ブックタイトル日本シティジャーナル vol.176

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概要

日本シティジャーナル vol.176

2016年(平成28年)11月12日発行第176刊毎月第3土曜日発行購読無料責務を担った古代豪族であったことがわかります。中臣神聞勝命がご神託を授かった崇神天皇の時代は神武天皇の時代から6世紀余り隔てた紀元前1世紀頃であり、それは神宝を携えながら各地に神を祀る聖地を見出していく元伊勢の御巡幸が奈良の三輪山より始まった時でもありました。鹿島神宮へ向かった中臣神聞勝命と元伊勢の御巡幸を始められた豊鋤入姫命は、どちらも同じ時期に、神託により列島を移動しながら大切な神宝を守り、聖地にて神を礼拝するという立場に置かれていたことから、何かしら関係がある可能性があります。当時の祭祀活動とは、正に不思議な力に導かれるまま、国家の安泰を願い、祈ることにあったことからして、特に国の一大事においては祭祀活動の重要性が際立ったことでしょう。そのような強い信仰を持つ民の働きが、日本の礎にはあり、その流れの中で、藤原一族が大きく台頭したことに注視する必要があります。最後に、これらの宗教的背景のルーツが外来のものである可能性にも着眼してみました。国生みの時代において藤原氏の祖である天児屋根命は祝詞をあげましたが、それが唐突に始まるとは考えづらいことから、祈祷や宗教儀式に纏わる相応の文化が、古くから存在していたと想定されます。それ故、一大事においてはすぐに祭祀が呼ばれて祝詞をあげることができたのでしょう。その祭祀活動の完成度から察するに、天児屋根命による祝詞の行事とは、もしかすると日本固有のものではなく、大陸の宗教文化に由来しているものかもしれません。独自の宗教文化を携えている大陸の民が列島に渡来し、祭司らがその宗教的儀式を日本に導入したと仮定すれば、天児屋根命から藤原一族に引き継がれた一連の儀式の在り方が理解しやすくなります。本殿に祀られる経津主神春日大社では、藤原一族の祖である武甕槌命が祀られている第一殿に併せて、第二殿では香取神宮の御祭神である経津主命(ふつぬしのみこと)が勧請されました。武甕槌命と共に葦原中国の平定に遣わされたのが経津主命であり、共に出雲の国にて十握剣を逆さまに大地に突き立てたことから、両者は刀剣神と呼ばれています。鹿島神宮の神が春日大社の第一殿、香取神宮の神が第二殿にて祀られているのは、単に2社が同じ常総の地域にあるということだけでなく、そこで祀られている2神が、春日大社の背景となる重要な史実に関わっているからに他なりません。「古事記」には、伊邪那美命が亡くなられた際に生じた伊耶那岐命による火神斬殺について、リアルに記されています。十握剣(とつかのつるぎ)と呼ばれる御刀(みはかし)によって、首を切り落とした際に、御刀の鍔についた血が神聖な岩にほとばしりついて生まれたのが、建御雷男神、または建布都神(たけふつのみかみ)であり、それは葦原中国平定を行った武甕槌命を指します。香取神宮で祀られている経津主命と建布都神は、その読みが類似しているだけでなく、「ふつ」という言葉が一致していることから、同一の神であったという説があります。神武天皇の時代、国家を平定する大刀として武甕槌命が謙譲したのが布都御霊(ふつのみたま)の剣です。よって、「ふつ」は神剣に関わる言葉であり、人名に「ふつ」が含まれることは、御刀によって生まれた神々に由来していることを指しています。古語拾遺によると、伊耶那岐神が子をもうける際に振るった十握剣は「天のハハギリ」を意味し、古語では蛇のことを「ハハ」と呼んだことから、蛇、すなわち悪を斬る、という意味に捉えることができます。また、「ふつ」という発音は擬声語であり、剣によって物を切る様を表現し、古代では神威を強調した言葉として用いられたとも考えられています。よって、火神斬殺とは神の子の家系を守るため、悪に染まった者を斬るという手段だったとも考えられます。