ブックタイトル日本シティジャーナル vol.192

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日本シティジャーナル vol.192

2018年(平成30年)11月18日発行第192刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 192Nihon City Journal発行:サウンドハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~18:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、八街市、匝瑳市、四街道市、東金市、銚子市、旭市、栄町、東庄町、神崎町、酒々井町、多古町、横芝光町、芝山町、九十九里町、稲敷市、龍ケ崎市、河内町発行部数:300,000部美しき霊峰筑波山の魅力古代の英知が随所に秘められた由緒ある名山茨城県つくば市近郊に聳え立つ筑波山の標高は877m。その頂上は男体山と女体山とに分かれ、筑波山神社の境内地としても知られています。広大な関東平野の北方、霞ケ浦から見て北NCJ109日本とユダヤのハーモニーから続く西に位置する筑波山と成田の距となる女体山(標高8 7 7 m)があ東アジア史を塗り替えたイスラエル民族大移動の潮流離は50km少々ありますが、その間には平坦な地勢しかないため、天気が良く空気が澄み切った日には、成田からでも山の姿をそのままくっきりと眺めることができます。筑波山の頂上からは広大なパノラマビューを楽しむことができます。富士山や伊豆諸島大島の三原山を見渡すことができるだけでなく、その西方には甲武信ケ岳と金峰山、北西には榛名山、北側には那須岳を遠くに望みます。また南西方向には鹿島神宮の聖地が目に入ります。筑波山は日本百名山のひとつとしても名を連ねています。その標高は百名山の中で最も低い877mですが、関東平野内に聳え立つ名山として、誰もが一度は目にする山であり、朝夕に山肌の色を変える山として「紫峰」の名でも知られています。だからこそ、「西に富士、東に筑波」と古くから称され、富士山と対比されるようになったのでしょう。よって古来より筑波山には人々が集い、神を祀り、時には歌い踊り、豊穣を大勢で祝う行事が行われてきたのです。筑波山こそ、日本百名山にランクインされるにふさわしい霊峰です。庶民から愛される筑波山今日、筑波山と言えば、その麓にある筑波山神社が有名であり、連日、大勢の参拝客が訪れています。その境内には樹齢年800年とも言われる大杉が存在します。幹の円周は約10m、高さは32mにもおよび、ご神木として今日まで大切にされています。神社の境内そばからは、山の頂上男体山自由研究路御幸ヶ原コース筑波山神社筑波山ケーブルカー女体山に向けて全長1634mのケーブルカーが高低差およそ500mを行き来しています。ケーブルカーは筑波山頂上に近い男体山(標高871m)の近くが終点となっています。その東側には筑波山の頂上り、山の麓東側からロープウェイが頂上との間のおよそ1.3kmを高低差300mにかけて行き来しています。男体山、女体山とも頂上には神社があり、双方とも麓から自らの足で登山してきた方々や、ロープウェイ、ケーブルカーを使って頂上近くまで来た方々が参拝するために集います。日本百名山の中でも、頂上までのハードルが最も低い山であることが、人気の秘訣と言えそうです。(地図)登山道は筑波山の頂上に向けて、主に3つの山道が整備されています。筑波山神社からはケーブルカー沿いの山道となる「御幸ヶ原コース」が男体山頂上そばの美幸ヶ原までつながり、女体山に向けては「白雲橋コース」が存在します。また、山の東方にあるロープウェイの始点からは女体山頂上に向けて「おたつ石コース」と呼ばれるコースも整備されています。その他、男体山近くの御幸ヶ原と女体山頂を結ぶ短い山道もあり、さらには筑波山頂駅の御幸ヶ原からは男体山頂上周辺をぐるりと一周できる自然研究路とよばれる山道が整備され、磐座や植物を観察できるようになっています。これらの山道はいずれもきれいに整備され、比較的穏やかな斜面が連なっていることから、登山の初心者にもおすすめできるのが筑波山の魅力です。筑波山は「岩の博物館」筑波山はパワースポットとしても有名です。山全体が筑波山神社の御神体となっているだけでなく、頂上から山腹の至る所に磐座があり、古くから人々が神を祀っていた痕跡を今日でも見ることができます。最も注目したいのは、男体山頂上近くにある立つつじヶ丘身石です。自然研究路沿いにあり、山道の入り口がわかりづら筑波山登山コース筑波山ロープウェイ白雲橋コースおたつ石コース迎場コースいことから訪れる人はまばらですが、これこそ、筑波山が誇る最大のパワースポットです。この場所で親鸞が念仏を唱えて餓鬼救済を実現したという言い伝えがあるだけでなく、間宮林蔵が武士として身を立てる誓いを立てた場所であることから、立身石と言われるようになりました。