ブックタイトル日本シティジャーナル vol.196
- ページ
- 1/4
このページは 日本シティジャーナル vol.196 の電子ブックに掲載されている1ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 日本シティジャーナル vol.196 の電子ブックに掲載されている1ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
日本シティジャーナル vol.196
2019年(平成31年)4月20日発行第196刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 196Nihon City Journal発行:サウンドハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~18:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、八街市、匝瑳市、四街道市、東金市、銚子市、旭市、栄町、東庄町、神崎町、酒々井町、多古町、横芝光町、芝山町、九十九里町、稲敷市、龍ケ崎市、河内町発行部数:300,000部天皇家の菊花紋の真相古代西アジアの王家紋章に酷似する菊花紋の背景を探る菊花紋と言えば、誰もが手にするパスポートの表紙にも四国剣山に纏わるを浮神かべた宝の酒を伝飲み承交わすこを再検証!描かれている天皇家のシンボルであり、日本人にはとても馴染みの深い紋章です。菊花紋はその名のとおり、菊の花NCJ109日本とユダヤのハーモニーから続く様として流行し、宮中では年す。しかしながら町家の商標東アジア史を塗り替えたイスラエル民族大移動の潮流弁を図案化したものであり、パスポートの菊紋は16枚の花弁が一重に描かれていることから、「十六一重表菊」と呼ばれています。花弁の枚数や重ね方の違いから、菊花紋には複数の異なるデザインが存在し、それらの名称は、花弁の枚数と、それらが重なり合っているかどうかで決まります。パスポートの菊紋は花弁が重ならない「一重」のタイプです。それに対して、皇室の菊花紋は16枚の花弁が表を向いて重なっていることから、「十六八重表菊」と名付けられています。皇室の代名詞とも言える菊花紋の根底にある菊の歴史は古く、仁徳天皇が即位された古墳時代にまで遡ります。その当時、大陸より伝来された菊には長寿を全うするための薬用効果があると伝えられていたようです。奈良時代では、菊は肌寒い晩秋でも鮮やかに咲くことから秋の季節を代表する花として認知され始めただけでなく、梅や竹、蘭とともに、草木の中の四君子の一つとされました。平安時代になると、「古今和歌集」や「源氏物語」の中で、菊が詠まれバビロンでネブカドネザルが建設したイシュタル門の壁画た詩歌が多く見られるようになり、歌を詠みながら菊の花ともありました。また、「いろは歌」が普及するのと時期を同じくして、菊花紋は特に文中行事として観菊の宴が始まりました。鎌倉時代では後鳥羽上皇が菊の紋をことのほか愛されたことが知られています。上皇は衣服や刀剣など、様々な日常品にまで菊の紋を記し、自ら焼刃を入れた刀までに16弁の菊紋を彫ったという伝承もあります。こうして菊花紋は後鳥羽上皇の時代から、天皇家の紋章として公に取り入れられるようになったのです。その後、菊花紋は後深草天皇、亀山天皇、後宇多天皇などにより継承され、いつしか「十六八重表菊」が皇室の紋として徐々に認知されるようになります。また、菊水紋などの形状の異なる菊花紋も、楠木正成をはじめ公家や武将などにより使われるようになり、武家のシンボルとしては足利、織田、豊臣氏などが家紋として使用しました。また江戸時代においては複数の大名や神社仏閣の紋としても使われています。明治時代では、西郷隆盛が維新の功績が認められ、明治天皇より菊紋をいただいたことが伝えられています。その菊紋は「抱き菊の葉に菊」とも呼ばれ、明治天皇自らがデザインしたものです。「十六八重表菊」が正式に皇室の紋章とされたのは、1869年、明治2年の太政官布告によりまなどにも濫用され始めたため、当初は禁令が出され、許可なく物品へ御紋を描くことが禁止されました。