ブックタイトル日本シティジャーナル vol.176
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日本シティジャーナル vol.176
2016年(平成28年)11月12日発行第176刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 176Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部式年造替を迎えた春日大社のルーツ朱色に染められた社から浮かぶ古代の真相奈良の春日大社は、三重の伊勢神宮、島根の出雲大社、そして東京の明治神宮と並び、広大な敷地と多くの参拝者を誇る著名な神社です。全国におよそ3000余りの分社を持つ春日神社の総本社であり、「古都奈良の東文化財アジア」の1つとして史世を界遺塗産にり替紀がえたイスラエル経った時のことでした。そ民ます。20族大移年に動1度の周到潮な行流事も登録されています。春日大社で催される春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つに数えられています。春日大社は標高283mの御蓋山(みかさやま)の緩やかな裾野に建立され、隣接する花山、芳山と合わせて周囲一帯は春日山と呼ばれています。そしていつしか御蓋山は春日大社の御神体となり、その山頂は今も禁足地となっています。御蓋山からは湧水が豊かに放水され、古代より人々の生活を育んできました。その境内の随所に鹿が放し飼いされているのは、鹿島の神が白鹿に乗って、飛火野と呼ばれる春日山の丘陵地に降臨したという伝承に由来します。鹿は神をお連れになっただけではありません。牡鹿の角は毎年生え変わり、その繁殖力の強さから、鹿は生のシンボルとなる吉兆として神聖視されてきたのです。その為、平安時代では春日山一帯では狩猟が禁じられ、神社周辺の春日原始林が聖地化され、それ以降、野生の鹿は保護されてきたのです。春日曼荼羅と呼ばれる神道美術の傑作の中に、室町時代に描かれた「鹿座神影図」があります。そこには春日山を背景に、立派な白鹿の姿と、鞍の上に立つ榊の頂点に大きな鏡が載せられている光景が描かれています。中央豪族として忌部氏と共に政権に影響力を持ち、かつ祭祀春日大社のレイライン宗像大社宇佐神宮八雲山出雲大社金刀比羅宮奥社厳魂神社石鎚山足摺岬活動を司っていた中臣氏の氏神を祀る春日大社は、768年、平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建されました。中臣鎌足が亡くなられた際、その氏寺として669年に興福寺が奈良に建立されてから、ちょうど1世の後、中臣鎌足の子孫は藤原姓で知られるようになり、中臣氏の中でも一大勢力になっていたことから、必然的に春日大社も藤原一族の氏神を祀る神社として知られるようになりました。そしていつしか春日大社は興福寺と一体化して見做されるようになり、次第に大きな勢力を誇示しながら、その影響力は奈良時代から平安時代にかけて、大和一国全体までに及ぶようになったのです。脚光を浴びる2016年の式年造替平城京の遷都を機に建立されてから13世紀余りの期間を経た2016年、10月から11月にかけて、春日大社では20年に1度の式年造替(ぞうたい)が執り行われています。式年造替の行事は今回で60回目にあたります。造替と言えば通常は全面的な建て替えを意味しますが、春日大社の場合、本殿はいずれも江戸末期に改めて造営されたものであり、その後、国宝にも指定されたことから、今では全面的な建て替えは行われなくなりました。しかしながら大掛かりな改修工事が行われることに変わりはなく、2016年の式年造替でも、本殿の骨組みを残して檜皮(ひわだ)屋根が葺き替えられ、朱の塗り替えだけでなく、壁面の絵柄なども描き直されたのです。10月29日には、本殿の修理完了を祝う「立柱上棟祭」が行われ、衣冠姿の工事関係者伊弉諾神宮剣山宇佐八幡宮春日大社熱田神宮紀伊大島らが本殿の屋根に上り、「陰哉棟」NCJ109日本とユダヤの(いんざいとう)、「ハーモニーから陽哉棟」(よう続くざいとう)と、掛け声に合わせて棟木を木槌で打ち付けました。その後、11月6日夜には正遷宮を控え、昨年3月から移殿に移されているご神体が本殿に戻されであるだけに、春日大社はメディアから脚光を浴び続けています。この式年造替に伴って執り行われる「お砂持ち行事」は2 0 1 6年10月6日から23日まで開催され、その期間に限り本殿前特別参拝が許されています。一般の参拝者らは襷を首にかけ、袋の中に入った白砂を本殿前に敷き詰めます。参拝者は20年に1度しか通ることのできない中門をくぐり、内院まで足を運び、そこで鮮やかに塗り替えられた4連の本殿を目の当たりに拝観することができるのです。25mほどの幅しかない本殿ではありますが、壁面には高さ1.5m、幅約2mの「御間塀」(おあいべい)があり、絵馬板とも言われています。