ブックタイトル日本シティジャーナル vol.198

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日本シティジャーナル vol.198

2019年(令和元年)6月29日発行第198刊毎月第3土曜日発行購読無料生石神社の「石の宝殿」へ向かう階段れ、垂仁天皇の時代まで続きます。奈良の三輪山から始まった元伊勢の御巡幸の目的は、表立っては伊勢神宮を建立するまでの旅路を世間に知らしめることでした。しかしその背後には、外敵の来襲から神宝を守るため、各地を転々としながら敵の目をくらまし、神宝を敵の手が届かいない遠い場所に秘蔵してしまうという壮大なスケールのプロジェクトが秘められていたのです。それ故、生石神社の創建は元伊勢御巡幸と共に、国家安泰という願いの元に考案された事業だったのです。「石の宝殿」の創建について、「播州旧社寺記」には「二神顕われ坐す時、天女降り社を造らんとす。既に黎明に及び起し立つ暇あらず、即ち上天して去る。今石宝殿也。」と記載されています。この内容からは、二神が夢で現れただけでなく、直後、天女が降臨し、社を造られたことがわかります。その天女とは、崇神天皇の皇女である豊鋤入姫命ではないでしょうか。元伊勢ご巡幸が始まってからおよそ半世紀後、和歌山から吉備国(岡山県)へと向かう途中のルートにある「石の宝殿」にて、生石神社は創建されましたが、御巡幸の途中ということもあり、御一行は社だけを建立するのみに終始し、すぐに去らなければならなかったことが「播州旧社寺記」の記述から理解できます。元伊勢ご巡幸の最終段は、豊鋤入姫命から使命を引き継いだ倭姫命が、伊勢の五十鈴川周辺に伊勢神宮を建立することにより終焉すると考えられています。ところが、ご巡幸の詳細について記されている「倭姫命世記」を見ると、実際には伊勢池中に浮かぶように見える浮石に到達した後にも船旅が続いていたことがわかります。そして御一行を船で導かれたと考えられる海洋豪族の船木一族は、紀伊半島を西方向に回り続けて紀伊水道へと向かい、最終的には紀伊国の丹生や吉野、海を隔てた四国の若杉山、淡路の舟木、そして播磨界隈などにも船木氏の拠点を設けることとなります。この船木氏の働きにより、元伊勢御巡幸はその目的である神宝の秘蔵を達成することができただけでなく、海洋豪族の印として益田岩船のみならず、「石の宝殿」の整備も行われたのです。船木氏の最終拠点は播磨であり、その高台からは淡路の舟木だけでなく四国の剣山、「石の宝殿」も見届けることができたのです。これら一連のシナリオが単なる憶測ではなく、史実である可能性が高いと推測できることは、御巡幸地と他の聖地との繋がりを明るみにするレイラインと呼ばれる線引きの考察により確認することができます。例えば御巡幸の最終目的地となる神宝の秘蔵場所が四国の剣山であったことは、元伊勢の御巡幸地につながる多くのレイラインを考察することにより明らかになります。だからこそ、御巡幸における船旅の主導者である船木一族は、海洋豪族とは縁のない淡路島の高台に舟木の拠点を設けたのです。その場所は三輪山と同緯度にあり、剣山と伊弉諾神宮を結ぶ線が交差するピンポイントの地点だったのです。元伊勢ご巡幸の終焉とともに1世紀少々経つと、神宝が秘蔵されたと考えられる四国の山上にて邪馬台国が産声をあげます。そして日本の歴史を大きく動かす国家として台頭するのです。つまり「石の宝殿」の存在とは単なる生石神社の御神体だけでなく、実は元伊勢の御巡幸や神宝の秘蔵、そして海洋豪族による国家への貢献とも深く繋がっていたのです。物部氏による「石の宝殿」の整備最後のステージが、物部氏による生石神社と巨石の整備です。「播磨国風土記」には「石の宝殿」について、「聖徳の王の御世、弓削(ゆげ)の大連(物部守屋)の造れる石なり」と記されています。物部氏の一族である物部守屋が弓削大連と称されたのは聖徳太子の時代である6世紀後半ですが、既にその時期には「石の宝殿」が造られているのは前述したとおりです。よって、新たに「石の宝殿」を創建したということではなく、古代、建造されながらも未完成のまま倒れていた巨石を立ち起こすため、物部守屋一族が尽力されたと解釈できます。物部守屋とは、イスラエルにて祭祀を司っていたレビ族の血統を継いでいる可能性が高い一族です。その優れた宗教的感性は、まさに古代イスラエル人のものに酷似しています。その前提で推察すると、物部守屋が母方の姓である「弓削」(ユゲ)を名乗り始めた理由が見えてきます。何故なら「ユゲ」は、ユダヤ人を意味する言葉であると考えられるからです。別章にて解説しているとおり、中国史書である東夷伝に記載されている「九夷」は、中国語でJiu-yi(ジウィ)と発音し、「イスラエルの民」を意味すると考えられます。