ブックタイトル日本シティジャーナル vol.174
- ページ
- 2/4
このページは 日本シティジャーナル vol.174 の電子ブックに掲載されている2ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 日本シティジャーナル vol.174 の電子ブックに掲載されている2ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
日本シティジャーナル vol.174
2016年(平成28年)7月30日発行第174刊毎月第3土曜日発行購読無料那覇のレイライン屋久島奄美大島徳之島沖永良部島与論島那覇沖縄本島石鎚山接する沖縄本島の大自然と恵まれた環境を目の当たりにし、喜び勇んで移り住んだことでしょう。沖縄本島は南の糸満市平和之塔から北方の辺戸岬まで100km以上もの距離があり、島は豊かな自然の恵みに溢れていました。その南方に位置する国場川の河口周辺は、八重山諸島から船で到来する民が最初に着岸しやすい地点であり、集落を形成するにも相応しい地勢を兼ね備えていたことから、古代拠点となる一大集落が出現することになります。そこは今日の那覇周辺であり、人々が安らぎを得た素晴らしい新天地であったことから、その町はヘブライ語で「安息」「休息」を意味する「ナハ」という名前で呼ばれました。また、「ナハ」はヘブライ語で「川」をも意味します。那覇の中心を流れる国場川は、大陸から「東の島々」に渡来した民が目にした、島に存在する最初の川だったのです。よって、那覇は川の流れる安らぎの地として知られるようになり、そこでも神が祀られるようになりました。しかしながら、沖縄の那覇は最終到達点ではなく、その先にまだ、「東の島々」が続いていたのです。ところが沖縄から夏至の日の出方向を見ても、そこには太平洋の海原が広がるだけです。それ故、目的地を見定めて船旅を続けるためには、別の手段を講じなければなりませんでした。周辺の島々を調査してすぐに分かったことは、南北に広がる沖縄本島の細長い形状に沿って、那覇からおよそ3 5度の方角、北東方向に島々が連なっていることです。沖縄本島の25 km先には与論島が見え、その先には沖永良部島、徳之島、奄美大島と続きます。そしてこの35度線を奄美大島から延長すると、四国を越えて淡路島の中心を通り抜けます。淡路島は3 5度線上に並ぶ島であり、その北方は本州の沿岸に突き当たることから、それ以上先には船で進めません。よって、古代の民は沖縄から黒潮の流れに乗って北上し、島々が連なる延長線の最後にある淡路島へと向かうことになります。日本書紀や古事記に記載され35°線至八戸2 34伊吹山1御在所岳神籬石35°三輪山天香具山室戸岬蒲生田岬1那覇―屋久島―石鎚山2那覇―神籬石―八戸3那覇―室戸岬―蒲生田岬―伊吹山4那覇―天香具山―三輪山―御在所岳ている国生みの話の中で、伊耶那岐神による島々の探索が淡路島から開始された理由は、そこが日本列島の中心地と考えられたからではないでしょうか。実際、淡路島には古代の指標として大切に祀られた神籬石が、岩上神社の境内裏に存在します。この35度線を淡路島から更に本州の北東方向へ延ばすと、日本海の佐渡島沿岸を抜けて東北の青森、今日の八戸市にあたります。「はちのへ」は「ヤヘ」と読むこともできます。八戸市は馬淵川や新井田川のデルタが広がる河口周辺に造られた港町であり、那覇と日本列島中心の神籬石を結ぶ線上にある神に導かれた町として、いつしかヘブライ語で「神」を意味する「ヤヘー」と呼ばれるようになりました。そして後に「八戸」という漢字があてられ、「はちのへ」と読まれるようになったのでしょう。沖縄那覇を発端とするこの35度線は、古代、極めて重要な意味を持っていました。