そこには獅子や馬、人の姿など、創建当時からの絵が5面に渡り描最終編かれています。そのうち、3面は舎人が神馬を引く絵画です。その他、獅子牡丹図と竹に雀が描かれた壁画があります。本殿の美しさと共に、これらの壁画も、今回の特別参拝を通して多くの参拝者を魅了したことでしょう。一般的に神社は本朱が3割、残りは丹塗りという伝統が踏襲されてきています。しかし春日大社の場合は、本朱と呼ばれる水銀に由来する顔料のみで塗られることから、他の神社とは赤味の度合いが異なり、深い朱色が冴え渡る、明るく鮮やかな美しさを誇る本殿に蘇ります。鹿島神社諏訪大社下社(牛久)諏訪大社前宮鹿島神宮伊勢神宮富士山-1-春日大社を支えた藤原一族とは春日大社の創建の起源は、今からおよそ1300年前に遡ります。奈良時代の初期、公卿出身の政治権力者として藤原家の栄華を極めた藤原不比等は、藤原氏の氏神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)を鹿島神宮から奈良春日の地に勧請し、春日神として祀ったのです。それは平城京が奈良に遷都された710年のことでした。「鹿島宮社例伝記」によると、鹿島神宮が建立された時期は、武甕槌命が鹿島神宮に到来して神を祀った後に宮柱が建てられた神武天皇の時代まで遡ります。よって鹿島神宮の建立からは既に13~4世紀を経ていたことになります。その後、768年、藤原永手により壮麗な社殿が造営され、それが春日大社の正式な創始と考えられるようになりました。藤原不比等によって春日山の聖地が見出され、一族の祖である武甕槌命が祀られた平城京の始まりからおよそ60年近くの年月が費やされた後、藤原永手によって春日大社が建立されたのです。その春日大社のルーツを知るための一番の早道は、ご由緒を頼りに、そこで祀られている神々の背景を理解することです。古代、建国に貢献された信心深い国家のリーダーらは、日本列島の各地を訪ねた際に、どこへ行くにもまず、神を崇め祀る聖地を定め、そこで祈りや燔祭を捧げて祭祀活動を行いました。その結果、日本列島の要所では、古くから祭祀場が造営され、それらの聖地には宮柱が建てられ、神社と呼ばれる社へと発展したのです。よって最古の神社では、建国に携わったリーダーの名が創建者として敬われ、神々として名を残し、祭神となるのが常でした。また、創建者との血縁関係にある親族も、祭神として共に祀られることも少なくありませんでした。それ故、古代の神社にて祀られている神々では、社の創始に関わる発起人や、その先祖、親族が絡んでいるケースが多いのです。また、時代を隔てて社を建立する際は、親族のルーツに関わる太古の神社より分社、もしくは分祀という形をとることもありました。その結果、創始者が建立した場所から離れていても、血縁関係に紐付けられた神々を異なる時代に祀り、元来の創建者を称えることができたのです。春日大社もその例に漏れず、春日神社の境内で戯れる鹿藤原氏(中臣氏)の祖先である建国の神々が祀られています。本殿に建てられた4つの神殿のうち、第一殿では国生みの話の中でも、剣の武威と神宝の存在に関わり、大国主の国譲りの際に大きな貢献を果たした武甕槌命が鹿島神宮より勧請されています。そして鹿島の神と共に第三殿と第四殿では、枚岡神社から中臣氏(藤原氏)の祖とされる天児屋根命(あまのこやね)と、その比売神(ひめがみ)も勧請されました。武甕槌命を第一殿にて祀ることにより、春日大社の創建に関わった藤原一族と武甕槌命との血縁関係が誇示されています。つまり、藤原氏は自らの先祖神を勧請することにより、時を隔てた飛鳥・奈良時代においても、鹿島から離れた奈良という新天地にて祭壇を築き、神を崇める社を改めて建立することができたのです。こうして藤原一族はいつの時代においても鹿島の神に結び付く有力な公卿としてその名を馳せ、武甕槌命の子孫として奈良時代においては政権を極め、古代豪族として国の発展に寄与したのです。藤原氏と鹿島神宮の関係においては、神託の存在があることでも知られています。第10代崇神天皇の時代、鹿島の神が大阪山に現われ、天児屋根命(あまのこやね)を祖とする中臣神聞勝命(なかとみのかむききかつのみこと)に神託が与えられたことが伝承されています。記紀に登場する祭司の中でも、最も古い国生みの時代に活躍した天児屋根命は、天岩戸に天照大神がお隠れになった際に、祝詞を唱えた祭司として知られる神です。この神託の結果、中臣神聞勝命は鹿島中臣氏の祖となり、鹿島神宮の祭祀を司ることになったのです。祭祀としての責務は子孫へと引き継がれ、後世に伝授されていくことが古代の仕来りであったと考えられることから、中臣氏(藤原氏)が鹿島神宮に遣わされたのは、鹿島で祀られている国生みの父、武甕槌命や天児屋根命と中臣氏が血縁関係にあったからに違いないでしょう。中臣氏の祖が天児屋根命であることは古事記にも記されており、一族は祭祀の次頁に続く