ブックタイトル日本シティジャーナル vol.194
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日本シティジャーナル vol.194
2019年(平成31年)2月2日発行第194刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 194Nihon City Journal発行:サウンドハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~18:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、八街市、匝瑳市、四街道市、東金市、銚子市、旭市、栄町、東庄町、神崎町、酒々井町、多古町、横芝光町、芝山町、九十九里町、稲敷市、龍ケ崎市、河内町発行部数:300,000部秘宝が埋蔵された状況証拠四国剣山に纏わる神宝の伝承を再検証!平成31年、4月30日に天皇陛下が譲位された後、皇太子さまが新天四皇に国即位剣され、山平成にの元纏号がわる変わ儀神は極宝めての重要です。伝承三種をの神再器は検証!ることとなりました。この皇位継承を国民とともに祝福し、皇室の伝統を世間に知らしめるため、践祚(せんそ)の儀、即位式、そして大嘗祭を象徴するべく授けた宝物です。そ東アジア史を塗り替えたイスラエル民族大移動の潮流と呼ばれる3つのご大典が執り行われます。践祚の儀とは、新天皇が皇位の証となる三種の神器を先帝から引き継ぎ、天皇の位が正式に継承されたことを象徴する儀式を指します。践祚の儀は「剣璽等承継の儀」と「賢所大前の儀」と呼ばれる2つの儀式に分けられ、前者ではスサノオノミコトが大蛇を退治した際に、その尾から取り出したとされる草薙剣と、天照大神を天の石屋から誘い出すために作られた八尺瓊勾玉を、新天皇が受け継ぎます。後者は八咫鏡を用いた儀式となり、すでに鏡は宮中にて祀られていることから、その宮中三殿全体を受け継ぐことにより、儀式が完結します。今日の皇室典範には践祚の儀という文言が使われていないこともあり、その言葉は一般的ではなくなりつつあります。践祚の儀が終わると、その直後、即位式を通じて新天皇は新しい元号による新時代の訪れを国民に告げることになります。そして皇位継承の儀式として最後に催されるのが一代一度の特別な宮中祭祀となる大嘗祭です。新天皇が執り行う最初の新嘗祭りが大嘗祭であり、その年の五穀豊穣に対し神に感謝を捧げます。大嘗祭では秋田や大分で収穫された新米だけでなく、和歌山と淡路の水産物、徳島産の麻織物などがお供えものとして献上されます。その他、各地からの産物も献上され、天皇御代と伝統の継承を国民が一体となってお祝いを申し上げるのです。三種の神器の起源とは皇室の行事には多種多様の儀式が三輪山と石上神社のレイライン剣山住吉酒見社播磨石上神社伊弉諾神宮淡路住吉神社六甲山摩耶山再度山相賀八幡神社丹日前宮生都比売神社存在しますが、中でも皇位継承の証となる三種の神器を受け継ぐ践祚の古事記と日本書紀によると、天照大神が新天地を統治せよと孫の瓊瓊杵尊に対して命じた際に、天孫の地位れ故、古代より皇室の歩みとともに、三種の神器は常に存在することとなります。では、それら神器は何に由来し、どこで作られ、用いられることになったのでしょうか。今日では神宝の現物を見ることができないことから、様々な文献の内容を検証しながら推測することになります。八咫鏡と八尺瓊勾玉については、どちらもその出所が記紀に記されています。これらの神宝は、天照大神を石屋から誘い出す際に作られたものです。鍛冶工は鏡、玉の職人は八尺瓊勾玉を複数作り、それらは天の香山から切り出した真榊にかけられたのです。その後、天照大神は天孫降臨の際、新天地に向かわれる民に三種の神器をお添えになり、御自身の姿を写された八咫鏡については「この鏡はひたすら私の御魂として、私を祭るように祭り仕えなさい」と語り告げたと古事記は伝えています。