その岩の見事な形状は、正に磐座と呼ばれるのにふさわしく、その頂点からは筑波山からの西方を一望できます。また、この自然研究路沿いには、大石重ねと名付けられた場所もあります。筑波山神社で清められた小石に願い事を書き、この場所に置くことにより成就すると言われています。小石を投げて幸運をつかむガマ石男体山そばの御幸ヶ原と女体山を結ぶ山道の途中には「ガマ石」があります。一見、ガマガエルの最終編ように見える岩の合間がカエルの口のように見え、そこに小石を投げて岩の上にうまくのると、金運などの御利益があると伝えられています。女体山の頂上から下る山道、白雲橋コース沿いにも多くの巨石が連なり、その多くが奇石、磐座として人々から崇められています。頂上から山道を下りていくと、まず、横から見たると大仏様のように見える「大仏岩」に出会います。そして安座常神社で祀られている「屏風岩」、天に聳え立つ「北斗岩」と続き、その後、「裏面大黒」、「出船入船」、「陰陽石」と呼ばれる巨石が連なります。また、巨大な岩の下にぽっかりと空間が空いている岩場もあり、「母の胎内くぐり」と命名されています。さらに巨石の合間に石段が造られた「高天原」と呼ばれる岩場もあり、そこには参拝する神殿も設けられています。これら一連の巨石群の最後には、「弁慶七戻り」と呼ばれる、巨石が山道の両側の石の真上にのっている光景が目に入ります。今にも落ちそうな巨石を見て、あの弁慶さえも7回、右往左往したのでしょうか。それにしても豪快な岩場の連続に感動を覚えないわけにはい-1-Part.II国道から眺める筑波山全景きません。パワースポットなる磐座の連続に、きっと誰もが山道を楽しんで下りてくることでしょう。これぞ、筑波山が「岩の博物館」と呼ばれる所以です。そして最後に筑波山神社の境内まで戻ってくると、そこには大杉が存在します。樹齢年800年とも言われ、幹の円周は約10m、高さは32mにもおよびます。筑波山神社のご神木として、今日まで大切にされています。大勢の参拝者が訪れる筑波山神社筑波山神社の由緒と重要性筑波山神社は筑波山を御神体なる霊峰として仰ぎ、その歴史は日本の国生みの時代まで遡ります。筑波山神社の御祭神は日本書紀や古事記に記されている国生みの神である伊弉諾尊(筑波男大神いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(筑波女大神いざなみのみこと)です。二神が結ばれて神々を生み、それが国生みにつながったことから、夫婦和合や縁結びをはじめとし家内安全、国家の安泰に至るまでのご神徳を筑波神から受けるため、今日でも多くの人々が参拝に訪れます。年中行事の中には稲作文化を中心とする農耕文化と国家の安泰、そして豊穣を祀る祈年祭が例年2月に催され、皇霊殿遥拝式や新嘗祭(にいなめさい)、大祓の行事などが古くから執り行われています。また、皇族の参拝もあることから、皇室との深いつながりを察することができます。筑波山は古くから国内屈指の霊峰として、その存在は語り継がれており、万葉集にも「神代より人の言い継ぎ」との記述がみられます。また、古代より国生みの神である伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神が御祭神として祀られているということは、筑波山神社の創建に、この二神が絡んでいたことによるものでしょう。由緒の沿革によると、国生みの時代、大八洲国(本州)が見いだされた際、二神はその「東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨」されました。つまり島々を船で回りながら、指標となる山々を海辺から望んでいる際、筑波山がひときわ目に留まり浮かび、そこを古代の拠点と定めたのです。そして山頂が2つに分かれることから、男女二柱の神々が男体山、女体山の本殿それぞれにおいて崇められるようになり、その麓には拝殿も造られました。こうして創始者である「いざなぎ、いざなみ両神」が筑波神となったのです。筑波山は古代より重要な位置づけを占め、歴史に名を遺す多くの皇族や豪族が筑波山に立ち寄り、そこで先代の神々を拝しました。そして神武天皇の時代、筑波山神社の男体女体両宮が創祀されることとなります。その後、紀元前1世紀、元伊勢の御巡幸がはじまろうとする直前の時代では、日本の古代宗教に多大なる影響を与えた物部一族が筑波山の重要性に着眼し、そこで社を改めて造営し、管轄することとなりました。由緒によると第10代崇神天皇の時代、物部一族の筑波命が筑波国造となり、それ以降、大化の改新に至るまで、筑波一族が筑波山神社の政を取り仕切るようになります。当時、倭国の内政は乱れ、海外からの侵略のうわさも絶えず、神宝を外敵から守ることが急務とされた時代です。第12代景行天皇の御代、倭姫命から神宝を託されて征伐に出向いた武人である日本武尊は、東征の途中で筑波に立ち寄ったことが古事記に記さ