ブックタイトル日本シティジャーナル vol.195
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日本シティジャーナル vol.195
2019年(平成31年)3月16日発行第195刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 195Nihon City Journal発行:サウンドハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~18:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、八街市、匝瑳市、四街道市、東金市、銚子市、旭市、栄町、東庄町、神崎町、酒々井町、多古町、横芝光町、芝山町、九十九里町、稲敷市、龍ケ崎市、河内町発行部数:300,000部若杉山遺跡のレイライン辰砂と海洋豪族の繋がりから浮かび上がる歴史の真相2019年3月1日、徳島県の山奥にある若杉山遺跡(阿南市四水井国町剣)が山NHKにニュースや纏わる歩神くと、宝の標高伝147m承のを若杉再山検証!各種メディアで取り上げられ、話題となりました。若杉山遺跡からは赤色顔料である水銀朱の原料、辰砂が採掘されただけで渡り、山の斜面を登ると、目の東アジア史を塗り替えたイスラエル民族大移動の潮流なく、そこには人工の坑道跡があり、発掘された土器片は、弥生時代後期から古墳時代初頭1~3世紀のものと確認されたのです。奈良時代8世紀の長登銅山跡(山口県美祢市)が国内最古の坑道というこれまでの定説が覆され、それから5世紀も遡った時代に、辰砂の坑道が徳島で掘られていたことになります。それ故、阿南市と徳島県教育委員会は、プレスリリースを通じて若杉山遺跡が日本最古の坑道である可能性が高いことを公表しました。しかしながら若杉山遺跡を訪ねて実際に検証してみると、疑問はつきません。何故、徳島県の山奥にて辰砂が採掘されたのでしょうか。人里離れた何ら目印もない山奥で、どのようにその岩場を探し当てたのでしょうか。1~3世紀の時代背景と辰砂のニーズは、どのような関連性があるのでしょうか。レイラインの検証からそれらのヒントを見出すことができるだけでなく、歴史の流れが見事に浮かび上がってきます。若杉山遺跡の歴史徳島県の小松島市と阿南市の中央を流れる一級河川、那賀川の上流を四国霊場二十一番札所の太龍寺近くまで20kmほど上ると、若杉山に繋がる支流にあたります。そこから「四国の元伊勢御巡幸に続く海洋豪族の辰砂探索大歩危祖谷剣山▲徳島吉野川矢野古墳勝浦川小松島那賀川若杉山遺跡海部海部川加古川住吉酒見社明石国明石川舟木淡路国紀ノ川東条川志染川茨木市舟木町摂津国日前宮道」と称される遍路に沿って太龍寺を目指し、南方に1km少々の山腹に立てられた若杉山遺跡の看板と休憩所が目に入ってきます。その背後に流れる小川を前に突如として段々畑のように石が積まれた大きな階段層と杉林が見えてきます。そこが若杉山遺跡です。太龍寺へ続く四国の道若杉山遺跡は1950年代に発見され、1980年代から徳島県立博物館により発掘調査が始まりました。1997年には「辰砂生産遺跡の調査-徳島県阿南市若杉山遺跡-」という調査報告が発表され、遺跡から出土した水銀朱精製用の石器類などについて、詳細が記録されています。若杉山遺跡からは辰砂に限らず、辰砂の精製に使用する石杵(いしきね)だけでも40点以上、石臼(いしうす)については300点以上、その他、石器や勾玉なども多く出土しています。全国的に見ても辰砂を採掘する遺跡としては、前例のない大規模な遺構が徳島県に存在していたのです。2017年に始まった遺跡調査では、標高245mの若杉山の山腹にある岩場から、坑道跡と思われる横穴が存在することも確認されました。若杉山遺跡の坑道は、高さ0.7~1.2m、幅は最も広い箇所で3mほど、住吉大社吉野川▲三輪山▲葛城山丹生都比売神社伊都郡熊野本宮大社安曇川熊野速玉大社▲神倉山熊野那智大社伊吹山▲船木関坂田宮近江国八幡山▲船木関花窟神社竹生島船来山▲本巣郡船木郷伊久良河宮中嶋宮(酒見神社)耳常神社斎宮伊勢国伊勢神宮度会郡大紀町伊雑宮船木そして長さはおよそ13mもあNCJ109日本とユダヤのります。そのハーモニーから後も遺跡続調く査は継続して行われ、2019年2月、この坑道の入り口からおよそ3mの場所から出土した土器片数十点のうち、少なくとも5点については弥生時代後期、1~3世紀頃のものであることが特定されました。