また、ヘブライ語で「ふつ」(hutsa、フツァ)は「処刑される」ことを意味し、御刀の剣威に沿う意味合いを持つことから、「ふつ」という言葉はヘブライ語に由来していた可能性もあります。日本書紀や古語拾遺によると武甕槌命は甕速日(みかはやひ)の子であり、香取神宮で祀られている経津主神は、磐裂(いはさく)の子孫として磐筒男(いわつつのお)の妻である磐筒女(いわつつのめ)から生まれた子であると出自まで明記されていることから、香取の神と鹿島の神は伊耶那岐神の子孫として血縁関係はあり、刀剣神の名を共有するものの、家系は同一ではないと考えたほうが無難でしょう。また、経津主神の祖である「磐裂」の意味は、岩を裂く刀剣の威力を意味するという説もありますが、もしかすると原語のルーツはイスラエル族長の一人であるイサクを指していたのかもしれません。つまり、イサクの子孫であるモーセが荒野で岩を杖でたたき、裂けた岩から水が出たことから、磐裂(イサク)という字をあてた可能性があるのです。春日大社に多くの参拝者が集う理由は、これら4連の本殿にて祀られている神々が建国に纏わるものであり、国家の創建に深く関わっていたからでしょう。武甕槌命が祀られる鹿島神宮は神宝剣に関わる重要な拠点でもあり、国家鎮護に関連する神社としても知られています。そして神々の末裔となる中臣氏、そして藤原氏も、併せて祀られることにより、国家を代表する祭祀活動の象徴として春日大社が位置付けられたからではないでしょうか。祖先崇拝そのものが、建国の神々を崇め祀ることに直結する4つの本殿が存在したからこそ、春日大社は国家の崇敬を集め続け、今日まで古代日本を代表する偉大な神社のひとつとして、多くの人々が参拝しているのです。春日大社が船神に深く関連する理由古代の日本において活躍した知識層の多くは、アジア大陸より海を渡ってきた渡来者でした。アジア大陸の歴史は古く、日本では縄文時代と呼ばれる古代においても、先進した文化が発展していました。特に西アジアの地域では、海を渡るための航海術と、それに伴う造船の技術が古代でも発展していたことが知られています。大陸より東方の島々へ航海することは一大イベントであったに違いなく、その優れた大陸の航海術を携えてきた知識層に導かれて海を渡ることができたからこそ、多くの渡来者が短期間に大陸から台湾、南西諸島を経由して日本列島を訪れることができたのです。よって、記紀においても国生みから天孫降臨の時代に至るまで、神々は船を乗り物として島々を行き来していたことが書かれているのです。これら大陸からの渡来者により、古代日本の国造りと文化の礎が築かれていくことになります。春日大社の第一殿にて祀られ、藤原氏の祖である武甕槌命もその例に漏れず、船に乗って島々を移動しました。葦原中国を平定しなければならない、という国の一大事に、天照大神は自分の子である武甕槌命を葦原中国に遣わすことを決め、その際に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を同行させたことが古事記に記録されています。その後、武甕槌命と天鳥船神は出雲の伊耶佐の小浜に向かい、そこで大国主神と対面するのです。それ故、古事記では武甕槌命と天鳥船神は、「二柱の神」と呼ばれています。日本書紀や古語拾遺にも同等の内容が記されていますが、そこでは武甕槌命と共に出雲へ旅をしたのが、春日大社の第二殿に祀られている経津主神となっています。古事記の記述には経津主神の名前は見当たりませんが、武甕槌命に同行した神として経津主神の代わりに天鳥船神の名前が書かれていることから、経津-2-主神と天鳥船神は同一人物であったと想定されます。古語拾遺には、武甕槌命は常陸国の鹿島神、経津主神は下総国の香取神と明記され、どちらも刀剣神であり、前者は雷神としても知られています。鹿島神社と香取神社の距離は古代の海原を隔てて13kmほどしか離れていない海岸に隣接した場所に建立されています。「香取大宮司系図」によると、経津主神を祀る香取神宮では元来、香取連が祭祀氏族として名を連ねていましたが、奈良時代後期、大中臣氏(おおなかとみうじ)が中央政権にて祭祀を司るようになった際、大中臣清暢が香取連へ養子として迎えられ、それ以降平安時代まで大中臣氏が香取神宮の宮司を務めたことがわかります。