それは「東の島々」の中心を貫く最長のレイラインであり、淡路島の中心である神籬石と、沖縄の那覇、そして東北の八戸を結ぶ、日本列島の基軸となる線だったのです。古代の民は、日本列島の島々が海面下に存在する深い海溝に沿って存在し、それらがほぼ平行して日本列島と連なっていることに気が付いていたのかもしれません。そして国生みの最北端となる地域の中心が「ヤヘ」と呼ばれたように、その原点となる南方の沖縄では、隣接する伊平屋島の海岸にある巨石も「ヤヘー岩」と呼ばれ、こうして国生みの原点となる南方の沖縄から北方の八戸に至るまで、新天地は「ヤヘ」という地名に囲まれた神の選民の島々として古代の民から認識されるようになったのです。屋久島と結び付く聖地の数々「東の島々」を探し求めて八重山諸島から沖縄本島を経由し、船を用いて南西諸島沿いに北上してきた民が最初に注目した島は、屋久島でした。奄美大島の北北東方向におよそ200km少々離れている屋久島は、南北には約27km、東西には28kmほどしかなく、面積も淡路島より若干小さい程度であるにも関わらず、琉球に存在する島々とは異なり、標高1935mの宮之浦岳が島の中心に存在し、西日本最高峰である四国の石鎚山に匹敵する高さを誇ります。よって、天気の良い日は、遥か遠くの海原からでも屋久島を眺めることができます。屋久島は島全体が山々で覆われ、大自然の森林で育まれたヤクザルやヤクジカなどの野生哺乳類が生息し、洋上のアルプスとも呼ばれています。それらの山々は八重岳とも呼ばれ、日本列島最南端に連なる八重山諸島と同一の名を持つことからしても、南西諸島の中で重要な位置を占めています。八重山諸島や沖縄方面から船で島々を渡りながら長旅をする民にとって、屋久島の存在は重要でした。それは沖縄界隈のように標高が低い島々とは違い、遠くから目視で確認できるほどの大きな山であっただけでなく、レイラインの繋がりにおいても重要な位置を占めていたからです。沖縄本島の基点は那覇周辺でも国場川の河口周辺にあたり、今日、琉球八社の一つである沖宮が建立されている場所の近郊ではなかったかと考えられます。西方の海岸には波上宮の巨石もあり、地域全体が集落を形成するに相応しい地形を有し、自然の環境に恵まれていました。その基点となる那覇と屋久島の中心点となる山頂を結び、そのまま北北東に真っ直ぐ伸ばすと、その線は西日本最高峰の四国石鎚山の山頂に繋がります。那覇の集落は、元来、石鎚山と屋久島に結び付くべく、レイライン上に並ぶように綿密に計算されていたのかもしれません。渡来者が日本列島に到来した初期の時代から、石鎚山は沖縄の那覇に結び付く山として一目置かれ、やがて霊峰として、その存在を極めていくことになります。屋久島を通るレイラインが、もう一つ存在します。それが宮古島と淡路島の神籬石を結ぶ線です。八重山諸島の中でも、宮古島は古代から祭祀活動が盛んな島のひとつであり、島の至る所に御嶽と呼ばれる祭祀場が存在します。その宮古島の中心となる標高109mの野原岳からおよそ38度の方角に真っ直ぐ進むと屋久島があり、更にその線は、淡路島の中心に位置する岩上神社の神籬石にあたります。つまり、宮古島から屋久島の方角を見ることを想定すると、その先には神籬石が存在し、那覇からみると、屋久島の先には石鎚山が聳えたっているのです。淡路島と石鎚山は、国生みの話に登場する地名であることからしても、それらが屋久島を通じて大陸から日本列島の入り口となる琉球の宮古島と沖縄那覇と繋がっていることは興味深いことです。屋久島から夏至の日の出を見ると、その方角はおよそ61度となります。その一直線上の先には伊豆諸島があり、神津島(こうづしま)と三宅島の中間を通り-2-抜けます。神津島では石器時代から、人々が神津島と本州を船で行き来しながら、石器の原材料を輸送していたことが、様々な発掘調査などからわ那覇かってきました。