その「九夷」をヘブライ語で逆さ読みすると、JとGの子音はヘブライ語では同じことから「ユゲ」と読むことができます。よって「弓削」という当て字の背景には、「イスラエルの民」という意味が盛り込まれていた可能性があります。物部守屋は国家権力を担うまでになった豪族であり、また物資の供給や兵器、輸送体制にも当時、大きな力をもっていました。よって、その物部守屋一族が聖徳太子の時代に「石の宝殿」を整備して立て起こす、ということは十分に考えられることです。したがって6世紀から7世紀にかけて、「石の宝殿」は現在の様相にまで整備され、生石神社の御神体となるべく、池中を浮いている「浮石」、そして「作り石」と言われるようになったのでしょう。この500トンを超える巨石をどのようにして立て起こしたかは世紀の謎です。不可能を可能にする古代人の英知に驚嘆するばかりです。大己貴神と少彦名命の歴史的背景生石神社の由緒に記載されている伝承が正しいとするならば、石の宝殿が最初に手掛けられた時代は、神代でも最も古い時代まで遡ります。大己貴命(大出雲に向けて突出する石の1面国主神)と少彦名命により国造りが行われた時代は初代神武天皇の時代よりも古く、瓊瓊杵尊が九州の高千穂に天孫降臨した時代の直前になります。それは伊耶那岐命と伊邪那美命が南西諸島から船で北上し、淡路島を中心として日本列島の島々を見出し、その後、子である素戔嗚尊が日本海側の出雲を拠点として、国の開拓に貢献された直後の時代でもあります。素戔嗚尊は主に出雲と韓地(からくに)と呼ばれた朝鮮半島を行き来しながら建国の働きに大きな貢献を遂げました。八岐大蛇と呼ばれる外来の敵船との戦いはあまりに有名であり、いつしか神話化されてしまいましたが、これは実際にあった海上での戦争を神話に例えているにすぎません。海を渡って日本に渡来した海洋豪族の子孫である素戔嗚尊は、造船技術に長けていただけでなく、日本列島という新天地において船を造ることの重要性を熟知していました。それ故、子である五十猛命に命じて、宮殿を造るための檜に加えて、船を造るための杉を植林させ、同時に食料となる木の実を九州の筑紫から大八洲国(本州)までくまなく種を蒔き、列島をことごとく青山にされたのです。その結果、五十猛命は「木国」ともいわれる紀伊国に住まわれました。こうして樹木や食料となる植物が生い茂り、日本列島の地が居住しやすい環境が整えられてきた時、素戔嗚尊の孫にあたる大己貴神と少彦名命は大和国を整備するために船に乗り、日本列島に到来したのです。古事記によると、少彦名命は天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗り、波の彼方より列島に辿り着いたと記載されています。少彦名命の名前が登場するのは記紀以外には主に山陰、四国、北陸の地方伝承であることから、素戔嗚尊と同じく2人は出雲から上陸し、そこを起点として力を合わせて列島内を巡り歩き、島々に住む人達のために病気の治療法や、災害を払い除くための祈祷の方法などを定めたのでしょう。そして少彦名命は亡くなられる直前、熊野の最先端にある岬に行き着き、そこから淡路へと向かったのです。その後、一人になった大己貴神はそれでも列島内を巡り歩き続け、国造りを完成させるために全力を振り絞って働かれました。そして最後に出雲へと戻ってきたのです。その時、大己貴神は「この国を平定したのは、この私ただ一人である。私と一緒に天下を治める者はいるだろうか」と、独り言を語っていたちょうどその時、遂に神が現れ、「私がいたからこそ、あなたは国を平定するという偉大な功績を立てることができたのだ」と大己貴神にお告げになりました。そして神は「日本国の三諸山に住みたい」と語られたことから、大三輪の神として、今日の三輪山に神の宮殿が造られたのです。これらを背景に考えると、大己貴神ら二神が活躍された国造りの時代における日本列島の状態が、うっすらと見えてくるようです。列島は未開の地に生い茂る樹木に囲まれていたようです。その雑林をかいくぐりながら、全国をくまなく整備して歩き回るという、とてつもない作業に大己貴神は携わっていたのです。しかも未踏の地であったことから、どこに何があるかわからない、という状態です。よって、列島の周辺や、その内地にも目印となる拠点を設け、恒久的な指標とすることは極めて重要な作業であったと考えられます。それ故、大己貴神と少彦名命は、列島内各地に目印となる拠点を見出していく最中、まず、「国土を鎮めるに相応しい石の宮殿」を造るに至ったのです。西アジアから渡来したと考えられる大己貴神らの先祖にとって、岩は神の象徴でした。いつの日も、岩なる神を崇めるという伝統が守られてきたことも、石の宮殿を手掛けた背景にあるようです。レイラインを構成する指標とは最古のレイラインを検証する際、認識しておかねばならな-2-