中臣氏(藤原氏)は経津主神や、その子孫と血縁関係にあったからこそ、その船神の祖となる天鳥船神が、経津主神として春日大社にて祀られていたのではないでしょうか。経津主神としても知られる天鳥船神は伊耶那岐神の子であり、その名前のとおり優れた航海技術を有していたことから、船旅に関する重責を担っていた氏族と考えられます。天鳥船神は巨石を祀る東茨城の石船神社や、出雲大社近くの美保神社、そして大阪の住吉大社など、船神に纏わる由緒を持つ著名な神社でも祀られています。天鳥船神は武甕槌命と共に出雲へと船で向かっただけでなく、その後、瓊瓊杵尊が高天原から九州の南方、そして本州へと海を渡りながら旅を続けた際にも、その航海を助けたのではないでしょうか。その旅路のルート沿いには、鹿児島日置市にある船木神社のように、造船と航海技術に長けていた船木氏の痕跡が残されている神社が存在します。後世において元伊勢御巡幸が行われた時代では、船木氏の貢献により複数の船が倭姫命の御一行に提供されました。それらの船を用いて琵琶湖東方の船木山近く、伊久良河宮から川を下り、伊勢湾岸を経由して五十鈴川の上流にある伊勢の聖地まで御一行は向かうことができたのです。古代、まだ人口も少なく、集落の形成もままならぬ時代、航海術に抜きん出た豪族が同時期に複数存在したとは考えづらいことから、船木氏も、経津主神(天鳥船神)と同系の出自と考えてよさそうです。第12代景行天皇の時代、中臣臣狭山命が神託を受けた際に船3隻が奉献され、それが12年に1度行われる鹿島神宮の御船祭の起源になったと伝えられています。つまり中臣氏も天鳥船神、経津主神の末裔として造船の責務を担う豪族であり、その祖が祀られる鹿島神宮や春日大社では、船の祭事が執り行われるよ春日大社舞殿うになったのではないでしょうか。こうして天鳥船神の責務は船木氏に加え、中臣氏にも引き継がれていったのです。その後、藤原の姓を賜った中臣鎌足の子、不比等が春日山にて先祖を祀った由縁により、先代の海洋豪族である経津主神も春日大社の第二殿で祀られるようになりました。春日大社の背景には、海原を航海する海洋豪族の存在があったのです。春日大社が誇る本朱の意味20年に1度行われる春日大社の式年造替では、4棟の本殿と境内の南東に位置する若宮神社のみ、水銀に由来する本朱と呼ばれる顔料を用いて、煌びやかな朱色に塗り替えられます。朱色系統の顔料は本朱の他に、鉛丹と弁柄があり、一般的な神社では橙色の鉛丹が使われています。一方、春日大社では本朱のみが本殿の塗装に用いられてきたのには、何かしら理由がありそうです。実はこの本朱に纏わる伝統も、中臣氏(藤原氏)が造船に深く関わっていた海洋豪族であることを示唆しています。本朱の原料は辰砂と呼ばれる硫黄と水銀の化合物です。その鉱石を粉砕して採取された粉が主成分となり、丹とも呼ばれる本朱の顔料になります。その粉に水で溶いた膠水を加えて棒でこねると本朱の塗料になります。実際の本朱色は真っ赤であり、塗装して時が経つにつれて深みのある赤色に変わることから、神を祀る神社の建築物を荘厳に彩ることができます。また、辰砂を空気中において加熱すると水銀蒸気と二酸化硫黄が発生し、その蒸気を冷却することにより、水銀を精製することができます。赤色の鉱物質が、シルバー色の水銀に可変するという自然の不思議は神秘的であり、古代では神威の象徴と考えられたのではないでしょうか。水銀の原料にもなる辰砂は、古代においても極めて重要な鉱山資源でした。辰砂から作られた本朱の顔料は、春日大社など名高い神社の塗装に用いられただけでなく、耐水効果にも優れていたのです。本朱塗りをする際には通常、膠と明礬(みょうばん)を混ぜた礬砂(どうさ)を下地として塗り、その上に本朱の塗料を塗ります。こうして木の湿気は下地によって封じられ、本朱による仕上げで耐水性がさらに増し加えられることになります。その優れた耐水効果故に、本朱の活用は船底を塗装する際にも重宝される