ブックタイトル日本シティジャーナル vol.195

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日本シティジャーナル vol.195

2019年(平成31年)3月16日発行第195刊毎月第3土曜日発行購読無料史跡若杉山遺跡識と経験をもって鉱山を掘り当てることに努めたことでしょう。こうして海洋豪族自らが主導しながら、辰砂の鉱山場所が特定され、そこに坑道が掘進されるようになったのです。それらの鉱山は、主に近畿地方から四国にかけて古くから存在しました。特に歴史の古い辰砂の鉱山は、和歌山県や三重県、徳島県に流れる大きな河川、もしくはその支流沿いにあります。辰砂が河川沿いの山々にて掘削された理由は、その採取に携わった主人公が、川を船で行き来することを苦にしない古代の海洋豪族であったからに他なりません。よって資源の運搬には船が多用されただけでなく、海洋豪族自ら辰砂を探し求めた結果、辰砂を含む鉱山の多くが河川に近い山々に見出されたと考えられます。辰砂には優れた耐水効果があります。辰砂を顔料とした本朱の塗料をしっかりと船底に塗ることにより、船底の腐食や貝殻の付着による被害が緩和し、船の耐久性が見違えるように向上することが知られるようになりました。そのため、いつしか海洋豪族は辰砂を求めて日本列島内でも特に、近畿地方と四国を中心に探索を進めました。その海洋豪族が複数の船舶を用いて歴史を大きく動かしたドラマが、元伊勢の御巡幸です。船木氏に代表される海洋豪族は、弥生時代後期にあたる1世紀となる直前、伊久良河宮(今日の岐阜)から伊勢まで向かう最終段の元伊勢御巡幸にて、倭姫命御一行と神宝を護衛する任務を担い、複数の船を先導しながら無事、御一行を伊勢へと送迎しました。その後、船木氏ら発掘調査中の坑道跡海洋豪族は伊勢に自らの集落を築いただけでなく、紀伊半島を西方へと海岸沿いに播磨方面へ移動し続け、その途中、集落を築きながら、辰砂の鉱山を見出すことに努めたのです。その結果、伊勢国の丹生、今日の多気町や、和歌山県の吉野川上流、丹生都比売神社周辺の紀伊山地、そして徳島の若杉山などが、辰砂の掘削に纏わる場所として知られるようになりました。「丹生」には「辰砂が採取できる地」「辰砂を精製する氏族」という意味があることからしても、丹生都比売神社は辰砂と深く関わっていたことがわかります。丹生都比売神社の由緒によると、「魏志倭人伝には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります」と書かれています。丹生の名称を含む神社や地名は紀伊半島を中心に広がっており、その背景には常に辰砂の存在がありました。今日、丹生都比売神社は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」にその名を連ねています。1世紀前後の時代、船を建造する造船所は主に琵琶湖の周辺や、伊久良河宮などにあり、政治は奈良を中心として大陸に目が向いていたことから、海上交通のアクセスを考えたうえでも、辰砂の採取場所は紀伊半島、四国に絞り込むことが望まれたと考えられます。海洋豪族により仕切られ、船舶建造のために不可欠な資源となった辰砂であったからこそ、それら鉱山は海上交通の便が良い、紀伊半島や四国の大河川沿いに見出されたのです。古代社会における辰砂の重要性辰砂の用途は造船における船底の塗装に限りません。水銀の元となる辰砂には多くの優れた効用があり、古代から顔料、染料、朱肉、薬などに幅広く活用されてきました。船底を塗装して耐久性を向上させることに長年用いられてきた辰砂は、その後、古墳においても多用されるようになります。元伊勢御巡幸若杉山遺跡のレイライン宗像大社の後、海洋豪族の主導により、紀伊半島や四国各地に辰砂の鉱山が発見されました。その後、いつしか邪馬台国が歴史に台頭します。そして卑弥呼による女王国家が崩壊した後、3世紀半ば頃から古墳時代が到来し、いつしか辰砂は朱色の顔料、死者を弔うためにも使われ始めたのです。そして石室や棺、古墳の内壁や壁画の彩色など多用されたのです。つまり、古墳にて人体が埋葬される際、辰砂を大量に使用するようになったのです。若杉山遺跡が位置する阿波(徳島県)では矢野古墳からも辰砂が産出されたことから、これらの辰砂は船によって輸送され、古墳を造る際にも積極的に使用されたと想定されます。一級河川那賀川朱色の顔料として重宝された辰砂は、古墳に限らず、由緒ある建造物や重要文化財にも多用されました。辰砂は防腐剤の役目も果たすことから、神社の鳥居を赤く塗る際に使われただけでなく、貴重な神殿の壁面などにも使われることがありました。