ブックタイトル日本シティジャーナル vol.191
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日本シティジャーナル vol.191
2018年(平成30年)9月29日発行第191刊毎月第3土曜日発行購読無料金刀比羅宮足摺岬室戸岬いは深い谷がどこまでも続き、しかも枯れ木と倒木が大変多いことから自らの立ち位置を惑わされやすく、自分の居場所がすぐにわからなくなります。一度道を間違うと深い谷間に入ってしまい、Uターンしてまた尾根まで登らなければならず、体力の消耗に繋がります。しかも周辺にはクマが生息していることから、油断すると襲われることになりかねません。さらに危険なことは、天候の急変です。標高2,000mに近い高山だけに、思いもよらず天候が急変し、すぐに深い霧がかかり、強風にさらされてしまう危険をはらんでいます。よほどの健脚と登山経験を持ち、なおかつ準備を周到にしない限り、日帰りの登山でも遭難する危険性が常に伴う秘境の地なのです。幸い、今日では携帯電話を使ってGPSを用い、衛星からのデータにより自分の居場所を地図上で確認することができます。しかしこれも携帯のバッテリーが続くまでです。7~8時間を超える登山では予備のバッテリーがないとGPSも切れることになり、危険はつきません。大台ケ原の東方に広がる熊野の秘境は、そう簡単には入山できない場所と言えます。その大台ケ原の最高峰、日出ヶ岳から東方に向かって直線距離で約5 km、山道を経由して10kmほど歩き、尾根から谷を下り、熊野の奥地にある崖っぷちの終点にまで足を運ぶと、そこに「奥坊主」と名付けられた行き止まりのように見える小さな場所があります。地図上にてその地勢を確認しても何ら特筆に値することはなく、しかも人がなかなか足を踏み入れることができないような熊野の奥地にて名前が付けられていることからして、何故かしらその場所には大切な意味が秘められているに違いありません。レイラインによる奥坊主との出会い熊野から大台ケ原に至る広大なエリアには多くの地名が存在します。しかしながら何ら特徴もなく、ごく限られた人しか足を運ぶことができないような熊野の奥地が、なぜ、奥坊主と命名されたのでしょうか。奥坊主と言えば、江戸時代では江戸城の茶室を管理し、将軍家を接待し竹生島奥坊主神島富士山た坊主のことを指します。坊主という言葉自体、本来は房主と書き、その房を管理する主のことを言います。よって奥坊主とはいつしか、お殿様に仕えるという重職を担う専門の給仕人であり、奥房の主としての責任者だったのです。その語源が江戸時代より昔、どこまで遡るかわかりませんが、いつしか熊野の原生林の一角も、奥坊主として知られるようになったのです。奥坊主はお殿様に茶をもって仕える意味であったことからして、大自然の中の奥坊主とは、そこで神様に茶をたてる、すなわち祈りを捧げて仕える場所であった可能性があります。そんな熊野の秘境にある小さな聖地の存在に、ある日ふと気が付くことになりました。日本に存在する古代神社の建立地は、著名な霊峰や岬を結ぶ架空の直線にて繋がっているものが少なくありません。この聖地が一直線上に並ぶ状態をレイラインと呼びます。レイラインの存在を知るきっかけとなったのが、四国剣山との出会いです。GOOGLEマップを用いて四国の剣山や伊勢神宮の位置付けを検証していた時、ふとその2点を結ぶ線が高野山の地点をピンポイントで通り抜けることに気が付いたのです。高野山という山は存在せず、その中心地と思われる場所をGOOGLEマップは特定していただけなのですが、偶然とは思えませんでした。それゆえ、聖地の数々を結び付けて線引きをしながら、果たして他の聖地も一直線上に並んでいるか確認するという、レイライン考察の旅が始まったのです。