ブックタイトル日本シティジャーナル vol.198

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日本シティジャーナル vol.198

2019年(令和元年)6月29日発行第198刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 198Nihon City Journal発行:サウンドハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~18:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、八街市、匝瑳市、四街道市、東金市、銚子市、旭市、栄町、東庄町、神崎町、酒々井町、多古町、横芝光町、芝山町、九十九里町、稲敷市、龍ケ崎市、河内町発行部数:300,000部古代聖地を結ぶ「石の宝殿」のレイライン「益田岩船」とのつながりから垣間見る海洋豪族の不思議日本列島各地では古代より、多くの巨石が御神体として祀前は生石と呼ばれ、その読みは四国剣山に纏わる神宝の伝承を再検証!られ、人々から崇められています。「岩なる神」という信仰心が古くから土着した最中、いつしか宮城県鹽竈神社の「塩竈」、鹿児島県霧島神宮の「天逆東鉾アジア」、そして兵史庫県を生石塗神社り替がえたイスラエル建立されています。「石の宝民族大移動の潮流の「石の宝殿」は「日本三奇」として知られるようになりました。中でも「石の宝殿」の豪快なまでに巨大で特異な形状と、きめ細かな仕上げの美しさは、今日まで多くの人を魅了し続けてきました。パワースポットとしても知られる「石の宝殿」の魅力は、訪れる参拝者の心を揺るがします。これまで「石の宝殿」の背景と歴史は、多くの謎に包まれてきました。宝殿が存在する生石神社の由緒には、その成り立ちについての記述はあるものの、史実としては曖昧であり、歴史の流れを特定するには至りません。その他、神代から弥生時代後期、飛鳥時代に関わる複数の伝承も残されていますが、古代の不透明な時期ということもあり、それらも十分に吟味されることはなかったのです。よって、「石の宝殿」はいつしか神秘化され、「日本三奇」のひとつとして、計り知れぬ存在となりました。その不思議な巨石の謎を、レイラインの検証から紐解いていくことができます。「石の宝殿」の形状と祠の背景「石の宝殿」は兵庫県の加古500トンを超える巨大な石の宝殿川市に近い生石(おうしこ)神社にあります。古くから村の名正式には「おうしこ」ですが、「おいし」、「おいしこ」と呼ばれることも多いようです。そこに巨石を御神体とする生石神社殿」は「鎮の石室」とも呼ばれ、三方を岩壁に囲まれた巨岩からなる宮殿ともいわれる岩石の空間に、ほぼ正方形に近い巨石の塔がすっぽりと入っているのです。奈良時代初期に書かれた「播磨国風土記」印南郡(いなみのこおり)の条には、「石の宝殿」について以下のとおり記載されています。「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、広さ一丈五尺、高さもかくの如し。名号を大石といふ。」「石の宝殿」としても知られる神社の御神体は、横幅が約6.4m、奥行きが約7m、高さは約6mに削られた巨石の塔であり、その総重量は500トンとも700トンとも言われています。風土記の伝承によれば、神聖化された巨石は「作り石」とも呼ばれています。壁面四方には垂直に幅の広い溝状のへこみがきれいに削られ、とても美しい仕上げとなっています。その精工な職人技による溝状の跡は、奈良にある「益田の岩船」を彷彿させます。これは「石の宝殿」と「益田の岩船」という多くの謎に包まれた巨石が、古代では何等かの理由で結びついている可能性を示唆しています。NCJ109日本とユダヤの「石の宝殿」の底部は中心ハーモニーから続くに向かってきれいにえぐられ、足のような芯の部分によって全体が支えられています。よって、周辺から見ると池中に浮くような様相となっています。それ故、「石の宝殿」は「浮石」とも呼ばれるようになりました。その池の水は霊水と考えられ、いかなる干ばつにおいても渇することなく「海水の満干を表し、また万病に卓効あるもの」、と古くから言い伝えられています。また、横一面には、屋根型に突出する特殊なデザインが施されています。正面には祠が設けられており、中心部分が生石神社の拝殿となっています。