ブックタイトル日本シティジャーナル vol.173

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概要

日本シティジャーナル vol.173

vol. 173ない場所でした。イスラエルの民は、祖国イスラエルの国家がある場所とほぼ同緯度に存在し、季節の変化がある新天地を探し求めていくことになります。そこで沖縄から北方に向けて見える近郊の島々を調査すると、北東およそ35度の方角に向けて、多くの島々がほぼ一直線に連なっていることが確認できたのです。直後、島々が連なる「東の島々」の場所を最終地点まで確認することが伊耶那岐命に命じられ、一行は沖永良部島から徳之島、奄美大島へと向かい、そこから更に北東方向へと進み、屋久島と種子島近郊を航海して、九州の南岸へと到達します。その西方にはエルサレムと同緯度に中甑島が存在します。よって祖国イスラエルの首都を記念すべく、同緯度の地点にある山は、ヘブライ人を意味するヘブライ山と呼ぶようになり、それが多少訛ってヒラバイ山となったのでしょう。後述するとおり、このヒラバイ山から夏至の日の出が見える、およそ60度の方向にある淡路島近郊の島が、国生みの原点となるオノゴロ島です。その後、黒潮の流れに乗って一気に進むと四国の高知沿岸が目に入り、室戸岬の東岸から更に北上を続けると、遠くに淡路島が見えてきます。琉球地方から天下り、船で長旅をしてきた先陣隊の一行は、巨大な淡路島とその向こうに立ちはだかる瀬戸内の沿岸を見据え、「東の島々」の最終地点にまで辿り着いたことを知りました。大阪湾を中心とする広大な陸地に突き当たり、それ以上、北方に向けて航海出来ないことが目視で確認できたからです。そして淡路島から列島の調査を開始するにあたり、まず、周辺の島々の位置付けを確認する必要性が生じ、そのために調査団の一行が上陸した拠点がオノゴロ島です。見晴らしの良い島の頂上からは、これまでの船旅の軌跡や淡路島周辺の島々の位置付けを確認することができたことでしょう。その基点となったオノゴロ島は、地理的にも重要な位置付けを占めていました。オノゴロ島の場所は何処にオノゴロ島が実在したかどうかについては賛否両論があります。しかしながら、古代の渡来者による船旅のルートを振り返り、順を追って行き先を想定し、時にはレイラインの考察の助けを借りて地理的諸条件を検討してみると、意外にも国生み神話に登場するオノゴロ島の比定地が浮かび上がり、実在した可能性が高いことがわかります。伊耶那岐命に導かれた国生みの調査団は、沖縄界隈の南方から南西諸島に沿って航海を続け、淡路島周辺に辿り着いた時点で、「東の島々」への船旅が終焉を迎えたことを悟った伊耶那岐命らは、淡路島から島々の調査を始めることになります。その前段階として、淡路島周辺に見える島々の位置付けを理解するために、それらを一望できる場所として淡路島の手前に浮かぶオノゴロ島が基点となる島として選別されたのです。後述するとおり、古事記の記述によるとオノゴロ島は淡路島から見えるほどの距離にあったことから、その場所は古代、広大な湿地帯が広がっていたと推定される今日の徳島市から阿南市に存在したと考えられます。オノゴロ島が国生みの基点として選別された理由のひとつに、淡路島を囲む地域一体を一目で把握することができる景色を、その山の頂上から眺望することができたことが考えられます。国生みの調査を開始するにあたり、周辺一帯の地理感を得ることは極めて重要でした。また、重要なレイラインの存在もオノゴロ島が特定された背景に絡んでいるようです。古代知識人の志向性や地勢感から察するに、列島の重要な指標同士を結ぶレイラインの活用は、未開の地における地勢感を培う上で不可欠だったと考えられます。