ブックタイトル日本シティジャーナル vol.177

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概要

日本シティジャーナル vol.177

2017年(平成29年)4月29日発行第177刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 177Nihon City Journal発行:ネットハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~19:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、船橋市千葉市(花見川区、美浜区)、習志野市、八千代市、四街道市酒々井町、栄町、小林、安食、多古町、横芝光町、芝山町、神崎町発行部数:500,000部春日大社のレイライン古代の英知を結集して特定された藤原一族の聖地春日大社の創始は、国譲りに関わる神々の一人として知られる武甕槌神に由来します。日本書紀や古事記によると葦原中国平定の時代、天照大神から神託を授かった武甕槌神は、経津主命と共に海原を旅して出雲へと大国主神と談判するために一旦NCJ109日本とユダヤの出雲へと戻ったことがハーモニーから古事続記くに東向かい、アジア地域を史支配をしていた塗り替いでしょう。えたイスラエル武甕槌神が鹿島の民族征において大移鹿動島をの含む潮地域流の神々に剣の権威を誇示しながら大胆に語り、国譲りを見事に実現しました。その直後、力づくで反抗しようとした建御名方神(タケミナカタ)を征伐するため、武甕槌神は内陸の諏訪まで建御名方神を追走し、自らの支配下に置いた後、大国主神と談判するため再び出雲へと向かい、その後、高天原へとお戻りになられました。国譲りの戦場となった出雲の地は、神々の先祖である伊邪那岐命が葬られた淡路島の中心地、今日では伊弉諾神宮が建立されている場所から見て、夏至の日が沈む方角に位置します。これは、出雲の地が伊邪那岐命と結び付いていることを証しています。そして武甕槌神が建御名方神を追走して戦った諏訪の地は出雲とは逆に、ちょうど夏至の日が昇る方向に位置します。諏訪周辺には阿久遺跡の発掘調査からも確認されたように、縄文時代から大規模な集落が形成されていました。よって古代、諏訪も淡路島と紐付けて考えられていた可能性があります。また、諏訪から見て真東の太平洋沿岸には鹿島の地が存在します。これら2つの聖地は同緯度に並んでいることは、偶然ではな国つ神となり、鹿島神宮の御祭神としても祀られるようになったことからしても、武甕槌神が鹿島の歴史に深く関わっていることがわかります。春日大社の御祭神である武甕槌神が、国譲りの征伐を機に訪れた出雲と諏訪、そして鹿島の地とも深く結び付いていることを理解することは、諏訪、鹿島、出雲という3つの聖地の繋がりだけでなく、武甕槌神を祀る春日大社の背景を見極める上でも重要です。そのため、まず、春日大社の主祭神である武甕槌神の足取りに着眼し、拠点となる出雲、諏訪、鹿島の聖地を結ぶ複数のレイラインを検証しながら、歴史の流れを考察することにします。武甕槌神と鹿島との繋がり何故、武甕槌神が鹿島の地にて崇められるようになったのでしょうか。国譲りの際、武甕槌神は諏訪地方を離れた後、極上の天然温泉記載されていますが、そこには鹿島の記述が見当たりません。記紀においては、その後の神武天皇東征の際に、武甕槌神が神武天皇に神剣を授け、東重要拠点を制覇したことに貢献したこと以外、鹿島については無記のままです。平安時代末から編纂された霊験集の集大成として春日大社に保管されている「春日権現験記絵」の序章には、武甕槌神が天下って平定し、鹿嶋へ移られ、その後、神護景雲2年(768)春、法相宗を擁護するために御笠山に移られたことが記載されています。この序章の文は不思議な点が多く、例えば武甕槌神が天下ったのは神代のことであり、「御笠山に移られた」768年とは大きな時代の隔たりがあります。また、御笠山への移動は藤原氏による武甕槌神の勧請を意味し、ご自身が生存中の出来事に関する記述ではないこともわかります。よって、鹿嶋最終編へ移られたという記述も、その年代が国譲りの時期か、後世かを特定できないだけでなく、移られたのが武甕槌神ご自身か、それとも御笠山と同様に鹿島に勧請されたかも定かではありません。しかしながら、鹿島神宮が建立され、その御祭神として武甕槌神が祀られ、国つ神として崇められてきた史実があります。また、鹿島を含む常総地方で祭祀職の責務を担っていた中臣氏や、神武天皇の子孫である多氏が、古くから武甕槌神を鹿島神、海上交通の神として崇拝してきた史実も見逃せません。よって、武甕槌神は確かに鹿島に渡来し、地域周辺における港や集落の発展に大きく貢献したことから、鹿島の土着神として多くの人々から崇められるようになったと考えるのが自然です。武甕槌神と鹿島との関係については、日本の地勢とレイライン、及び武甕槌神のライフワークに関する足跡を垣間見ることにより、およその流れが見えてきます。武甕槌神は海上交通の神と言われているだけに、その得意とする手段は船による移動であったことは明白です。当初、葦原中国を制定する役目を授かった武甕槌神は、日本列島の南方から船で北上し、日本海側に回って出雲へと到達しました。そこで剣を地面に突き刺すという一世一代のバトルを終えた後、力比べに負けて逃げる建御名方神を追って、長野の諏訪へと向かいました。ところが日本海側から諏訪地方に向けては主流となる川もないことから、陸地を追って行くしかなかったのです。しかも諏訪は、日本海沿岸から最短距離でも100km以上内陸にあり、周辺が山々に囲まれていることから、徒歩による旅は決して生易しいものではありませんでした。それ故、建御名方神と和解した後、武甕槌神は諏訪から出雲へと戻る際に、これまで来た道とは逆の東方へと向かう決断をしたとは考えられないでしょうか。つまり、来た道を戻るのではなく、諏訪から真東へ向かい、諏訪と同緯度にあたる太平洋岸へと旅を続けた可能性があります。諏訪から北東方向に35kmほど山道を歩くだけで、そこには千曲川と利根川の支流が交差する水路があります。その15~20km先、今日の軽井沢近くには利根川の支流があり、渋川周辺にまで行くと、そこから利根川の本流を下りながら、太平洋側の鹿島沿岸まで一気に船で下ることができました。船旅を得意とする武甕槌神にとって、利根川の水路は天与の恵と考えられたのではないでしょうか。そして太平洋沿岸に辿り着いた後、河口周辺において諏訪と同じ緯度線上にある場所が地域の拠点と定められ、そこに港と集落が造成されたのです。2つの地点が同緯度線上に並ぶことにより、天体を観測しながら双方の場所をピンポイントで探し当てることができます。よって古代の知者は、大切な拠こんなに美味しい寿司屋が成田にあった!全国トップ20ランクイン!大和の湯3F“星の雫”... 1,200円季節のサラダ、汁物つき国産ワインフェアー開催中日本各地の絶品ワイン70種以上グラスワイン.....500円~極上の日本酒も続々入荷入館料[平日]800円/[土日祝]1000円※小学生の入館料:300円(大人同伴の入館の場合)営業時間10:00-22:00※年中無休(全館禁煙)TEL未就学児の入館はご遠慮いただいております0476-28-8111千葉県成田市大竹1630●サンクス408●イオン成田?安食18成田安食バイパス空港通り成田空港成田IC上福田交差点土屋交差点東坂田ヶ池関★1851成田市街地?東自?我孫子方面下総松崎JR成田線成動佐佐案内看板車●田倉倉▼▼道?安食松崎街道www.yamatonoyu.com-1-次頁に続く