ブックタイトル日本シティジャーナル vol.177

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概要

日本シティジャーナル vol.177

2017年(平成29年)4月29日発行第177刊毎月第3土曜日発行購読無料春日大社のレイライン宗像大社宇佐神宮八雲山出雲大社金刀比羅宮奥社厳魂神社石鎚山伊吹山諏訪大社下社熱田神宮宇佐八幡宮春日大社御在所岳岩上神社伊勢神宮金剛山剣山紀伊大島諏訪大社前宮富士山鹿島神社(牛久)鹿島神宮足摺巨石群唐人駄馬遺跡ヒラバイ山点同士を同緯度に定めたのです。それ故、鹿島と諏訪は同緯度となるレイライン上で結び付いていたのです。春日大社に紐付く鹿島の重要性国譲りをはじめとする多大なる貢献を成し遂げ、鹿島の神として知られるようになった武甕槌神は、長い年月を経た後、藤原氏により春日大社に勧請され、その御祭神として知られるようになりました。その際、武甕槌神は白鹿に乗って御笠山に来られたという伝説も残されており、春日曼荼羅の図には鹿の背に神影や、鹿の背の上に鏡が掛けられた榊などが描かれています。また、香取神宮でも、遠い昔、鹿島から香取に向けて鹿が使いとして文書を運んでいたという伝承が残されています。こうしていつしか鹿は霊威ある動物として大切に取り扱われるようになり、春日大社の鹿も神鹿とも呼ばれるようになったのです。鹿島神宮の神鹿に由来する鹿を通じて、鹿島神宮と春日大社は固く結び付くことになります。こうして春日大社では中臣氏が神官となる鹿島神宮の神、武甕槌神が第一殿、そして香取神宮の神であり、葦原中国平定の際には出雲で武甕槌神と共に戦った経津主命が第二殿で祀られています。第三殿では中臣氏の祖先神とし古事記にも記され、天岩戸を開いて天照大神を暗闇から導き出した天児屋根命が、そして第四殿では比売神を祀っています。これらの神々を合わせて中臣氏、藤原氏の氏神として、更には平城京の守り神としたのです。ではなぜ、藤原一族の長としても知られる藤原不比等は710年、藤原氏の氏神である武甕槌神を奈良の三笠山で祀り、春日神と称したのでしょうか。なぜ、それまで発展してきた一族ゆかりの地である鹿島ではなく、そこから500kmほど西方に離れている奈良の三笠山に藤原一族の総本山とも言える春日大社を建立し、そこに武甕槌神を勧請したのでしょうか。「春日権現験記絵」によると、春日大社の聖地が正式に決まった768年、法相宗を擁護するために三笠山に移られた武甕槌神は、新天地となる奈良に到達し、盆地を囲む小高い山々の中でもひと際美しい山を見出し、その風景を見て、「日本に山野は多いが月が出た時の御蓋山ほど素晴らしい所はなく、花の匂いも春日野に勝るところはない。」と絶賛したのです。そして経津主命と天児屋根命を春日大社へとお誘いしたことが記されています。また武甕槌神が惚れ込んだ標高283mの山は御蓋山(三笠山)と呼ばれ、通称春日山としても知られるようになります。武甕槌神が鹿島から奈良の三笠山へと勧請され、藤原一族が春日大社を基軸として奈良に一族の土台となる礎を築いた理由は想像するに難くありません。国家体制が激動し、権力闘争が厳しさを増す最中、政権を担う立場に置かれた藤原氏にとって、一族の存在そのものを建国の神々に結び付け、世間一般に周知させることが重要視されました。また、奈良は列島の中心に位置することから、聖地同士を結ぶ多くのレイラインが交差する地点でもあり、地の力と一族の権威を示す拠点を造営するには、最適な場所でもありました。さらに奈良には、神ご自身が「そこに住まわれたい」と語られた三輪山があります。その不思議なるメッセージの結果、三輪山は最も聖なる地として古くから認知され、その頂上周辺には古代、多くの神宝が秘蔵されてきたのです。三輪山は今日、大神神社のご神体となる霊峰として禁足地に指定されています。三輪山周辺には檜原神社、長谷寺など由緒ある神社がその後、建立されました。