また、古代では辰砂を含む赤土を顔や身体に塗ることがあり、これが化粧の始まりであったという説もあります。丹生都比売神社の由緒には、「播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大臣の宣託により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来た」と記載されています。いつの日も、歴史の中で辰砂は重要な役割を占めていました。それだけ高価なものであり、様々な用途において、効力を発揮する資源だったのです。だからこそ、海洋豪族は辰砂を探し求めて紀伊半島、四国の川を行き来し、レイラインの考察から重要な拠点を見出しては、そこに辰砂を掘り当て、坑道を掘進したのです。何の目印もない山567石鎚山生石神社再度山石上神宮伊勢神宮三輪山金刀比羅宮丹生都比売神社瀧原宮山上ヶ岳若杉山遺跡生石ヶ峰剣山花窟神社の中腹に若杉山遺跡の場所が見出されたのも、偶然ではありません。それには確かな根拠がありました。若杉山のレイライン那賀川支流沿いの小さな山の中腹に連なる岩場の一角に若杉山遺跡があります。人気の全くない山奥でもあり、何ら目印も見当たりません。広大な四国の山岳、山々の中からいったいどのようにして若杉山を選定し、しかもその斜面に露出する多くの岩の中から、どのようにして特定の岩を選別し、掘削することができたのでしょうか。レイラインの考察から答えを見出すことができます。レイラインとは、霊峰と言われる山々や大きな岬、神社などの聖地が一直線上に並んでいる状態を言います。一直線上に結び付けられると、たとえ山奥に新しく神社を建立した場合でも、他の指標を参照しながらその位置が見つけやすいだけでなく、同一線上の拠点同士が地の力と利を共有するという意味合いを持つことになります。そして神社など新たな拠点を設立する際には、複数のレイラインが交差する場所であることが重要視されたのです。神を祀る聖地や都を造営する場所など、大切な場所を見知らぬ新天地にて探し出す場合、古代ではレイラインの交差という構想が積極的に活用されました。若杉山遺跡も例に漏れず、複数のレイラインが交差する地点に見出されたのです。若杉山遺跡の年代は1~3世紀と特定されたことから、古代、元伊勢の御巡幸が終焉し、邪馬台国が台頭する時代に重なっていると考えられます。その時代背景を考えながら、レイラインの指標となる可能性の高い聖地や山を思い浮かべてみました。まず、多くのレイラインにおいて日本の最高峰である富士山が大切な指標となります。次に元伊勢御巡幸の基点でもあり、神が住まわれたとされる三輪山と、天照大神が祀られた伊1234富士山鹿島神宮1若杉山遺跡-三輪山(30度線(夏至の日の出))2若杉山遺跡-丹生都比売神社-富士山-鹿島神宮3若杉山遺跡-生石ヶ峰-山上ヶ岳-瀧原宮-伊勢神宮4生石神社-再度山-石上神宮-伊勢神宮5宗像大社-若杉山遺跡-花窟神社6石鎚山-剣山-若杉山遺跡7石鎚山-金刀比羅宮-生石神社勢神宮の存在が挙げられます。この2つの聖地も、レイラインの指標として多用されています。神宝と海洋豪族の歴史に纏わる神社としては、鹿島神宮も重要です。また、神社の中でも1世紀という時代を振り返るならば、丹生都比売神社の存在を忘れることができません。元伊勢御巡幸が終わった直後の時代、その船旅を先導した船木氏らは紀伊半島の随所に一族の拠点を設けただけでなく、辰砂を求めて紀伊水道から吉野川を上り、その上流に辰砂の鉱山を見つけました。辰砂が発掘された場所は丹生とよばれ、その近郊には丹生都比売神社が建立されたのです。若杉山遺跡が辰砂の掘削場所であったことから、丹生都比売神社との関係があっても不思議ではありません。さらには元伊勢御巡幸が示唆する神宝の秘蔵地として、御巡幸地のレイラインすべてが交差する剣山の存在にも注目です。剣山には元伊勢御巡幸で祀られた真の神宝が一時期秘蔵されていた可能性があります。これらの神社や霊峰を指標として結ぶレイラインの線上に若杉山遺跡が存在するか、見てみましょう。まず、霊峰なる三輪山から見て、冬至の日に太陽が沈む方角、およそ240度の方向に線を引いてみました。すると若杉山遺跡に当たります。これは、若杉山遺跡から見れば、夏至の日に太陽が昇る方向に三輪山が存在することを意味しています。夏至の日の出となる方角はレイラインの構想において、極めて重要な位置付けを持っています。次に富士山の頂上と鹿島神宮を結ぶ線を紀伊半島まで延長してみました。すると丹生都比売神社を通ることがわかります。丹生都比売神社の建立地を特定する際、富士山と鹿島神宮の延長線上に、その聖地が見出された結果と考えられます。しかもそのレイラインを西方に伸ばした延長線上に若杉山遺跡があるのです。つまり若杉山遺跡の-2-