野原岳神籬石と石鎚山宮古島に繋がる屋久島から見て、夏至の日の出方向に浮かぶ島であったからこそ、伊豆諸島の島々に由来する神々が集まる場所として神集島とも呼ばれ、その後、神津島という名称に落ち着いたのかもしれません。また、屋久島から真北に進むと、九州の北方沿岸近くの大島に建立された宗像大社中津宮にあたります。そこは屋久島の経度線と、足摺岬から見て夏至の日の入りとなる299度の線が交差する場所です。中津宮が屋久島の真北に存在し、足摺岬の夏至の日の入りとも繋がっていることは、どうやら偶然とは言えないようです。宗像大社の創設にも屋久島の存在が関与していたと考えられます。中甑島から見る夏至の日の出の重要性屋久島の北方、矢筈崎から九州最南端の佐多岬までは、およそ60kmの距離があります。そこから先、西方には枕崎市を越えて薩摩半島があり、北東方向には大隅南部の海岸線が伸びているため、海上からの視界は遮られています。それでも古代の渡来者は有無を問わず、もう少々、北方を目指して船旅を続けたことでしょう。何故なら、西アジアから到来した民にとって、祖国イスラエルの神殿があるエルサレムと同緯度に並ぶ地域まで到達することが、旅の通過点としてまず重要だったからです。その場所から見る太陽は、エルサレムで見た太陽の動きと全く同じです。それ故、九州の南端に到達した後、まず、その西岸を北上して探索を続け、エルサレムと同緯度である北緯31度47分の地点にある中甑島に到達したのです。中甑島の南端には、ヒラバイ山と呼ばれる標高156mの山があります。現地を見ても、周辺一帯は単なる丘陵の連なりだけにすぎず、山らしい山を見つけることができません。そのような島の様相の中でヒラバイ山が特定され、わざわざ「ヒラバイ」と命名された理由は、イスラエルのエルサレムと同緯度に存在す屋久島のレイライン伊平屋島ヤヘー岩伊江島城山沖縄本島和多都美神社中津宮石鎚山宗像大社沖縄本島宗像大社屋久島29°屋久島船木神社のレイラインヒラバイ山日向(古代)28°30′29°30′鹿児島県日置市吹上町船木神社剣山岩上神社(神籬石)足摺岬神津島三宅島る小高い丘であったからに他なりません。それ故、その山はイスラエルの民を意味する「ヘブライ」と呼ばれ、それがいつしか訛り、「ヒラバイ」として知られるようになったと考えられます。ヒラバイ山から北北東に6kmほど向かうと、上甑島西岸の岬に甑大明神と呼ばれる巨石が御神体として祀られています。甑島という名称の発祥の地とも言われ、自然に浸食したとは考えづらい巨石の容姿は、古代の目印となるべく人の手によって削られたものでしょう。甑大明神と四国石鎚山を結ぶ線上には高千穂峡の天岩戸神社や高千穂神社があります。高千穂は、沖縄本島に隣接する伊平屋島の古代指標であるヤヘー岩と桜島を結ぶ線上にもあることから、これらの聖地はヒラバイ山が見出された直後、桜島や沖縄のヤヘー岩などを指標として短期間のうちに特定されたと考えられます。そのヒラバイ山から夏至の日の出を拝むと、その方角はおよそ61度となります。エルサレムと結び付く重要な指標であっただけに、ヒラバイ山から見る夏至の日の出は神聖なものだったに違いありません。ヒラバイ山から59度46分の方角には三輪山があり、同一線上には葛城山と大神神社が並びます。そして59度53分には橿原神宮、60度05分には金剛山と飛鳥寺、60度58分の方角には丹生都比売神社が建立されています。いずれもヒラバイ山から見て、夏至の日の出方向とほぼ一致します。ヒラバイ山に到達したイスラエルからの渡来者は、新しいエルサレムを東の島々にという悲願を達成すべく、ヒラバイ山からも夏至の日の出方向に船旅を続けながら日本列島をくまなく調査し、八雲山出雲大社神籬石29°20′(岩上神社)石鎚山足摺岬剣山室戸岬諏訪大社伊雑宮富士山