そして初代神武天皇の御所となる橿原神宮も三輪山から5kmの地点に建立されました。多くの聖地が周辺に名を連ねる三輪山の重要性は明らかです。その霊峰の真北、およそ16km離れた場所に見出されたのが三笠山です。武甕槌神が、三笠山を最高の場所と断言することに躊躇しなかった理由は、三笠山が三輪山の近くに南北一直線に並んでいるということだけでなく、他の霊峰や聖地ともレイライン上に繋がっているからに他なりません。春日大社のルーツとなる三笠山は、優れた地勢だけでなく、その場所を通り抜ける多くのレイラインの存在により、最重要視されたのです。武甕槌神にとって三笠山は、他のどの山々よりも大切な拠点と考えられた理由を、レイラインの考察から検証してみましょう。春日大社の見事なレイライン春日大社が建立された背後に聳える三笠山は、日本列島の聖地をくまなく歩き回りながら調べつくした藤原一族が特定した地点だけに、レイライン上においてもその場所は、多くの聖地を結び付ける線が交差する重要な地点となっています。特に注-2-目すべきは、武甕槌神ご自身が関わった列島の聖地を通り抜けるレイラインに着眼し、それらが交差する地点が春日大社と関わっているかどうかを見極めることです。武甕槌神が登場する舞台として、記紀には出雲、諏訪、鹿嶋の地名が明記されています。よって、これらの聖地に纏わるレイラインの存在と交差点を確認することにより、春日大社が果たして、レイラインを用いて見出されたどうかを理解することができます。まず、国譲りの舞台となった出雲の聖地として、その原点に聳え立つ八雲山のレイラインを検証してみましょう。驚くことに、八雲山と伊勢神宮の内宮を結ぶレイラインは、春日大社の上をピタリと通り抜けます。武甕槌神が活躍した神代ではまだ、伊勢神宮は建立されていませんでしたが、藤原不比等が政権を握るベく台頭してきた時代では、伊勢神宮はすでに由緒ある聖地として認知されていたのです。よって、八雲山と春日大社、そして伊勢神宮が一直線上に並ぶことは、決して偶然ではないようです。次に注目したいレイラインの拠点が、紀伊半島の最南端にある紀伊大島の東岸です。今日、トルコ軍艦遭難記念碑が立つ紀伊大島の樫野崎は、古代から地域の重要拠点として船旅の道しるべになっただけでなく、レイライン上でもその存在の重要性が確認されています。それ故、樫野崎から真北に向かって引く線が、重要な意味を持っています。事実、その線上には金峰山寺、崇峻天皇陵、檜原神社、石上神宮、春日大社、そして近江神宮が並びます。これだけ多くの聖地が並ぶことからしても、紀伊大島のレイラインの重要性を無視することはできません。その結果、八雲山と伊勢神宮内宮を結ぶレイラインと、紀伊大島のレイラインが交差する地点が、春日大社の聖地となることがわかります。これは偶然でしょうか。それが偶然でないことは、武甕槌神が出雲にて国譲りの戦いを終えた後、次に向かった諏訪の地点を通るレイラインを検証することによって理解できます。諏訪には複数の聖地が存在し、中でも諏訪大社前宮と上社は重要な位置付けを占めています。三重県と滋賀県の県境には、標高1,212mを誇る御在所岳が聳え立っています。日本二百名山にも選定されている御在所岳は霊峰としても名高く、山頂近郊には多くの磐座が散在し、古代から多くの人の手が加わり、大切にされてきた山であることがわかります。その御在所岳の頂上と、諏訪大社上社をレイラインで結ぶと、その一直線上に春日大社がぴたりと存在します。また、諏訪大社の下社と、四国における地の指標として著名な足摺岬の半島にある足摺巨石群唐人駄馬遺跡を結ぶと、このレイラインも春日大社を通り抜けていきます。これら3本のレイラインの交点に存在する三笠山の存在は特別視されていたと考えても不思議ではありません。さらに中部地方においては、霊峰として語り継がれている伊吹山と金剛山を結ぶレイラインが春日大社を通り抜けることにも注目です。春日大社の創始に深く関わる鹿島神宮のレイラインも覚えておく必要があります。諏訪大社