その結果、弥生時代では地表から掘削しながら辰砂を掘り当てていたという従来の定説が覆されることになったのです。既に弥生時代では、硬い岩盤をトンネル状に坑道を掘り、辰砂を採掘するという高度な技術が進み、徳島県の那賀川上流から辰砂が掘削されていたのです。また、石杵や石臼などの石器も多数、発掘されていることから、辰砂を用いて顔料に加工する作業も若杉山遺跡で行われていたと推測されます。弥生時代後期、1~3世紀と言えば、中国大陸においては秦の始皇帝没後、およそ2世紀後に台頭した後漢から三国時代へと内乱が続く時代です。最終編三国時代は戦乱の幕開けであり、その三国のひとつが日本でもよく知られている魏です。当時、隣国の日本でも国家情勢は不安の坩堝にあり、大勢の渡来者が大陸から移住し続ける最中、天皇を中心とする国家の統治が難しい局面を迎えていました。紀元1世紀を迎える前後、国内では倭姫命による元伊勢御巡幸が終盤を迎え、垂仁天皇26年には伊勢神宮が建立されました。それから2世紀も経たないうちに、卑弥呼を女王とする邪馬台国が突如として歴史に台頭しました。その詳細については魏志倭人伝などの中国史書に綴られています。その文中には「其山有丹」という記述があります。倭国(日本)には、丹、すなわち辰砂からできる水銀を採取できる山が存在し、女王卑弥呼は、その丹を中国に献上したのです。よって、邪馬台国の時代、辰砂が採掘された地域は、その比定地の近くであった可能性が高いと考えられます。邪馬台国と若杉山遺跡は辰砂という特殊な資源に共通点があ-1-Part.II高く積み上げられた石垣り、弥生時代後期の1~3世紀という時代にも一致することから、若杉山遺跡からさほど遠くない場所に、邪馬台国が存在したとは考えられないでしょうか。3世紀、女王卑弥呼が統治した邪馬台国の時代に辰砂が産出された可能性がある場所は、いまだ、この若杉山遺跡しか見つけられていません。今後も坑道内の調査が進められ、辰砂の発掘方法だけでなく、若杉山遺跡から発掘された遺物や辰砂の検証から、それらの時代背景が、さらに詳しく特定されることが期待されます。海洋豪族が辰砂を欲した理由辰砂は丹(に)とも呼ばれる資源です。中国湖南省の辰州が主産地だったことから、一般的には辰砂として知られるようになりました。色が赤いことから、朱砂とも呼ばれています。その鉱石を砕いて採取した粉が主成分となり、本朱の顔料になります。辰砂を加熱して発生する水銀蒸気と二酸化硫黄を冷却すると、水銀が精製されます。古代より水銀は大切な資源であったことから、十分な辰砂を確保することが重要視されたのです。また、辰砂の本質は硫化水銀であり、毒性が強く、採掘の際は粉塵により多くの健康被害が生じることもありました。若杉山遺跡は、その辰砂を採取する遺跡だったのです。日本では、およそ弥生時代から辰砂の採掘が始まったと考えられています。しかしながら辰砂の掘削は一般的な想定より、もっと早い時期から始まった可能性があります。紀元前10世紀、ソロモン王の時代、遠い西アジアにおいてはタルシシ船が世界中を航海していました。船による渡航時代の始まりは、それよりもさらに時代を遡ることからしても、古代の民は今日、私たちが想像する以上の優れた航海術や造船の技術を習得していたと考えられます。ソロモン王の時代から3世紀ほど過ぎた頃、北イスラエル王国が滅び、南ユダ王国も崩壊の危機に直面した時、王朝を支えてきた南ユダ王国の豪族らは神宝を携えながら預言者らとともに船に乗り込み、東方へと向かいました。それらイスラエルから逃れてきた王族や預言者の一行が、台湾から八重山諸島、琉球諸島を経由して日本列島に渡来して神々となり、皇族の元となる歴史の土台を作った可能性があります。弥生時代後期、日本列島を船で行き来していた海洋豪族は、その末裔と考えられ、優れた航海技術、天文学や地勢学の知識を持っていました。だからこそ、日本列島をくまなく探索しながら、辰砂をはじめとする必要不可欠な資源を探し当てることができたのです。中でも辰砂は、最も重要視された資源でした。辰砂の使用目的の中でも、船底の塗装は最も歴史が古いだけでなく、耐久性に優れた船を造り上げるためには不可決な資源でした。しかしながら、往々にして鉱山は山奥に存在し、その場所を掘り当てることは困難を極めました。しかも掘削された鉱山や鉱石の粉を山奥から運搬することは容易でなかったことは想像に難くありません。それ故、辰砂を含む鉱山を見つけるため、西アジア系の海洋豪族は、それまで培ってきた天文学的知石垣の上に広がる杉林