ブックタイトル日本シティジャーナル vol.178

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概要

日本シティジャーナル vol.178

2017年(平成29年)6月17日発行第178刊毎月第3土曜日発行購読無料宮古島の美しい海岸例えば、古代より人々が聖域に祀られた神に祈りを捧げ、先祖の魂を供養した御嶽や、井泉(ガー)、龍宮(海の入口)などの聖域は、面積が200km2ほどしかない宮古島だけで、少なくとも23 0か所も存在します。つまり宮古島では、1km2あたり、1か所以上の聖地が存在するのです。宮古諸島の他の島々に存在する聖域は、合わせても4 0か所少々しか知られていないことから、いかに宮古島の存在が聖域と深く結び付いていたかがわかります。これら御嶽などの聖域で祈りを捧げてきたのが、宮古島では神女(カミンチュ、シンニョ)、沖縄本島ではノロ(祝女)と呼ばれる、地域の女性や住民から選ばれた人達です。共同体の神事や祭事もつかさどり、神々と人間との仲介を執り成す神女は、従来、祭祀の家系によって世襲的に継承されることが多く、宮古島ではツカサ、サスとも称されています。地域の祭祀活動を執り行う神女以外に、琉球には巫女として知られる女性預言者も存在します。神女の中でも神懸かり的な様相が濃い霊能者はユーザス、沖縄本島では「ユタ」と呼ばれ、宮古島では「カンカカリャー」として知られています。神女の本質は霊の支配とメッセージの伝授に象徴され、宮古島の狩俣ウヤガン祭りのように、神が乗り移って人間が神と一つになるという不思議な現象がおきる祭も存在します。そして神ダーリと呼ばれる神懸かり的な憑依によって培われた霊能力は、知られざる神言葉や神歌を語り告げるだけでなく、エクスタシーの最中に与えられるビジョンや幻などの霊体験へと発展していくこともあるようです。一見、信じがたいような話ですが、数々の預言の成就をもって、それが偽りでないことが庶民の体験談や証言からも明らかにされるにつれ、神女の権威と職能が次第に認知されるようになったのです。宮古島の「カンカカリャー」は、そのほとんどが女性であり、シャーマンと同様の存在と言えるでしょう。女性霊能者は65歳から90歳までの高齢者が多く、市内に居住しながら、家の神棚に供え物や祭器を飾り、そこで祈りを捧げています。そして、地域において庶民にアドバイスを与える存在となり、わずかな香代のみで干支を開いて線香占いをしたり、祈りの中で得たひらめきを周囲の人々に伝え、特に不治の病や、子供の問題、商売の失敗など、現実的な庶民の問題に対して、具体的な救済策を提言するような機会も少なくありません。また、判事や地域の政治、神事にも大きな影響を及ぼすこともありました。こうして宮古島では霊感を持つ「カンカカリャー」は神の言葉を伝える存在として、古くから親しまれてきたのです。琉球では古くから「カンカカリャー」のような霊能者は、「ツヅの指導のまま、神の言うまま」に語ることが、使命として求められてきました。島々には古代から石に対する信仰が伝承されており、人の魂や神が石に宿ると信じられてきました。よって今日でも、島々の随所に神の石が聖域の中に存在します。この磐座とも呼ばれる石は、古代イスラエルでも神と呼ばれることがありました。ヘブライ語で、「ツ」は石を意味し、時には神と考えられています。よって「ツヅ」は、「神々」を意味しています。遠い昔、イスラエルから渡来した多くの民は、琉球を経由して日本列島を訪れたと考えられることから、琉球で語り継がれてきた「ツヅの指導」とは「神々の教え」を意味していたのでしょう。神々が語るままに、人々に伝えることが、霊能者の職務でもあり、特権でもあったのです。しかしながら、少子高齢化の波は琉球をも襲い、今や村の祭祀を支えてきた「カンカカリャー」やユタなどの霊能者ら神女もみな高齢化し、後継ぎがないまま、自らの代で祭祀活動が終わらざるをえない状況に陥っています。そして宮古島を含む多くの琉球諸島では、開発が無雑作に進むあまり、古代聖地が失われ続けてきました。後継者が不在の祭祀活動の現実が明らかになるとともに、宮古、そして琉球の精神文化が大きく崩れていく危機を覚えている人は少なくありません。日本の古代ルーツを担う重要な位置を占めてきた琉球、そして宮古島だけに、霊能者である根間氏は平和を祈願するとともに、聖域の保護と祈りの文化の継承を訴え続けてきました。祈らずして世界平和はなく、日本国家、宮古島の未来はない、という信念があったからこそ、今回INORIEの主旨に多くの方が賛同し、金峯山寺の修験道者も心を共にすることができたのではないでしょうか。カンカカリャー根間ツル子今回の聖会を祭祀者として導く役を担った根間ツル子氏は、昭和46年、マサイカンカカリャー(優れた信仰の巫女)として激しい神懸かりを経験し、それから5年の歳月をかけて、過酷な試練を乗り越え、カンカカリャーとなるべく生まれ変わったと言われています。大変貧しい家庭に生まれ、幼少時の病気や拒食、不眠、痛みなどを伴う大病を患い続けましたが、ある日、神託により世に役立てんと神ダーリの霊的体験を経て、健康を取り戻したのです。そして孤独の苦しみや修行を通じ、様々な家庭問題に関わる精神的な悩みをも乗り越え、今日に至っています。根間ツル子氏が一躍有名になった事件が昭和46年におきました。