もし、オノゴロ島が並ぶレイライン上に、複数の著名な山々や岬が存在するならば、単にオノゴロ島の場所が見つけやすくなるだけでなく、それら地の力を共有する貴重な場所として認識されることになります。驚くことに、著名な山々や岬などが一直線上に結び付くレイラインが複数存在し、それらが交差する場所が淡路島のそばに存在することを、今日でも地図上で確認することができます。それが徳島県小松島の日峰山です。今日、日峰山の東には海が広がり、北側は勝浦川の河口にあたるものの、西側と南側には平地が広がり、市街化が進んでいます。しかしながら古代では、これらの平地は湿地帯であり、それ故、日峰山は小松島というおよそ湿地帯に囲まれた海の中に浮かぶ島の中心だったのです。日峰山は古代から旅の指標として重要視され、頂上周辺では神が祀られました。標高は191mとさほど高くはありませんが、その頂上からの景色は実に素晴らしく、真北には吉野川の広大なデルタが広がり、北東方向には淡路島を一望することができます。そして東方には紀伊水道を越えて和歌山とその背後に聳え立つ吉野や熊野の山々を目にすることができ、東南方向には和田島と伊島を眺めることができます。そして西側には阿波の山々が見渡せ、その背後に四国の霊峰、剣山が聳え立っています。国生みの原点となる指標の島としては、正に絶好の場所に位置していたのです。オノゴロ島が小松島の日峰山であることを確認できるもう一つの手掛かりが、古事記で用いられているオノゴロ島の漢字表記です。オノゴロ島は天の沼矛(ぬぼこ)を用いて大地をかき混ぜ、矛から滴り落ちたものから出来上がった島として、「淤能碁呂島」と書かれています。これらの文字からも、日峰山との関連性を見出すことができます。オノゴロ島の名前の所以には定説がありません。漢字で自凝島と表記されることもあることから、一説では自然と凝り固まって形成された島、とも考えられています。これらの当て字に使われる漢字を選別するにあたっては、伝えたい意味を含む文字が厳選された可能性があることから、オノゴロ島の意味を理解する手掛かりを、淤能碁呂という漢字の意味から考えてみました。「淤」は泥、沼を意味することから、湿地帯の中にオノゴロ島が存在するイメージが浮かび上がってきます。そして「能」は、何か実現することができることを意味します。次の碁の「其」は、縦横組み合わせた四角形を指し、それに石へんを合わせると、穀物を振るうために用いる竹で組まれた農具を指すことがあります。また、2人が対局して交互に打ち合う「碁」の字でもあり、その盤上にも四角の升目が組まれています。最後の「呂」は、中国語で陰の音律を示し、並んで続くことを意味する象形文字です。すると「淤能碁呂」とは漢字の意味からして、湿地帯の中から出来上がった島であり、その形状は、四角形に似た形をした2つの島が地続きに並ぶような「呂」の形を成している可能性が見えてきます。小松島の日峰山は、正にそれに該当する場所です。日峰山の裾から隆起している部分だけを、古代では湿地帯の中に浮かび上がっていた小松島に近い形状と想定すると、南北2つの隆起した島が地続きになって一体化した島であり、「呂」という漢字の形をしているようにも見えます。それ故、象形文字のような意味あいで、「呂」という漢字が当てられたのかもしれません。「呂」のような形をしている日峰山更に日峰山がオノゴロ島であることを裏付ける資料として、注目すべきデータが古事記の記述で-3-す。下巻の仁徳天皇の章には、天皇の切ない恋心について詳細が記載されており、その歌の中に、オノゴロ島についての記述が含まれています。あ佐気都志摩(伊島)沼島る日、天皇は恋する黒日売(くろひめ)にどうしてもお会いされたく、姫が住まわれる吉備国へ向かおうとされました。しかしながら、直接吉備国へ向かっては、嫉妬深いお妃様の不信感を取り除くことはできません。