ブックタイトル日本シティジャーナル vol.174

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概要

日本シティジャーナル vol.174

vol. 174その結果、山々に囲まれた美しい奈良盆地を見出したのです。こうして古代、奈良の三輪山を中心として、日本国家の礎が築かれていくことになります。日置から日向へ繋がる夏至の日の出とは中甑島のヒラバイ山にて祖国エルサレムを拝し、近くに甑大明神と呼ばれる巨石を削り、一大指標として見届けた後、古代の民は再び海を渡り、東方へと向かうことになります。九州西岸までは30km少々で辿り着くことができることから、まず鹿児島西岸を南下して桜島の南方から鹿児島県の東方へと向かう訳です。その際、鹿児島の沿岸に拠点を設け、そこを休息の地としたのではないでしょうか。島々の沿岸に到達した際、古代の民は必ずと言ってよいほど、船を停泊させる場所を綿密に計算し、わかりやすい場所で、しかも安全な港となる地を探し求めることを常としていました。決して考えもなく船を着岸させるようなことはなかったのです。ヒラバイ山から逆戻りして鹿児島の南方へと船で向かう際、やはり太陽が昇り降りする方角が指標として検討されたことでしょう。船はヒラバイ山から鹿児島の南方に向けて東南方向に航海することから、鹿児島の西岸から見て、夏至の日に太陽が沈む日の入りの方角にヒラバイ山が存在する場所が求められたのです。すると鹿児島県日置市の南方周辺から見る夏至の日の入りの方角にヒラバイ山があることがわかります。その地域からの夏至の日の入りの方角は、およそ298度30分であることから、日置市吹上浜東方、小野川の上流にあたる吹上町田尻という場所がピンポイントで探し出されました。今日では海岸より3 kmほど内陸に位置しますが、古代ではその周辺に海辺が広がっていたと考えられます。そこには船木神社が建立されており、古代、大陸より船で渡来した海洋豪族の船木氏が建国に関わるべく、国生みの御一行を船で導き、九州西岸に最初の港となる拠点を設けた結果、神社が造営されて、船木と名付けられたのでしょう。ヒラバイ山に到達し、エルサレムと同緯度まで船で北上してきたということは、「東の島々」の探索が最終段に入ったことを意味していました。そして再び太陽を見ながら東方への船旅を続けることになります。太陽の動きを検証する基点としては船木神社が九州でも最西端の場所にあることから、そこが太陽を目視する基点として重要視されるようになり、船木神社周辺の集落は「日置」と名付けられたのです。日置の船木神社から船出して東方に向かう際、船木神社の位置付けは、日本列島内に古代の港を造成する場所を見出すための「夏至の日の出のレイライン」を検証する基点として重要視されました。日置から夏至の太陽を見ると、その日の出はおよそ61度30分の方角にあたります。船木神社から61度19分の方角には四国の足摺岬があり、夏至の日の出方向とほぼ一致します。その夏至の日の出の線が宮崎県の沿岸と交差する場所が、九州東岸の古代拠点、日向ではないかと想定されます。そこは今日、一ツ瀬川の河口にあたり、古代、海岸線がもう少々内陸側に入り組んでいたことを想定すると、日の出の線と海岸が交差する地点は、本庄川と大淀川が交差する国富町の周辺だったかもしれません。いずれにしても、日豊本線の電車が通る日向住吉から日向新富間を南北の境とし、その近郊に古代の日向が存在したことは、複数の日本のレイラインが示唆していることでもあり、信憑性は高いと言えます。こうして九州南端の日の出の基点が「日置」と呼ばれ、その東岸にあたる場所は日が昇る方向として「日向」として知られるようになったのでしょう。さて、船木神社から日向の港を越えて夏至の日の出方向に真っ直ぐ進むと、足摺岬だけでなく、その先、約61度の方角には室戸岬も見えてきます。本州に到達した後、その延長線を目指して紀伊半島の沿岸を進むと、その東方にある伊雑の浦にあたります。そして船木神社から見た夏至の日の出の線、すなわち船木神社と足摺岬、室戸岬を結ぶ線と、淡路島神籬石の緯度線が、伊雑の浦の沿岸にて交差する場所がピンポイントで特定され、そこに伊雑宮が建立されました。鹿児島西岸の日置に造られた船木神社を基点として、九州の東岸には日向の港が、そして足摺岬と室戸岬を越えた延長線上にある伊雑の浦沿岸には、伊勢神宮の原点となる元伊勢屈指の古代聖地として名高い伊雑宮が夏至の日の出レイライン和多都美神社宗像大社中津宮天岩戸神社29°10′高千穂ヒラバイ山29°29°40′日向(古代)28°30′29°30′日置船木神社至那覇屋久島建立されたことは偶然ではありません。沖縄から北上してきた古代の調査団は、短期間のうちに夏至の日の出と日の入りの方向を検証しながら、エルサレムと同緯度のヒラバイ山から日置の船木神社の場所を特定し、そこを基点として日向と伊雑宮の聖地を見出すことができたのです。そして伊雑宮と神籬石を結ぶ同緯度線上の西端では、対馬の沿岸に和多都美神社が建立されたことも特筆に値します。さらには日置の船木神社は、日本海側に存在感を示す出雲の聖地ともレイライン上で結び付いています。日本列島を探索した古代の調査団は、最終的には日本海側へも船で回り、そこにも拠点を見つけなければなりませんでした。