それを機に、八咫鏡は神聖化されることとなります。天照大神を石屋から誘い出すために用いられた八咫鏡と八尺瓊勾玉は人間の手によって同時期に作られ、神宝となったことが記紀の記述からわかります。それら神宝の名称には神を象徴する「八」という文字が含まれていることも、神宝との関連性を証していると考えられます。草薙剣の出所に関しては、八岐大蛇という化け物の存在を神話の内容から理解する必要があります。海を渡って列島に到来する怪物が人々を拉致し、苦しめていたということからして、八岐大蛇とは海賊船のようなものであり、海の無法者達がスサノオと戦ったと想定されます。そして檜原三神輪社山橿原神宮大宝寺山耳常神社斎宮伊勢伊勢神宮瀧原宮スサノオがその天敵を退治した際に、NCJ109日本とユダヤの大蛇の尾から剣ハーモニーからが見つかったという続くことは、すなわち船の後尾から神宝の剣が見つかったことを意味し、その史実について記紀が記したものと解釈できます。よって草薙剣の出所は日本ではなく、むしろアジア大陸、すなわち外来のものであり、大陸より船によって運ばれてきた神剣だったと考えられます。そしてスサノオが戦いに勝利した際、船の後尾にて発見されたその剣は神宝として大切に収蔵され、天照大神に献上された後、天孫降臨の際には瓊瓊杵尊に授けられました。その後、日本武尊は東征においてその神剣を振るったことから、草薙剣と呼ばれるようになります。三種の神器は何処に日本書紀によると、瓊瓊杵尊に授けられた三種の神器のうち、天の石屋事件の際に作られた八咫鏡は伊勢神宮に祀られています。「これがすなわち伊勢に斎き祀る大神である」と記載されているとおりです。その鏡には、石屋に入れた際につけられた小さな傷跡があり、「その瑕は今もなお残っている」ことも記されています。最終編伊勢神宮にて祀られる前段においては、元伊勢の御巡幸と呼ばれる過去に類を見ない壮大なスケールの長旅が計画され、最終的に1世紀近くの年月をかけて元伊勢として厳選された聖地の数々にて、八咫鏡は順次奉斎されました。その後、御一行は伊勢神宮の聖地にたどり着き、神託により皇大神宮が伊勢に創建され、八咫鏡は天照大神として祀られたのです。伝承や記紀の記述から察するに、八咫鏡の形代(レプリカ)も古くから作られており、同じ名前で呼ばれる鏡を皇室も保有しています。草薙剣については、最終的に愛知県名古屋市にある熱田神宮に移され、それが御神体として祀られました。「この剣は今尾張国の吾湯市村にある。つまり熱田の祝部がお守りになっている神がこれである。」と日本書紀には書かれています。草薙剣という名前の由来は、景行天皇の皇子である日本武尊が野原に火を放たれて殺されそうになった時、その剣をもって草を薙ぎ払うことにより、生き延びることができたからとされています。ところが崇神天皇の時代になると国家情勢が悪化し、海外からの渡来者が海を渡って大勢押し寄せてきただけでなく、列島内で国々は分裂し、内乱の噂が絶えなくなりま-1-す。そのような社会情勢を背景に、草薙剣や八咫鏡の形代(レプリカ)Part.IIが作られ、それら形代は宮中にて皇族により祀られ、本物の草薙剣と八咫鏡は伊勢神宮に移されることとなりました。景行天皇の時代では、東征を託された日本武尊に草薙剣が与えられ、その後、尾張の熱田神宮にて草薙剣は、その御神体として秘蔵されることとなりました。では今日、本物の三種の神器はどこに秘蔵されているのでしょうか。八咫鏡が伊勢神宮にて祀られ、草薙剣は熱田神宮に移された、というのはあくまで記紀に記された伝承であり、実際にそれらの神宝がどこに秘蔵されているかは、定かではないようです。今日、皇室にて保有している三種の神器は「剣璽の間」と呼ばれる部屋に安置されています。八尺瓊勾玉は古くから皇居に存在し、八咫鏡と草薙剣の形代も皇室は保有してきました。