ブックタイトル日本シティジャーナル vol.194

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概要

日本シティジャーナル vol.194

2019年(平成31年)2月2日発行第194刊毎月第3土曜日発行購読無料る渡来人の到来により、政治情勢がさらに不安定になっただけでなく、皇族の存在すら脅かされるようになりました。その結果、神宝そのものが盗難の危機にさらされたのです。国家体制がまだ整っていなかった崇神天皇や垂仁天皇の御代、神宝を護衛することは極めて困難であったに違いありません。神宝が収蔵された各地の神社周辺の地勢を検証するだけでも、それらがいかに無防備な場所であったかがわかります。古代の霊峰として記紀にも明記されている聖地、三輪山を例にとれば標高467mしかなく、平地からものの30分歩くだけで頂上に到達してしまいます。しかも周辺は山と丘に囲まれているだけなので、外部からの攻撃を防ぎようがありません。また、草薙剣が宝蔵された尾張の熱田神宮についても、ごく平坦な場所にあることから無防備に等しいのです。同様に、伊勢神宮を見ても、ゆるやかな丘陵が連なるだけの広大な地であり、神宝を秘蔵するにも、その術に限度があります。これらの状況を見る限り、神宝を真に敬い、大切にする民ならば、人々の手の届かない全く違う場所に本物を秘蔵することを考えるのではないでしょうか。ちょうどピラミッドが一見、王族の墓のように見えても、実際の墓は別の場所に存在し、上手に隠されていたのと同様です。それ故、皇居に収蔵された神宝においても、それらはすべて形代であったと考えられ、当初は本物の神宝が収蔵された熱田神宮や伊勢神宮においても、いつしか本物が形代とすり替えられたのではないかと推測されます。そのような不安定な国内外の情勢を背景に、元伊勢の御巡幸という奇想天外な計画が遂行されたのです。一見、とめどもないような複雑な旅路を示す御巡幸地の数々ですが、実はそれらすべては地理的に重要な意味が秘められていました。すべての御巡幸地は、レイラインと呼ばれる聖地や地勢上の著名な拠点を結ぶ直線上において、四国剣山と結び付いていたのです。よって剣山こそ、古代、神宝が秘蔵された場所であったと考えられます。元伊勢御巡幸の目的は、神宝が秘蔵された剣山の場所を暗示することであり、御巡幸地のレイラインが交差する場所を見出すことにより、神宝の行方を理解することができるようにしたのです。古代英知の結晶が元伊勢御巡幸であり、剣山と一直線上に結び付けられていた御巡幸地の存在が明らかにされました。今日、地図を実際に見ながらレイラインの存在を確認できることからしても、古代、剣山が重要な基点であり、そこに神宝が携えて行かれたであろうことを想像するに難くありません。(www.historyjp.com「日本のレイライン」参照)倭姫命による元伊勢の御巡幸において、今日の岐阜県、美濃国、伊久良河宮から川を下り、尾張国(愛知県)、伊勢国(三重県)への船旅をガイドした古代海洋豪族の船木一族の存在にも注目です。元伊勢御巡幸も半ばを過ぎた琵琶湖の東、坂田宮に近い美濃国からの旅路は、船による移動が大半を占めました。その船旅も海洋豪族の強力なサポートと護衛があったからこそ、倭姫命御一行は安心して川を下り、海岸沿いを伊勢に向けて移動することができたのです。「倭姫命世紀」の記述からも、船の存在が当時、いかに重要であったかを垣間見ることができます。その船旅を取り仕切ったと考えられる船木一族は、元伊勢御巡幸の後、紀伊半島を旋回して吉野川上流に拠点を設け、船の塗料となる原材料として不可欠であった辰砂、水銀を発掘しながら地域の周辺に、仁生都比命神社をはじめとする神の参拝場所を造営しています。その後、淡路島の北部、今日の淡路市山奥の小高い丘に一族の拠点を置き、その場所を舟木と呼びました。そして中心地には巨石を置き、周辺には環状列石を並べ、そこでも神を礼拝したのです。それが今日の石上神社です。元伊勢御巡幸の延長線として、一見何の目印もない淡路島の舟木が重要であった理由は明確です。まず、その場所は元伊勢御巡幸の始点となる奈良の三輪山だけでなく、伊勢神宮の斎宮とも同緯度にあります。また、国生みの創始者である伊弉諾尊を祀る伊弉諾神宮と、剣山頂上とを結ぶ線上にもあり、その延長線上には、北東方向に摩耶山と六甲山が存在します。つまり、淡路島の舟木は、元伊勢御巡幸を締めくくる意味においても、御巡幸の始点である三輪山と、その最終到達点となる伊勢、そして神宝が秘蔵されることとなった剣山をレイライン上で結び付ける重要な拠点だったのです。