そして唯一、見出された船の着岸地が出雲だったのです。それは偶然、その場所に辿り着いたということではなく、太陽の動きを検証しながら見出されたのです。淡路島の中心にある神籬石から夏至の日の入りはおよそ299度50分です。その日の入りの線は出雲を通り抜けています。また、日置の船木神社と沖縄界隈の指標である伊江島と伊平屋島のヤヘー岩を結び、北方に向けて一直線に延ばした線も出雲を通ることから、2本の線が交差する場所に出雲が存在します。そこには出雲大社の御神体とも噂される八雲山が聳え立ち、神籬石から見ると299度17分の方角に位置することから、夏至の日の入りとほぼ同じ角度にあることがわかります。出雲の八雲山八幡山八雲山出雲大社近江神宮六甲山30°09′29°52′三輪山伊雑宮神籬石丹生都比売神社石鎚山(岩上神社)剣山足摺岬は、神籬石を基点として夏至の日の入りの方角に見据えられただけでなく、沖縄と日置の船木神社ともレイライン上で結び付いていたことは、沖縄が日本列島への南の玄関であったと同様に、出雲の八雲山が日本海沿岸の玄関となるべく古代の重要港としてとても重要な位置付けにあることを知らしめる要因となりました。終わりに室戸岬29°50′30°00′古代の民がどんな船を用いて、どのように船旅を計画し、航路を定めたか、その詳細については今日、知る由もありません。しかしながら、彼らの軌跡を振り返ると、そこには確かな地勢学と計画性に基づいた航海プランがあったとしか考えられません、一定の規則に基づく移動のパターンが存在します。その結果、日本列島の随所には古代から港が造られ、また、荒地であった内陸にも集落が形成され、国家が発展することになりました。古代の民は、私たちが想像する以上の科学的知識や、経験則に基づく航海術を携えていたことに違いはなく、その結果、西アジア、そしてアジア各地からも大変優秀な人々が、神が約束された「東の島々」を慕い求めて、遠路はるばる日本まで船で到来してきたのです。古代の優れた移民の存在があったからこそ、今日の日本は、一見、単なる島国のように見えても、諸外国いずれにもひけをとらない独自の優れた文化を培ってくることができました。私たちのDNAの中には、古代、危険をいとわず、命をかけてまで荒海を渡諏訪大社阿久遺跡(守屋山)富士山り、新しい夢の国を創世するために日本列島に到来し、多くの困難に打ち勝ちながら尽力した人々の要素が多分に含まれているのではないでしょうか。その大切なルーツを、今日私たちはレイラインというツールを用いて地図を検証しながら、古代人の優れた考え方と理性を垣間見ることができます。神が約束された「東の島々」が本当に存在することを信じてやまない熱心な信仰者が大勢存在したからこそ、多くのイスラエルの民が日本に渡来し、日本国家の礎を築いていきました。その詳細が日本書紀や古事記にも神話化されながらも、つぶさに明記されていることに感動を覚えている人は少なくないでしょう。日本の国が神から愛された国であり、日本人は世界に貢献すべく、常に神に導かれてきた民族であることを誇りに思っても良いのではないでしょうか。それらの証として、日本には多くのレイラインが存在し、そこに古代人の英知が結集されています。比類なき古代の歴史を誇る日本ならではの、大変複雑な地勢と歴史の検証にはなりますが、幸いにもレイラインとは、現実に地図を見てほとんど確認できることから、検証している本人が、素直に理解し、古代人の英知を信じるかどうかだけです。日本はこれからも多くのチャレンジに直面しながらも、神の国として進化を続けることでしょう。それがレイラインから学ぶことのできる、古代の民が私たちに残してくれた大切な遺産と考えるこの頃です。(文・中島尚彦)WEBサイト案内日本シティジャーナルをご覧いただきありがとうございます。本紙のバックナンバーはWEBサイトにてすべてご覧頂けます。連載中の歴史に関するコラムは最新情報に随時更新してスペシャルサイト「日本とユダヤのハーモニー」にまとめてあります。ご意見・ご要望等をお待ちしております、FAXやホームページからお寄せ下さい。日本シティジャーナル:http://www.nihoncity.com/日本とユダヤのハーモニー:http://www.historyjp.com/真夏の熱い太陽を思い浮かべながら、今回は「夏至の日」のレイラインについてわかりやすく解説しています。本来、レイラインのシリーズは先月で最終回ということでしたが、どうしても夏至の日について別途、説明を加えないとレイラインの全体像が理解しづらいと思い、最終回の続編を執筆することにしました。一見、偶然の一致のように思える地図上の線引きですが、古代民の立場になって考えると、とても理に適っていることがわかります。楽しく読んでいただければ幸いです。編集後記-3-NCJ編集長中島尚彦1957年東京生まれ。14歳で米国に単身テニス留学。ウォートンビジネススクール卒業後、ロスアンジェルスにて不動産デベロッパーとして起業、ビジネス最前線で活躍する。1990年に帰国後、成田にサウンドハウスを立ち上げる。現在ハウスホールディングス代表、日本シティジャーナル編集長を兼務。趣味はアイスホッケーと読書、ここ数年は「日本とユダヤのハーモニー」の執筆に勤しむ。