つまり皇居で祀られている三種の神器はいずれも形代であり、伊勢神宮と熱田神宮にて保存された神宝と同等の形代であるかどうかも定かではありません。また、草薙剣においては、源氏と平氏との最後の合戦である壇ノ浦の戦いにおいて安徳天皇とともに水中に沈み、失われてしまったという伝承がありますが、その失われた草薙剣でさえも形代であったのではないかと語り継がれています。簡単にまとめてみましょう。まず、本物の八咫鏡と八尺瓊勾玉は国内で作られています。そして草薙剣は、おそらくアジア大陸から持ち運ばれた外来の神宝でしょう。その後、渡来者の数が激増し、国内の紛争が悪化して内政が不安定になったことから、神宝を保護するために、多くの形代、すなわちレプリカが作られることになりました。その結果、本物と形代がどこかですり替えられたと想定され、神宝がどこに秘蔵されているか、いつしかわからなくなったのです。これらの世情を背景に、崇神天皇から垂仁天皇の時代、神宝を携えて皇族が各地を行脚するという、歴史に類を見ない画期的な構想が実現したのです。それが元伊勢の御巡幸です。豊鍬入姫命から倭姫命に引き継がれ、1世紀近く続いた元伊勢の御巡幸は、あてもなく各地を転々とする旅ではありませんでした。皇居近くの霊峰、奈良の三輪山を起点とし、近畿地方を中心に年月をかけて神宝とともに移動し続けた御巡幸は、最終的に伊勢を終点として完結します。日本書紀には垂仁天皇25年、倭姫命の御一行は神風の伊勢国に到達し、大神のお教えのままに「その祠を伊勢国に建て、そのために斎王宮を五十鈴川のほとりに建てられた」と記されています。そして「伊勢国は天照大神が初めて天より降臨された所」として知られるようになりました。これら一連の元伊勢御巡幸には、後世に伝えるべき重大なメッセージが秘められていた可能性があります。御巡幸の主目的は、外敵から神宝を守るためにその在処を隠すことであり、確実な保全方法が模索されたと考えられます。そして御巡幸という長旅を続けて各地で神を祀ることにより、三種の神器がどこに移動し、どこで収蔵されているか、世間にはわからないようになりました。しかしながら巧みな構想によって厳選された御巡幸地の場所には、共通の条件が秘められていたのです。すべての御巡幸地は、ある一つの地点と地理的に結び付けられ、国内の地理を細部にわたって検証し、御巡幸地と全国にある聖地や霊峰との繋がりを精査するならば、その事実が解明できるようにしたのです。そして、その中心となる一つの地点が、神宝の秘蔵場所であったと考えられるのです。元伊勢の御巡幸により、神宝の在処が密かに示されることになりました。その秘蔵場所は、思いもよらず四国の剣山だったのです。神宝の行方を示す状況証拠の数々紀元前後、倭国が多くの小国家に分裂し、天皇による統治が困難な局面を迎えていた時代、国の威厳を守り、神国たる存在を人々に知らしめるためにも、先代から受け継がれてきた神宝を保全し、外敵から護衛することは、国家の最重要課題でした。当時の社会情勢と、その歴史的背景を振り返ってみましょう。まず、紀元前2世紀頃より大陸からの渡来者が急激に増加し、日本列島各地で人種間の歪みや社会的な混乱が起きていたことが、倭国の統治が困難に陥った最も大きな理由として挙げられます。大陸では秦の始皇帝による国家采配が紀元前210年には終焉を遂げ、その後、前漢、後漢の時代へと突入し、中国大陸全体が混乱の時期へと向かいました。始皇帝が死去した後、政治的混乱や迫害などを理由に、大勢の民が中国から東方へと逃亡し、その多くが朝鮮半島を経由して海を渡り、日本列島に渡来したと考えられるのです。歴史人口学的にみても、その当時、数世紀にわたる日本への渡来者の数は少なくとも100万人から150万人とも言われています。3世紀、応神天皇の時代になると、秦氏の先祖とされ、融通王とも呼ばれた渡来人、弓月の君が「自分の国の人夫120県分を率いて帰化」したことが日本書紀にも記されています。これら膨大な数に上