神宝を秘蔵し、外敵から完全に守るためには、人里離れた山奥の場所を選ぶしかなかったのかもしれません。いずれにしても、古代の民はその英知を結集して神宝が秘蔵される場所を探し求め、それを剣山と定めた後、その場所を暗黙のうちに元伊勢の御巡幸で示したのです。その後、三輪山、伊勢と剣山を結び付ける淡路島、舟木の拠点には巨石が置かれ、その石上神社で神が祀られることにより、神宝埋蔵の秘策は完結したのです。そして元伊勢御巡幸の直後、垂仁天皇の御代では一千個の剣が作られ、それらは奈良の石上神宮に宝蔵し、物部一族が治めることとなりました。多くの形代や神宝の創作により、真の神宝が秘蔵された場所が歴史の中に埋もれることになります。一見、妄想のようにも聞こえる剣山宝蔵の信ぴょう性が高いことを示す決め手が、元伊勢御巡幸後の1世紀後に台頭した邪馬台国の存在です。本稿「邪馬台国への道のり」においては、中国史書の記述に従って邪馬台国への道を辿ると、その場所は四国剣山の周辺になることを解説しています。邪馬台国を剣山周辺の山地と想定することにより、史書の記述を何ら矛盾なく読み通すことができます。これは、元伊勢御巡幸の結果、神宝が剣山に持ち込まれたことを裏付けています。何故なら、神宝があるところには神の崇拝と聖地化の動きが見られ、その聖地にて祈り求める民の中には霊力が養われ、不思議な力を誇示する人も存在したと考えられるからです。そして神宝が埋蔵された剣山においては、2世紀後半、神宝を追い求めて山を登られた卑弥呼が霊力を養い、霊媒師として徐々に歴史の表面に台頭し、国家を統治する権力まで持つようになったのです。剣山こそ、神宝を秘蔵する場所として、古代の識者が見初めた霊峰だったのです。だからこそ、元伊勢の御巡幸が綿密に計算され、レイラインの原則に基づいて諸々の聖地が剣山と紐づけられように仕組まれたのです。そして歴史の流れとともに神宝が秘蔵された剣山周辺にて巨大な集落が形成され、卑弥呼が邪馬台国を統治するまでに至ったと想定するならば、多くの歴史の謎が紐解けてきます。古代から注目されてきた剣山とは古代、日本列島では特に瀬戸内を基点として、その周辺の山々に高地性集落が築かれました。せっかく平地があるのに、わざわざ不便な山の上に集落を作ったのは、古代の民が神を崇拝してやまず、しかも神は山の頂上に訪れるという信仰があったからに他なりません。それ故、古代の民は海を渡り、日本列島に居住の基点を見出す際、周辺の地勢をしっかりと研究しながら、まず、一番高い山の場所を見定め、その山の頂上周辺にて祭祀活動を行ったことでしょう。高地性集落における祭祀活動の痕跡は、今日でも列島各地で確認することができます。西日本で2番目の標高を誇る剣山は、紀伊水道、淡路島、そして熊野の山々からも、その頂上を遠くに眺めることができます。「終わりの日に、主の神殿の山は山々の頭として硬く立ち、どの峰よりも高くそびえる」という記述が旧約聖書のイザヤ書にあります。淡路島や紀伊水道の海原からも望むことができる剣山は、この聖書の言葉にふさわしく、他の山々の峰より高く聳え立ちます。古代日本にて、イスラエルからの渡来者が日本を訪れたとするならば、まず、周辺の島々をくまなく船で巡り渡り、一連の「国生み」ともよばれる島々の探索に没頭したことでしょう。そして遠くに見える山々の姿を確認しながら標高の高い山を島ごとに特定し、それらの山々にて神を祀り、新天地の祝福を祈り求めたと考えられます。同様に元伊勢の時代においても、淡路島からだけでなく、奈良の南方、熊野の山頂からも遠くに見える剣山が注目されたことでしょう。剣山の頭がひとつ抜きん出ていることからしても、聖山と考えられたに違いありません。しかも四国のおよそ中心に位置し、その山頂に到達するためには極めて困難な山道を1か月近くかけて登らなければならないのです。よって神を崇め祀るに最もふさわしい秘境の山と考えられたに違いありません。大切な神宝を安心して収蔵することができた剣山の存在があったからこそ、山の麓周辺には多くの集落が形成されたと考えられます。実際、四国や山陰、山陽地方などには高地性集落が広範囲に存在していたことが知られています。特に剣山の周辺では、西側には祖谷、奥祖谷から、その東北側は木屋平から焼山寺周辺の神山に至るまで、広範囲に高地性集落が古くから存在していたようです。また、剣山近くの奥祖谷周辺の山々には、明治時代まで大規模な牧場が山の高台に存在していました。