ブックタイトル日本シティジャーナル vol.174

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日本シティジャーナル vol.174

2016年(平成28年)7月30日発行第174刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 174Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部日本のレイライン-最終回続編太陽の動きを指標として新天地を見出した古代の民2015年6月21日、インドの首都デリー市の大通りに3万6千人が集まり、モディ首相と共に、大勢の人がヨガを実践しました。モディ首相が提言された「ヨガの国際デー」が前年の国連総会にて、夏至の日にあたる6月21日東に制アジア定されたことから、史を記塗念すり替をえたイスラエル行っています。また、南米のペ民族は沈大みます。移夏動至の日の潮出の方流角べき第1回目が実施されたのです。インドで広く信仰されているヒンドゥー教では、太陽のエネルギーが最大級に肌で感じられる夏至の日は、精神的な鍛練をするに相応しい日として重要視されてきました。夏至の日とは昼の時間が最も長く、夜が最も短い日を指し、北半球では毎年6月21日頃になります。日本最南端の有人島である波照間島のおよそ70km南方となる北緯23度26分の北回帰線上では、夏至の日に太陽が天空、すなわち、天の一番高いポイントを通り抜けます。よって波照間島を含む八重山諸島界隈では、例年夏至の日に、およそ天空を通る太陽を見ることができるのです。人類にとって、太陽の光と熱は生命体を維持するために不可欠であることから、古代より太陽は、生の象徴として大切に崇められてきました。それ故、太陽が最も長い時間、天を通り抜ける夏至の日が特別視されたことは言うまでもなく、太陽信仰に纏わる祭祀活動が世界各地で広まっていくことになります。今日、インドに限らず、世界中で大切な祭りや催し物が夏至の日に執り行われています。北欧では夏至の日は白夜となり、古代から子孫の繁栄を願うとともに将来の伴侶を見つけるための祭りが開催されています。同様に、ス御神崎のレイライン台湾与那国島西表島御神崎石垣島宮古島沖縄本島久高島屋久島ラブ諸国でも夏至祭において子孫の繁栄と豊作が祈念され、各地で人々が集まり、神を祀っています。さらにアジア諸国でも夏至の日に祭祀活動が執り行われ、中国の雲南省墨江県では、ハニ族の人々が太陽神を崇める祭りルーでは夏至の日に、インティライミと呼ばれる重要な太陽の祭りが催されています。そのルーツには太陽、すなわち「インティ」を、神として崇めてきたインカ帝国の存在がありました。そして古くから夏至の日に人々は町中を踊り歩き、太陽に生贄を捧げながら祈り、神の祝福を念じてきたのです。インカ帝国の歴史的背景には13~4世記に栄えたクスコ王国が存在することが知られていますが、夏至の日に関わる信仰は、それ以前、古代より続いていたと考えられます。夏至の日に祭事を行う風習は、遠い古代にまで遡ることができ、その事例を今日でも確認することができます。イギリスのストーンヘンジにある巨石の遺構では、中心にある祭壇石とヒールストーンと呼ばれる巨石を結ぶ線上に昇る太陽を崇めることができるよう、巨石の位置が綿密に設計されています。ストーンヘンジで見る夏至の日の太陽の日差しは、いつの時代でも多くの感動を人々にもたらしたことでしょう。今日でも大勢の人がストーンヘンジを訪れ、巨石から射す夏至の日の出を崇めています。大陸より日本列島に到来した古代の渡来者も、同様に太陽の動きや天空の事象を細やかに検証しながら、新天地となる島々の位置付けを覚え、それぞれに拠都井岬1 2 4伊吹山富士山六甲山3摩耶山伊弉諾神宮三輪山剣山小松島紀伊大島室戸岬足摺岬27度8分1御神崎―剣山―伊弉諾神宮―摩耶山―六甲山2御神崎―都井岬―足摺岬―小松島―伊吹山3御神崎―屋久島―室戸岬―三輪山4御神崎―紀伊大島―富士山点を定めていきました。それ故、NCJ109日本とユダヤの夏至の日の出をハーモニーから示す方角は続常くに注目され、時には夏至の日の沈む方角も重要視されました。夏至の日には真東よりもおよそ30度北側の方角から太陽は昇り、真西よりもおよそ30度北側の方角に日とは、その線上の先にある地点から逆に見れば、およそ冬至の日の沈む方向であり、また、夏至の日没とは、その方角にいる相手側から見ればおよそ冬至の日の出の方角にあたります。日本列島に渡来した古代の民は、島々の随所に拠点を見定める際、特に夏至の日の出に注視して太陽の動きを観察しながら、それらの位置をわかりやすく関連付けるように工夫を凝らしたと考えられます。八重山諸島から日の出の旅立ち古代、「東の島々」を探し求めて西アジアからアジア大陸を海岸沿いに航海し、日本列島に到来した民にとって、大陸から台湾、そして八重山諸島へと向かうことは難しくありませんでした。何故なら、大陸の最東端から台湾最終編までの距離は140km弱、台湾の東岸から与那国島まではおよそ100 kmであり、どちらも出発点から目的地を遠くに眺めることができたからです。