起が少なく、平坦な地表の島々が並んでいるからです。唯一の例外が石垣島です。その北西部には、誰もが目を引きつけられる巨石が海岸沿いに聳え立っています。それが御神崎の磐座です。一見、自然に浸食した巨石が海中から立ち上がっているように見えますが、背後から見るその容姿は孔雀が羽を広げているようにも見えます。また、北東を向く正面部分は岩が切り落とされたような絶壁の様相となっており、もしかしたら人為的に岩が切り落とされたのかもしれません。御神崎という名称は、ヘブライ語でアンカー、碇、支えを意味する(o g e n、オゲン)と、見張り、ガードの(zakif、-2-ザキ)を合わせた言葉が語源となった可能性があります。すると、「オゲンザキ」または「ウガンザキ」は、「見張りのアンカー」、つまり旅の基点のような役割を意味する言葉になります。それは聖なる場所をも意味することから「御神崎」の漢字が当てられ、いつしか旅人の基点となる聖地として、古代の民から崇められるようになったと考えられます。御神崎から夏至の日の出が見える方角は、およそ63度です。実際に、そこから62度52分の方角へ向かって真っすぐに旅をすると、沖縄本島の最南端、糸満市の海岸近くを通り、斎場遺跡から5km少々東方に位置する久高島に辿り着きます。「神の島」とも呼ばれる久高島は、島全体が聖域化された神聖な島です。つまり、夏至の日に石垣島の御神崎から日の出の太陽を拝することは、同時に「神の島」も拝することを意味したのです。こうして八重山諸島の御神崎と「神の島」久高島は、夏至の太陽によって地理的に結び付けられ、聖地化されることになります。また、御神崎は旅の基点として久高島とだけでなく、他に少なくとも4本の重要なレイラインを構成しています。その線上には富士山、三輪山、伊吹山、六甲山など、古代から崇拝されてきた霊峰や、室戸岬、足摺岬などの地勢際立つ岬が並び、その中に日峰山がある小松島も含まれています。国生みの時代では、これら御神崎に結び付く地の指標が、列島内の拠点を定めていく上で用いられることになりました。久高島から上る夏至の日の出御神崎62度52分石垣島御神崎のレイライン御神崎27度8分石垣島沖縄本島那覇糸満市斎場御嶽久高島八重山諸島から北方へ向かう船旅は、行き先が見えないことから危険を伴いました。しかしながら、ひとたび黒潮の流れに乗って「神の島」、久高島に到達すると、その西方には思いもよらず、沖縄本島が隣接していたのです。巨大な沖縄本島の自然は豊かであり、渡来してきた旅人を癒す憩いの島として重宝されました。また、島の南西部には人が住みやすい平野が広がり、農作物の栽培に適した土地にも恵まれていたことから、そこが島の中心となりました。そして旅の噂を聞きつけた多くの仲間が八重山諸島から沖縄へと渡航し沖縄本島都井岬屋久島1 2伊吹山43六甲山富士山麻耶山伊弉諾神宮三輪山剣山小松島紀伊大島室戸岬足摺岬久高島1御神崎―剣山―伊弉諾神宮―摩耶山―六甲山2御神崎―都井岬―足摺岬―小松島―伊吹山3御神崎―屋久島―室戸岬―三輪山4御神崎―紀伊大島―富士山てくるにつれ、沖縄本島は徐々に栄え始めました。それ故、平野部一帯はいつしかヘブライ語で、人が群れを成すことを意味する(nahar,なは)という名前で呼ばれるようになります。この沖縄界隈に古代、高天原と呼ばれる場所が存在していた可能性があります。夏至の日に太陽が天空、すなわち、空の頂点近くを通る地域だからこそ、古代イスラエルの民にとって沖縄は、正に高天原と呼ぶに相応しい場所だったのです(詳細は「高天原のレイライン」参照)。大陸より渡来したイスラエル系の人々は、当初、台湾を経由して八重山諸島に渡り、石垣島や宮古島などの島々を開拓しました。その後、黒潮の流れに乗って豊かな自然の恵みに溢れる琉球方面へと旅立ち、石垣島の御神崎に紐付けることができる久高島と、巨大な沖縄本島を見出したのです。その話を聞きつけた大勢のリーダー達は、満を持して宮古島や石垣島より沖縄本島へと北方に向けて船で移動を開始しました。そして大陸から旅を続けてきた長老格のリーダーを含む大勢の渡来者が沖縄本島に到達し、そこに多くの集落が形成され、一大拠点としての様相を帯びてきました。それが高天原の原点であり、古代、沖縄周辺に存在したと考えられます。高天原からオノゴロ島への旅路日本書紀や古事記によると、古代、高天原の神々が一堂に会した際、列島の有様を調査し、国土を整備するために、伊耶那岐命と伊耶那美命をリーダーとする調査団が派遣されました。それが国生みの始まりです。渡来者の一大拠点となった高天原は今日の沖縄界隈に存在したと考えられます。しかしながら、神々を代表するイスラエルからの渡来者は沖縄周辺に拠点を設けた後も、船に乗ってひたすら東方へと航海を続けることを目指しました。何故なら、神が預言書を通じてイザヤに語られた約束の地、「東の島々」の存在を信じていたからです。また、夏至の日に太陽が天空近くを通る常夏の琉球地方は気温が高すぎることもあり、最終目的地とはなり得