ブックタイトル日本シティジャーナル vol.179

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概要

日本シティジャーナル vol.179

2017年(平成29年)7月29日発行第179刊毎月第3土曜日発行購読無料に重要性が確立されていくことになります。その高知県と徳島県の太平洋岸を船で北上する際、室戸岬の北、35km先に見えてくるのが竹ヶ島です。室戸岬から始まる高知県の太平洋岸には、ごく普通の海岸線の景色が連なります。ところが、竹ヶ島周辺に近づくと、景色が一変することがわかります。それまでの穏やかな海岸の風景が、突如として巨石からなる岩場に囲まれた島の姿に変貌するのです。しかも島の頂上、標高およそ100mの場所からは、室戸岬と伊島、そして熊野の山々までも遠くに一望できるのです。古代の展望所としては、まさに絶好の位置づけにあったことからしても、古代人は注目したに違いありません。竹ヶ島の岸壁は、四国の南方だけでなく、九州から関東までの広範囲の太平洋岸に分布する四万十層群と呼ばれる地層の広がりによって支えられています。その地層部は海底の堆積物が地滑りのように流れるタービダイトによって形成されています。タービダイトは、海洋プレートが毎年4cmほど大陸プレートの下に沈み込む際、岩石からはがれて付いてくる付加体が集合して出来上がったものと考えられています。竹ヶ島では、タービダイトにより泥岩と砂岩が交互に連なる互層を、島の沿岸随所にて確認することができます。それら四万十層群の地層に育まれた竹ヶ島の東岸ではいつしか岩石が隆起し、巨石の姿を露わにしたのです。その竹ヶ島の姿は、室戸岬から続く海岸線とは一変して、まさに岩の島と呼ばれるに相応しい巨石により形成された島の様相を呈していたことから、近海を船で旅する人は一目で見届けることができたに違いありません。竹ヶ島の東岸のような巨石が連なり、タービダイトの地層が周辺一帯に広がるような島は、南西諸島から淡路島へ到達する航海路上、後にも先にも存在しません。それ故、室戸岬から淡路島の方面へと北上する途中に浮かぶ竹ヶ島は、暗黙のうちに聖なる島として、崇められるようになったと考えられます。2.竹ヶ島の歴史室戸岬から淡路島近郊を船で航海する機会が増えるにつれて、高知・徳島の太平洋岸では徐々に集落が栄え、人々が新天地を開拓していくようになります。古代の日本社会においては高地性集落が瀬戸内海周辺の各地に散在したことが確認され、四国も例に漏れませんでした。それ故、海部川の河口には集落が栄え、海部を中心とする集落の発展と共に、いつしかそこに流れる川の上流、那賀郡の北、東は勝浦郡からその西、雲早山、高城山を抜けて剣山の麓に至るまで、高地性集落が築かれるようになったのです。海部に寄港した際、要人らはそこから海部川沿いに、今日の土佐中街道を四国の山麓に向けて旅を続けることもできました。一説では、これら四国の東部の高地性集落が邪馬台国のルーツではないかと言われており、その実態は定かではないものの、古代社会における四国東海岸沿いの位置づけが、極めて重要であったことに変わりありません。室戸岬と伊島、淡路島を結ぶ中間点として重要な位置づけを占めた海部の港に辿り着く直前に目の当たりにするのが、竹ヶ島です。海部に近い岩なる島であり、太平洋を一望できることから、その歴史は古代まで遡るに違いありません。だからこそ、海中神輿のような祭事が続けられてきたのでしょう。そして古代、岩なる島は神聖なる場所とされたことがあったことから、竹ヶ島は古くから祭祀場として用いられ、要人らが大切なものを保管、秘蔵するためにも用いた可能性を否定できません。竹ヶ島の歴史については古代の文献に何ら記述がないことから、詳細は特定できません。しかしながら、その特異な位置づけからしても、海人の要所としての重要性は古くから認められていたことでしょう。