その結果、例えば伊勢神宮から京都御所と高野山までの距離はそれぞれ108kmと等しく、御所と高野山の中間にある石上神宮と伊勢神宮を結ぶ線を更に西北西に延長すると、神戸の再度山、生石神社の石の宝殿、そして記紀に登場する比婆山にまで一直線で繋がっていることがわかりました。どうしても偶然の一致とは思えないレイラインの存在に思いを馳せ、さらに一歩踏み込んで考察を続けた結果、思いついたことは、伊勢神宮と高野山、京都御所の3点からなる二等辺三角形と全く同じ大きさの三角形を、今度は再度山を頂点に描くということでした。するとおよそ六芒星のような形が生まれるだけでなく、底辺2点の場所に位置する聖地を特定することができたのです。まず北側の角には皇大神宮とも呼ばれる若宮神社がありました。そして南側の角にあたる地点は大台ケ原に近い熊野の奥地を示していたのです。ところが地図を見ても地勢上、特筆すべき場所はなく、無論、神社もありません。そこで地図を拡大しながら検証しているうちに、何の特徴も見出せない熊野の山奥に「奥坊主」と呼ばれる場所があることを発見したのです。それをもって、伊勢神宮と再度山を頂点に持つ架空の六芒星が完結したのです。熊野の山奥にある原生林の一角が奥坊主と命名され、古代よりそこに人が到来し、その場所を大切にしたのには、それなりの根拠と理由があったことでしょう。その謎は、レイラインの検証により解明できるかもしれません。最初に注目したのは、同じ経度にある聖地です。古代、琵琶湖では竹生島が聖地化されていたと考えられ、今日でも竹生島周辺の琵琶湖の底には多くの遺物が見つかっています。その竹生島の真南に奥坊主があるのです。次に同じ緯度線を引いてみると、奥坊主の西側、同緯度上に古代、海洋豪族が神を祀っていたことで知られる金刀比羅神社が存在します。日本の海原を行き来していた海洋豪族は、瀬戸内から内地の琵琶湖にいたるまで、古代は船で行き来していたことが知られています。よって、竹生島と金刀比羅神社が、奥坊主を通じて紐づけられていたことに何ら不思議はありません。次に奥坊主と富士山の山頂を結んでみました。そるとその途中には古くから多くの神宝が秘蔵されていたと言われる神島が、伊勢湾の入り口となる伊良湖岬の沖に浮かんでいます。さらに四国の足摺岬と室戸岬を結ぶと、その先に奥坊主の場所を見つけることができます。奥坊主と呼ばれる熊野の奥地は、単に偶然にその場所が奥坊主と命名されたのではなく、どうやら周到な計画をもって、綿密にその場所が特定された可能性があります。しかしながら熊野の秘境となる山々は険しく、谷も深く、そこまでの道のりはあまりに遠いことから、いったん道に迷えば帰ってくることができなくなり、遭難死してしまうような場所なのです。それでも、奥坊主の場所が重要視されたからには、何かしら理由があるはずです。いつしかその謎に迫るため、実際に奥坊主を自分の足で訪ね、この目で確かめてみたいと思うようになりました。そして2018年の5月、遂に奥坊主へ登山するチャンスが到来したのです。大失敗に終わった初挑戦の奥坊主!2 018年5月5日の「子供の日」、待ちに待った奥坊主へ登山するチャンスが到来しました。奥坊主に関する情報はほとんどないことから、地図と睨めっこを繰り返しつつ、運を天に任せてベストの登山ルートを探りあてます。最終的に決まったルートは、まず車で花抜峠登山道入り口まで行き、そこから花抜峠を経由して奥坊主に向かい、その後、更に西に進んで終点を大台ケ原ビジターセンターとすることでした。そのため、知人にお願いし、花抜峠で下車した後、ビジターセンターに迎えに来てもらうという段取りでプランを進めました。花抜峠からビジターセンターまでは車でも大台ケ原の南方を迂回して走らなければならず、その距離は100kmを超え、3時間近くかかります。