古代の航海術を熟知した民にとって、目視で到達点が確認できる地へと旅することには安心感が伴ったことでしょう。そして与那国島から東方の竹富島へ向かうも70km弱の距離であり、そこから更に石垣島、多良間島へと島々が連なり、伊良部島や宮古島までも難なく到達できたのです。大陸から台湾を経由して日本列島の入り口に到達した後、およそ安全に船で行き来できる距離に8つの主だった島々が短期間で見出されました。神の恩寵に感謝を捧げる意味も含め、それらの島々はヘブライ語で「神」を意味する「ヤヘ」の発音にかけて「八重」となり、いつしか「八重山諸島」と呼ばれるようになりました。ところが、大陸から渡来した人々にとって、八重山諸島は最終目的地に成り得なかったのです。西アジアから到来したイスラエルの民は、神が預言者イザヤを通して語られた「東の島々」を探し求-1-めて旅を続けてきました。しかし最初に到達した八重山の島々は、あまりにも小さく、その後、大陸から後を追って渡来する何十万もの民が共に居住して国家を形成するには事足りなかったのです。また、居住環境も異なり、従来、住み慣れていた西アジアの気候とはかけ離れていました。八重山諸島は赤道に近く、太陽が天空近くを通り過ぎることから気温も通年高く、四季もなく、農耕作や家畜の飼育にもさほど向かない風土を有していました。よって、祖国と類似した天空の事象や気候を持つ新天地を求め、イスラエルから渡来した民は有無を問わず、八重山諸島から北方に向けて旅立つことになったのです。しかるに、どんなに天気が良い日でも、宮古島の北東にある池間島から列島沿いに並ぶ次の久米島まで220 kmも離れており、その到達点を見ることができません。ましてや280kmも離れた沖縄本島などは、到底見えないのです。そこで重要視されたのが、夏至の日の出方向をひたすら目指して船で向かう「信仰の船旅」です。そのため、八重山諸島内をくまなく行き来する中、まず、地域の指標となる一つの巨石が見出されました。海の中に浮かぶその巨石は、八重山諸島の重要な指標として大陸から到来する民により崇められることになります。それが、石垣島の北西に位置する御神崎です。岸壁沿いにぽっかりと浮かぶ巨大な岩は、自然の波によって削られたとは思えないような不思議な形状を持つ海の巨石として知られています。おそらく古代の民は、八重山諸島の指標として末長く認知されるように、この巨石の先端を意のままに伐り落とし、既存の形のようになるまで手を加え、それが長い年月を経て波に打たれつつ角が削られ、現在の形状に至ったのではないでしょうか。そしてこの巨石を、旅人を導く重要な地の指標とすべく、神の名を用いて「御神崎」と命名したと考えられるのです。石垣島の御神崎は、日本列島内に指標となる拠点や聖地を見出し、それらを地理的に結び付けていく上で、極めて重要な基点となりました。御神崎から鹿児島の最南端までおよそ1000km、足摺岬までは約1270km、三輪山まで1600km、そして富士山までは1850km以上もの距離があります。このような長い距離のレイラインを想定しつつ、拠点同士を結び付けて山々を特定するということは、常識ではなかなか考えられないことです。しかしながら1本ずつ地図上に線を引いて確かめていくと、確かに御神崎を基点として、海上からも視認性の高い九州や四国の岬や、紀伊半島最南端の島を直線で結んだその先々には、富士山を筆頭に、三輪山、剣山、摩耶山、六甲山、伊吹山など、古代の霊峰が名を連ねているのです。これを果たして偶然と片付けてしまうことができるのでしょうか。古代人の英知はもしかして、私たちの想像を遥かに超えたものであり、その優れた地勢感と天文学に助けられ、御神崎と日本列島の特異な地勢を結び付けながら、その一直線上の先に指標となる霊峰を特定し、島々の地勢と土地感を短期間で習得していた可能性があります。八重山諸島から先、日本列島に沿って北東方向へ向かう船旅は、行き先が全く見えないほど距離があることから、強い信仰心が求められたことでしょう。そして幾度となく海洋に浮かぶ島々の調査を経た結果、御神崎を八重山諸島の基点として、そこから夏至の日の出方向に浮かぶ沖縄本島の南方に隣接する小島を見出したのです。それが、後に「神の島」として知られるようになる久高島です。御神崎から夏至の日の出は、63度38分を指します。その御神崎から北東方向、およそ63度の方向に400km少々向かうと、沖縄本島の南岸近くを通り、更に直進すると久高島があります。八重山諸島からは行き先も見えず、神を信じて命をかけて旅立った者のみが、見出すことができた島だからこそ、正に「神の島」と呼ぶに相応しい神聖な島として、古代より崇められるようになったのでしょう。石垣島から427kmもの船旅は、夏至の日に太陽が昇る方角に旅することで、最終目的となる久高島に到達することができたのです。久高島から上る夏至の日の出御神崎62度52分石垣島沖縄本島那覇糸満市斎場御嶽久高島東の島々を貫く最長のレイライン石垣島の御神崎から夏至の日の出方向に見出した神の島、久高島に到達した古代の民は、隣次頁に続く