その後、時代は過ぎ去り、竹ヶ島の山頂には文化4年(1 8 0 7年)に遠見番所が正式に設立され、そこが狼煙台として公認されました。南方から室戸沖を越えて海上を北方に航海する船乗りにとって、紀伊水道へ向かう中間点に浮かぶ竹ヶ島の存在は重要でした。その山頂からは、太平洋が一望できるだけでなく、南方には室戸岬が、北東には紀伊水道、そして東方には熊野山地を見渡すことができたのです。よって、古代より竹ヶ島は見晴らし台としての役割を担っていたことでしょう。そして後世においては狼煙が通信手段として率先して活用されることになります。その歴史を踏まえた形で、竹ヶ島は遠見番所として正式に命名され、狼煙台の基点として知られるようになりました。竹ヶ島の狼煙場は、船が難破した場合や、外国船の侵入、攻撃があった場合などに狼煙を上げて周囲の民に通報することを目的としました。遠見番所と呼ばれる狼煙を用いた連絡場所は四国の太平洋岸から紀伊水道沿いにまで連なり、その数十か所にも及ぶ遠見番所の最初に竹ヶ島は名をあげたのです。そのため、島の北部の平地では古くから人が住んでいたようです。近世に至っては、1847年には16名が島に移住し、1854年には島内に50戸の家があったことが記録に残っています。最近では「四国の道」と呼ばれる遊歩道が四国全域に作られ、その道筋の中に竹ヶ島も含まれています。その遊歩道は竹ヶ島の漁港近くの竹ヶ島神社から始まり、山頂を通り抜け、島を一周する形で竹ヶ島神社の奥宮上を通り、再度、漁港まで戻ってきます。その遊歩道の西側で漁港と内地に面しているエリアは島全体のおよそ3割にあたり、今日、海陽町が所有しています。そして遊歩道の外側であり、太平洋側に面しているエリアは狼煙台の責任を遣わされた一族の末裔と考えられる竹崎家が近年まで所有してきました。3.竹ヶ島神社古代より竹ヶ島では神が崇められ、大自然と神、人間との関係が大切に考えられてきました。また、西アジアから到来した古代イスラエルからの渡来者にとっては、岩は「神」の象徴でもありました。実際、「神」の呼び名としてイスラエル人は古代から「岩」を意味する「ツ」という言葉を用いています。岩は神、として考えられていたのです。それ故、海上に突如として見えてくる岩の島は、正に聖なる場所と考えられたのではないでしょうか。こうして、竹ヶ島は、岩なる島として、その特異である故に、いつしか聖地化されていくことになります。竹ヶ島神社の由緒は不透明ですが、遭難船が神に助けられたという地元の伝承が残されています。ある荒天の夜、竹ヶ島沖で遭難した船が遠くに光を発している何かを見つけ、それを頼りに岸まで辿り着き、無事難を逃れたことができたことから、島の人々が浦磯の奥の岩場に祠を建て祀ったことが、竹ヶ島神社の起源と言い伝えられてきたそうです。それ故、いつの日でも航海の無事と大漁を願い、竹ヶ島の人々は島の東岸にある岩場の祠に集い、そこで神の御加護を祈念してきました。そして後世になって、現在の場所に竹ヶ島神社が建てられることになりました。岩壁の頂点に載せられた御神体石伝承の信憑性に関わらず、竹ヶ島神社の御神体は、島の東方、太平洋岸に佇む巨大な磐座であることに違いはありません。そこには珍しい形状を誇る巨大な岩の壁が並び、遠方の海上から壁が3列に並んでいることを確認することができます。それら岸壁の雄姿は国内でも例のない特異な形状と規模を誇り、その中心となる岩の頂点には、磐座の象徴となる巨石が載せられています。この巨石は、位置や形状からして単なる大自然の働きによる産物と考えるには、いささか不自然なようです。むしろ、祭祀活動を行うた-2-めの聖なる磐座として、古代、人の手によって岩の頂上に載せられと考えられます。その場所が、竹ヶ島の聖地となり、その岸壁の頂上にて多くの方が、今日まで神を参拝して集われてきたのです。