そのような険しい山並みを登山する訳ですが、健脚に自信を持っていたからこそ、勇気をもって踏み出すことにしました。幸いにもYAMAPという登山者向けアプリには最新鋭GPSのマップが搭載されたことから、スマホを携帯するだけで、電波の届かない山奥でも道に迷うことがなくなりました。それ故、安心しきって熊野の奥地へと入っていくことができるように思えたのです。しかしながら十分な下調べをしなかったこと、そして熊野の原生林を甘く見ていたことから、大きな挫折を味わうことになるとは、夢にも思いませんでした。どこもかしこも倒木の嵐だ。。当初から誤算づくめでした。まず、スタート時間を11時と遅めに設定し、途中トレッキングの訓練も含めて走ることから、夕方5時までは終点の大台ケ原ビジターセンターに到達すると見込んだのですが、あまりに無謀な計画でした。また、スタートから終点まで1,000m以上もある高低差も把握しきれていませんでした。急斜面の所々に散在する枯れ木と倒木に囲まれ、極めて足場の悪い山々を15kmもの長距離にわたり登山しなければならず、その距離感覚も読み誤ってしまったのです。しかも、ほとんどの場所に山道がなく、尾根沿いから奥坊主へと抜けるためには急斜面を1km以上も下らなければならないことが、現地をみて初めてわかりました。その通り道は、奥坊主へ到達後、帰りには再び登らなければならない急斜面にもなることから大変な負担です。ましてや道なき道を探しながら足元に注意し、時間を気にしながら花抜峠近くから尾鷲湾を一望する熊野の秘境の地を小走りで進む訳ですから、極度の神経戦を強いられるようなものだったのです。そのような環境下で、15kmもの原生林の中を5時間で走りきることを目論んだ自分が愚かでした。これまで白山、立山、月山、旭岳、石鎚山など多くの山々を走り抜けてきたことから、まさか奥坊主でトラブルが待ち受けているとは思いもよらず、花抜峠登山道入り口から勇ましくスタートしたのです。すると、しょっぱなから雲行きが怪しくなりました。スタート直後から道に迷ってしまったのです。登山道入り口というのに小川が流れていて、その先、どこにも道らしき道が見えないのです。そして小川を行き来した際、うっかり川石の上で足を滑らせて転び、すぐさま靴がびしょ濡れです。その後も結局登山道が探せず、GPSを頼りに急斜面を花抜峠に向けて一直線に登ることにしました。しかしながら斜面は予想以上に険しく、また、原生林に囲まれてしまったことから方向性を間違いやすく、迷いながら急斜面を登ることで体力をひどく消耗し、峠の近くに来た時には既に午後1時20分を回っていました。まだ全体の6分の1にも満たない2km少々しか進んでないことに、一気に焦りを感じ始めました。このままのペースで進むと、終点の大台ケ原ビジターセンターに着くのは夜の10時を過ぎてしまい、遭難する危険性が一気に高まります。しかも手持ちの食糧はなく、水を少々持ってきただけでした。そこで花抜峠を経た後は、傾斜もゆるくなったこともあり、一気に足を速めたのです。そして遂に奥坊主へ繋がる尾根沿いに辿り着き、そこから急斜面を下っていきました。ところが時計を見ると、すでに時刻は3時を回り、しかも尾根からの坂道は下り坂が半端ではなく、200mほど谷間を進んでも行先がわかりづらく、GPS上でも奥坊主はかなり先に見えました。と、その時2つの不安がよぎりました。まず携帯のバッテリーを見ると、もう残りが30%を切っているのです。すでに何度も道に迷い、行ったり来たりを繰り返していることから、熊野の奥地でGPSが止まれば遭難は免れません。そしてこの急斜面をどんどんと下りながら奥坊主に向かうということは、その後、その斜面を逆に登らなければならないということでもあり、このままいくと、既に消耗し始めた体力が限界に達し、夜になって遭難する可能-2-