明治22年には菊花中心の円の直径と菊花全体の大きさの割合が3対38に定義され、大正15年に発布された皇室儀制令により、菊の花は16葉、その花弁は8重菊の複弁、弁のはしの弧は32と定められました。その後、規制は緩められ、今日では皇室の家紋として天皇旗や天皇御料の乗り物、宮殿の建築物、食器や礼服、および印紙やパスポートなどに幅広く利用されているだけでなく、多くの社寺などでも使用されています。菊花紋はいつ、だれが創作したか?最終編菊花紋の起源は、前述したとおり鎌倉時代に後鳥羽上皇が十六菊紋を自らの紋章として愛用したことがその始まりと言われています。しかし、そのデザインは誰が考案したのでしょうか。一説によると、古墳時代、仁徳天皇に仕えていた貴族らが、当時、大陸より持ち込まれた菊の花の美しさに魅了され、いつしか菊紋が描かれるようになったとのことです。しかしながら、いかなる史書にも菊花紋のデザインについての言及が見当たりません。果たして古代、花に魅了されたが故に、菊花紋をわざわざデザインするようなことが考えられるでしょうか。そもそも古墳時代から奈良時代にかけて、家紋を必要とする文化的なニーズがあったのでしょうか。それから何世紀も経った後の平安時代、後鳥羽上皇がその菊の紋を天皇家の紋として使い始めました。しかし、その菊花紋のデザインも、どこに由来するかは不明のままです。古墳時代から奈良時代にかけて用いられ始めた紋章のPart.II古代エジプトで作られた金製ロータスの皿デザインやオブジェがどこかに残されており、それに後鳥羽上皇が目を留めたのでしょうか。それとも家紋を欲するあまり、後鳥羽上皇が自らデザインしたのでしょうか。または皇室をとりまく学者からの紹介があったのでしょうか。いずれにしても、16弁の菊花紋をデザインするのは容易くなく、それを創作したという史書の記録も存在せず、また、そこまでして家紋が必要となる理由が見当たりません。様々な憶測が飛び交う中、皇室の表紋である菊花紋のデザインの成り立ちについては、日の出ずる国家の象徴である天皇家のシンボルとして、菊花紋が創作されたという説があります。延命長寿の効用を伴う延年草とも呼ばれる菊の花を原型に、その花弁が放射状に並ぶと日の光にも例えることができることから、それを家紋のデザインに取り入れたと推測するのです。しかしながら、これも憶測にしかすぎません。菊花紋のルーツをいくら調べても、日本国内の歴史を振り返るだけでは、答えに行き詰ってしまうようです。古代西アジアに存在した菊花紋のデザイン菊花紋に酷似するデザインは、古代、西アジアからエジプトにかけて各地で存在しました。平安時代よりもさらに昔に遡る紀元前30世紀前後、エジプトでは太陽の象徴とも考えられる金の皿が、王族の墓に納められていたことがわかりました。ロータスの皿とも呼ばれるこの美しい器には、菊花紋に酷似したデザインが用いられています。また、紀元前24ヘロデ門16弁の紋章世紀という遠い昔のシュメール王朝では、その王家を象徴する家紋として十六芒星が使われたようです。シュメールは今日の中近東、イランの周辺に存在した国家です。例えば紀元前2300年ごろ、シュメール・アッカド王朝の時代に建造されたナラム・シン王の戦勝碑には、菊の紋章に近い十六芒星のデザインが描かれています。このデザインは、中心の円形から二等辺三角形の尖った形状が8方向に放射して八芒星となり、それが八重に重なり十六芒星となっています。菊花紋のように周辺が円状の花弁ではなく尖っているため、見た目は菊花紋に見えませんが、16弁をもつことから関連性はあるかもしれません。イスラエルの首都エルサレムの中心にあるエルサレム神殿の城壁、ヘロデ門の上部にも、菊花紋に似たデザインが刻まれています。紀元前11世紀にダビデ王がイスラエルの王として君臨した際に、エルサレムの城壁は建造され、ダビデ王の子であるソロモン王がエルサレム神殿を城壁内に建造し、平安の都が完成しました。その後、長い歴史の中でイスラエル国家は崩壊し、幾度となくエルサレムの城壁は破壊されます。今日、建てられている城壁は、新門を除いては15~6世紀前後に再建されたものが多く、中には-1-