当時、宮古島は本土に復帰した直後から始まったリゾート開発の結果、短期間で樹木が伐採され、島の緑は半減していました。そして島内にある数々の御嶽、小し(示+司)、井泉(ガー)などの聖地が破壊され続けたのです。その実態を嘆き、カンカカリャー、ツカサ、ユーザスの神女が声を上げ始めた矢先、神の島である宮古島を守るためでしょうか、根間氏に神ダーリが乗り移り、工事で埋め立てられてしまった井泉(ガー)を「掘り返せ、掘り返せ」と半狂乱に叫び続けたのです。また、乗り移った神は、「駐車場建設を取り止めないと、津波を起こすぞ、飢饉を起こすぞ」と大声で警告し、実際に1971年、その年に3か月もの間、雨が降らずに深刻な水不足になったことから、宮古市は建設の断念を余儀なくさせられたのです。こうして根間氏の名は、事件直後から世間に知れ渡るようになりました。長年にわたる無謀なまでの島の開発により、島の守り神の存在が危うくなり、日本国家そのものが危機に面していることを、今日、根間ツル子氏は危惧しています。そのため、島の自然を守り、聖域を大切にして神を敬う信仰心の復興を訴え続けています。根間ツル子氏の自宅の居間に入ると、神棚の背後には八幡大神、天照皇大神、春日大神という3神の名前が大きく書かれた掛け軸が目に映ります。魂の輪廻を信じ、天界と地上界のつながりをもって霊が働きかけていることを、自らの体験をもって知り尽くしているからこそ、先祖の霊も大切に祀ることを心がけているのでしょう。そして先祖がやり残したこと、やり損なったことを成し遂げるために生まれ変わってきた自分がいる、という信条のもとに、根間氏は生きている間、人助けのために、そして国家や、世界平和のために尽くし続けています。一見、新興宗教の教祖のよ-2-金峯山寺の本堂うな側面がありそうですが、実際は全くかけ離れた存在です。根本的な相違点は、根間ツル子氏の生きざまそのものに、お金や権力、ステータスに対する願望がみじんも見られないということです。よって、今もって宮古市街の一角に佇む古屋にひっそりとお住まいになり、一見貧しそうにも見られかねないほどの素朴な生活をしています。お金や権力の誘惑に打ち勝ち、ひたすら霊の導きによるメッセージを語り告げ、信仰をお金もうけの道具には絶対しないという信念を貫いてきたからこそ、悪の力に打ち勝ち、人々に幸せをもたらすことのできるカンカカリャーとして、その使命を達成することができたのでしょう。まだまだやるべきことが残っているという使命感を語られている根間ツル子氏であり、ご高齢になられたこれからも、宮古のため、そして日本と世界平和のため、今後も活躍されることでしょう。金峯山寺の修験道とはカンカカリャーの根間ツル子氏と共に心を一つにして、宮古島で祈りを捧げようと、奈良県の吉野からINORIEの聖会に参加することを決めたのが、修験道の総本山としても知られる金峯山寺の住職です。金峯山寺が建立された吉野の地域は世界遺産に指定されている「紀伊山地の霊場と参詣道」の一角でもあり、多くの参拝者が訪れる著名な寺です。今一度、金峯山寺の歴史的背景に目をとめ、その影響力と素晴らしい宗教観について学んでみましょう。奈良県の南方には吉野と呼ばれる美しい山岳地帯が続きます。古代では大和国の一部を占め、吉野から大峰に至る山岳は金峯山とも呼ばれています。山上ケ岳を含む大峰は奥吉野とも呼ばれ、熊野へと連なる険しい山道が存在することから、長年にわたり修験道者に魂の訓練の場所を提供してきました。こうして金峯山は修験道のメッカとして、金の御岳(みたけ)としても知られるようになったのです。その金峯山の中心に建立されたのが金峯山寺です。吉野のシンボルとして不動の位置を占める金峯山寺こそ、世界遺産にも名を連ねる修験道の根本道場です。金峯山寺の歴史は1300年以上も遡る7世紀の後半、役行者(えんのぎょうじゃ)が吉野山で修行し、金峯山寺を建立したのがその始まりであると伝えられています。今日、境内に見られる本堂、蔵王堂は16世紀末に再建築されたものであり、秘仏本尊蔵王権現など、多くの尊像が安置されています。その金峯山寺を総本山として、厳しい修行を通じて霊の力を体得する道を説くのが修験道です。日本古来の山岳信仰に、神道や仏教の要素が多分に取り込まれた修験道では、大自然の中で心身共に清め鍛えるという実践主義を貫いています。そして修行者は役行者の教えを守り通し、菩提心に近づくことを願い求めます。特筆すべきは修験道が在家主義を掲げていることです。つまり出家はせず、在家の生活を保ちながら修験道の道に励み、自らを磨き上げていくことを教えているのです。金峯山寺の修験道では、祈りが重要視されているのは言うまでもありません。祈りなくしては、霊の目覚めもなく、霊性を高めることもできないからです。また、御本尊や神が降臨される箇所に壇を設け、そこに火を焚いて神仏が降臨することを念じながら祈る護摩供も執り行われています。護摩の原語はサンスクリット語で「物を焼く」ことを意味し、そのルーツはペルシアの密教とも言われています。金峯山寺の護摩供の祈りでは、願いごとを護摩木に書き、それを燃やしながら、神仏の知恵の象徴である護摩供の炎により叶えてもらうことを祈り求めます。連日、連夜、護摩を焚き続けることもあり、行者の修行においては火傷をするほど壇の周囲は熱されることがありますが、その炎の熱を耐え、いつしか苦にしなくなるまで鍛錬を続けるのが修験道者