よって、淡路島の北方には旅することができませんでした。その先に黒日売の住む吉備国があることから、お妃の怒りをかうことは明らかであったからです。そこで仁徳天皇は、「淡道島を見むと欲ふ」と語った後、難波(大阪)から淡路島の南端へと向かい、そこで歌をお詠みになられました。淡路島でのアリバイを確固たるものとした後、南端を回って吉備の国に向かおうとされたのです。仁徳天皇が淡道島の高台に行幸された際、そこで詠まれた歌の内容に注目してみましょう。古事記には、「坐淡道島遙望歌曰」と記載されています。仁徳天皇は淡路島の高台に来られた際、「遙望」というお言葉をもって遥か遠くに見える島々の景色をお詠みになられました。島々を遠くに眺めることができるのは、淡道島では南端しか考えられないことから、この記録は仁徳天皇が淡路島の南端にいることの証でもあります。その歌の中に淤能碁呂島が含まれています。原文では、「和賀久美礼婆阿波志麻淤能碁呂志摩阿遅麻佐能志麻母美由佐気都志麻美由」と記載され、その読みを現代の書き方に直すと、「我が国見れば淡島オノゴロ島、檳榔(アジマサ)島も見ゆ離つ(さけつ)島見ゆ」、となります。難波の岬から旅立ち、淡路島の高台から国土を展望した仁徳天皇が目にしたのは、淡島とオノゴロ島、檳榔の島、そして佐気都島という4つの島でした。淡路島から見ることのできる島々は、紀伊水道の伊島より北方に限られることから、どの島も淡路島からの距離はさほど遠くはなかったと考えられます。仁徳天皇が最初に目を留められたのが、淡路島から南方に向かってまず右側の一番手前にみえる阿波志麻(淡島)でした。諸説はあるものの、阿波志麻とは阿波の国の中心地近くに浮かぶ島であり、今日の徳島近郊に存在したと考えられます。古代、吉野川のデルタ周辺一帯は広大な湿地帯に囲まれ、その一角に淡檳榔島(鍛冶ヶ峰)淤能碁呂島淡島(小松島・日峰山)(眉山)諭鶴羽山島が存在したに違いないことから、淡島とは徳島市の眉山ではないかと考えられます。眉山の周辺は古代、湿地帯に囲まれ、島の様相を呈していたと想定されます。ところが眉山の背後に連なる阿波の山々と眉山の裾野の区切りは明確ではなく、背後の山々が眉山に隣接していたことから、淡島をひとつのれっきとした島として認知するには不十分だったようです。それ故、オノゴロ島の後に見出された淡島は、「島たりえなかった不完全な島」として、あわあわとして頼りないことを意味する「淡」という文字が用いられて古事記に記されたのでしょう。仁徳天皇が淡路島からご覧になられた島々の中で、2番目として、お目につけられた島が、淤能碁呂島でした。淡島の比定地を徳島市の眉山とするならば、仁徳天皇が淡島の次に目を留められた島であるオノゴロ島は、眉山、淡島からさほど遠くない場所にあったはずです。前述したとおり、その場所は小松島の日峰山であったと考えられます。今日の眉山から東南方向に7.5kmほどにある日峰山は、古代、湿地帯の中に浮かぶ島の中心であり、淤能碁呂島の比定地として最も理に適っています。次に仁徳天皇が目を留められたのが檳榔島(あじまさ)です。日峰山からおよそ南方向へ15kmほど進むと、標高228mの鍛冶ヶ峰がありますが、これが檳榔島の正体ではないでしょうか。小松島と伊島の間に見える島は、今日、古代でも鍛冶ヶ峰しかないからです。鍛冶ヶ峰には檳榔(ビロウ)と呼ばれる亜熱帯性植物が生えていた可能性も否定できず、その島は、いつしかアジマサ島と呼ばれるようになったのでしょう。淡島、淤能碁呂島、更には阿遲摩佐能志(あじまさのしま)を見渡した後、仁徳天皇は最後に佐気都志摩美由(さけつしま)を遠くに見届けられました。古代の海岸線を前提に考えると、淡路島の南方から遠くに見ることのできる島とは、向かって西の小松島の日峰山淡路島