その後、牧場を管理する若手の人々が都市部へ流出し、働き手が不足して経営が成り立たなくなったことから衰退を続け、最終的にはそれらの牧場の跡地には国の政策により、杉の植林が盛んに行われるようになったのです。そして瞬く間に、多くの古代集落や牧場の跡地に杉の木が育ち始め、いつしか牧場の姿は、跡形もなく消え去っていきました。これらの消滅した牧場の過去には、高地性集落の存在があったのではないでしょうか。それは遊牧民族の名残とも考えられ、元来、アジア大陸より訪れた渡来人によって構築されたものであるかもしれません。剣山周辺の山々では杉植林の場所を見極めることにより、牧場や高地性集落が存在していた可能性のある場所を知ることができます。それら杉植林は剣山を中心に、その西側は三好市から美馬郡、そして東側は焼山寺そばの神山から勝浦郡に及ぶまで広範囲に広がっていることからしても、剣山周辺には高地性集落が多く形成された時代があったと考えられます。また、四国の高地には豊かな水源が多数存在し、剣山周辺も例外ではありません。剣山では頂上周辺から麓に至るまで随所に水が湧き出ており、水源に恵まれていることは一目瞭然です。これほどまでに十分な量の水源があるからこそ、古来、山頂から麓周辺にかけて大勢の人が居住できる集落が作られていったことでしょう。特に祭壇や神殿の周辺では、様々な清めの儀式を執り行うためにも十分な水を供給する必要があります。よって、豊富な水量が確保できる剣山では、色々な工夫が施されながら水源が要所にて確保されたと考えられます。剣山に纏わる神宝の伝承剣山は山岳信仰の霊場として名高い山です。つい昭和の初めまでは、女性が近づくことさえ許されない女人禁制の霊山だったのです。剣山の周辺地域では、古来より剣山に纏わる様々な伝承が残されています。中でも剣山にはイスラエルの「契約の箱」と、それに纏わる神宝が埋められているのではないかという話は根強く地元で語り継がれてきており、今日、三好市の役場で管理されている祖谷の観光案内にも、それらの伝承についての記述が見られます。例年7月に行われる剣山祭りで、契約の箱に酷似している神輿を担ぎながら剣山頂上まで登る風習は、イスラエル文化の名残ではないかと考えられます。また、近郊にある神明神社では、古代イスラエルの祭祀場に類似した形状の遺跡も存在します。そこで、剣山に纏わる神宝の伝承について、これまで囁かれてきている内容をまとめてみました。剣山の麓、奥祖谷周辺の地域では、古くから安徳天皇の剣が隠されているという言い伝えがあります。安徳天皇の剣とは、草薙の剣、もしくはそのレプリカを指します。つまり三種の神器のひとつである草薙剣が、剣山のどこかに隠されているのではという言い伝えがあり、剣山の麓集落にて語り継がれてきているのです。また、ソロモン王の秘宝が剣山に埋蔵されているという伝説が祖谷地域に残っていることにも注目です。ソロモンの秘宝と限定されている宝は特にないことから、おそらく契約の箱、またはそれに纏わる宝のことを指していると考えられます。イスラエルの契約の箱に関わる神宝は3つあります。まず十戒が刻まれた契約の石板、次に芽を出したアロンの杖、最後にマンナと呼ばれる天からの食べ物を入れた金の壺です。記紀に書かれている三種の神器とイスラエル神宝の類似点は、その形状にあります。十戒の石板は薄い板であることから八咫鏡の形、アロンの杖は細長いことから草薙剣、また、マンナの壺は丸い容器であることから八尺瓊勾玉の形に類似しています。前述したとおり、八咫鏡と八尺瓊勾玉は国内で作られたものであることから、ソロモン王の秘宝にはなり得ませんが、草薙剣については外来の神宝であると想定できることから、それがイスラエルから運ばれ、剣山に埋蔵されたという可能性は否定できません。もしソロモンの秘宝が剣らしきものと仮定するならば、それは草薙剣としてスサノオが八岐大蛇から勝ち取った剣か、もしくは契約の箱に収められていたアロンの杖、いずれかが剣山に埋蔵されたとは考えられないでしょうか。剣山の麓にある穴吹と呼ばれる村の近くには石尾神社と呼ばれる巨石を拝する神社があります。南北120mを超える巨石の景観は見事であり、その巨石の上にはコウヤマキと呼ばれる高野山に生息している樹木が何故かしら茂っています。古代、四国吉野川周辺の平野部から剣山に行くためには、人々はまず、石尾神社にてお参りしたと言い伝えられています。そこから杖崎峠を越えて、剣山頂へとひたすら長い道のりを歩いたのです。よって、石尾神社と剣山とは古代から深い繋がりがありました。また、石尾神社の御神体となる巨石には大きな割れ目があり、遠い昔から「金の鶏」がそこに秘蔵されたと-2-