後世においては四国の讃岐で生まれ育ち、19歳の時に室戸岬にて霊の目を開眼された空海、こと弘法大師も、四国東海岸沿いを岬に向けて旅する途中に浮かぶ竹ヶ島の存在に気づいたことに違いありません。海岸沿いを船で航海するだけで、その威容なる島の姿が目に映るからです。そして竹ヶ島周辺の地勢と、そこに古代より祭祀場があったことを学ぶうちに、竹ヶ島の存在価値と重要性を知ったのではないでしょうか。秘められた聖地、竹ヶ島神社とその奥宮の存在は、未だにその実態があまり知られぬまま、今日まで至っています。夢と古代のロマンにあふれる竹ヶ島だからこそ、いつまでも美しくかつ、貴重な観光資源として、残されていくことを期待してやみません。4.竹ヶ島の竹林大正12年に記された宍喰村史によると、竹ヶ島という名称で呼ばれるようになった所以として、「昔は竹林繁茂斧斤(まさかり)を入れず。故に此称あり」と記されています。竹林が生い茂る島だからこそ、竹の島、竹ヶ島と呼ばれるようになったようです。竹ヶ島の地勢を実際に検証してみると、その根底には広く隆起した岩場が広がり、まさに岩の島である様相を極めています。そして面積が0.4 km2しかない島でありながら、頂上の標高は約100mということからしても、その斜面はかなり急であることがわかります。竹ヶ島には2つの丘陵があり、それらが南北に繋がることによってひとつの島となることから、その形状はひょうたんのようにも見えます。その繋ぎ目とも言える窪みが島の中心となり、そこに竹林が生い茂っているのです。南北に1km、東西に700mほどの大きさの竹ヶ島において、竹林が茂っているエリアは、島の中心部分100m四方もありません。美しい竹林が見事に生い茂っている箇所は、実際には50m四方ほどの部分に限られています。それでも、中心部竹林の竹の太さや容姿は見事であり、島を訪れる人に感動を呼び起こします。竹ヶ島の南部から東方の太平洋岸にかけては岩場が広がり、周辺は大小無数の岩石によって囲まれています。そして島内でも随所に岩石が露出しており、高低差の激しい太平洋に浮かぶ離島であることからしても、この小さな島の中心地にのみ竹林が自然に生い茂る可能性は極めて低いはずです。その島のど真ん中に竹林が蔽い茂っている訳ですから不思議とし島中心部の美しい竹林か言いようがありません。もしかすると、竹ヶ島の竹林は、古代、人の手によって植え付けられた可能性があります。竹林が島の中心地にのみ生い茂っていること、竹が自然には生えにくい南海の孤島にて竹林となるまで豊かに生えているということ、竹林の西方にはビシャゴ磯に向けて島中心部からの水の放流経路があること、そして竹林の南北には方角の指標となるような頂上石や方角石と考えられる石の存在があることからしても、竹ヶ島の竹林は、何かしら古代の英知が働いた結果、きちんとしたマスタープランに従って植林された可能性が考えられます。竹ヶ島のロマンは、竹、そのものに尽きます。5.岩の博物館竹ヶ島は、「岩の博物館」と言っても過言でないほど、特異な形状を誇る岩が、島の随所に存在します。まず注目すべきが、島の頂上、展望所の真横に在る「頂上石」です。うっすらと生い茂る雑草に包まれてしまうと傍目では見づらい部分もありますが、実はお坊さんが頭に被る笠のごとく、きれいな姿をしています。島の頂点にある石だけに、果たして自然の産物であるかどうかは疑問です。頂上石頂上石の北方には、「頂上石」と同等の笠の形をした巨石が上に載せられているように見える「坊主岩」が存在します。その巨石の笠は、真横から見ると巨石本体よりも30cmほど突き出ており、一見、巨石全体の上蓋のような役割をしているようにも見え、その底辺は地面とほぼ水平です。四国の道沿いにあるこの「坊主岩」の場所は、古代、祭祀活動の拠点であった可能性があります。まず、この坊主岩坊主岩の真下にある環状列石