その拝殿の両側にて祭神である大己貴命と少彦名命が祀られています。「石の宝殿」建造に纏わる由緒の数々生石神社の御神体として古代より崇められてきた「石の宝殿」の成り立ちに纏わる複数の由緒を辿っていくと、お最終編よそ歴史の流れが見えてきます。「石の宝殿」が造られた経緯は、3つのステージに分けられます。まず神代のステージでは、国家の安泰を願いつつ列島内をくまなく旅しながら国造りに専念した二神により、「石の宝殿」となる巨石の場所が見出され、そこで石を削る作業が行われたのです。作業は未完成に終わりましたが、場所と巨石の特定ができました。2つ目のステージは紀元1世紀、崇神天皇の時代に移り変わり、未完成のまま断念されていた巨石を祀るため、そこに生石神社が創建されることとなります。第3のステージが6世紀後半の飛鳥時代です。時を経て台頭した物部守屋一族らの働きにより、-1-Part.II生石神社のレイライン出雲大社八雲山金刀比羅宮厳魂神社石鎚山天狗岳剣山「石の宝殿」の整備が一気に進み、今日の見ることのできる形に近い状態まで修復されたと考えられます。まず、神代のステージにおける成り立ちを振り返ってみましょう。生石神社の由緒によると、鎮の石室(いわや)とも呼ばれる「石の宝殿」が造られたきっかけは、国生みが始まった直後の神代、大己貴命(大国主神)と少彦名命による国造りに起因します。二神は八十神を平定し、人々に農業や医術を教えて生活の基盤となる日本の礎を築いたことで知られています。ある時、荒ぶる列島を鎮めることを願い、二神は生石の地にて「国土を鎮めるに相応しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に作業を進めた」のです。ところが作業半ばで反乱が生じ、夜明けまでに宮殿を起こすことができませんでした。それでも二神は、「たとえこの社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと」と言明したと記されています。境内の案内板には、もう少し踏み込んだ解説が記されています。その沿革によると、大己貴命と少彦名命の二神は「天神の勅命で国土経営のため出雲から当地に立ち寄りになり、この宝殿山に仮宮を造って御滞在された時、この石宝殿を刻まれた」とのことです。つまり神代において、スサノオ命が拠点とした出雲から旅された孫の大己貴命ら二神は、国家安泰のために、生石に「石の宝殿」の基となる巨石を見出し、それにノミをあてて加工したのです。それが「石の宝殿」の原点となりました。しかしながら作業途中で反乱が生じ、「石宝殿造りの作業は捨てられたので未完成に終わりました。夜明けとなり、この宮殿を正面に起こすことが出来なかった」と由緒では説明しています。一見不可解な文章ですが、その意味は「播州石宝生石神社石の宝殿六甲山再度山石上神宮住吉大社大神神社益田岩船殿略縁起」を読むと明らかになります。そこには、夜が明けて時間がなくなった結果、生石大神を祀る宮殿は、「横倒しのまま起こすことができなかった。」と書かれています。つまり、当初「石の宝殿」は、その巨石を精巧にノミで削るため、巨石を横に寝かせながら石を削ったと考えられるのです。そして最終的にはその巨石を再び起こし上げて、まっすぐに立たせることが目論まれたことでしょう。だからこそ、古くから「石の宝殿」の底石は切られているという伝承があり、「浮石」とも言われているのです。つまり歴史のどこかで、倒れていた巨石が起こされて、今の形になったと推測されます。こうして神代に創建された「石の宝殿」の原型は未完成でありながらも、その後、弥生時代から飛鳥、奈良時代にかけて、「石の宝殿」「鎮の石室」として人々から崇め祀られるようになります。生石神社創建の歴史神代から何世紀も経た紀元前後、崇神天皇の御代、それまで倒れたまま起こされることがなかった「石の宝殿」の巨石を御神体とする生石神社が創建されることとなります。これが2つ目のステージです。当時、国内各地では疫病が流行し、海の向こうからは敵国来襲の噂も流れ、大勢の渡来者が朝鮮半島を経由して日本列島に移住してくる最中、国家は分断の危機に直面していました。由緒によると、その時「二神が天皇の夢枕に現れ、吾が霊を祭らば天下は泰平なるべし」とのお告げがあり、それを機に生石神社が創建されることになったのです。崇神天皇の時代といえば、大和朝廷において元伊勢の御巡幸が始まった時です。1世紀近くにわたり続いた御巡幸は豊鋤入姫命から倭姫命へと引き継が