ブックタイトル日本シティジャーナル vol.199
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日本シティジャーナル vol.199
2019年(令和元年)7月28日発行第199刊毎月第3土曜日発行購読無料日本シティジャーナルvol. 199Nihon City Journal発行:サウンドハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~18:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、八街市、匝瑳市、四街道市、東金市、銚子市、旭市、栄町、東庄町、神崎町、酒々井町、多古町、横芝光町、芝山町、九十九里町、稲敷市、龍ケ崎市、河内町発行部数:300,000部巨石文化益田岩船の不思議イスラエルのマサダ要塞と金田城に由来する可能性を探る古代から日本列島の各地では巨石信仰が広まり、神仏が宿るれら古代の謎を解明する扉を、四国剣山に纏わる神宝伝承を再検証!聖なるスポットとして、多くの巨石が崇められてきました。岩には神が宿る、すなわち「岩なる神」という宗教感は自然崇拝の賜物であり、時には大陸より渡東来したアジア移住者により史を巨石塗文化り替頂えたイスラエル上近くの山道沿いにある石造民族大移動の潮流の思想が持ち込まれることもありました。多くの巨石に古代の民が注目する最中、時には巨石に人の手が入れられて岩が切られ、不思議な形状を醸し出しながら石造物として名乗りをあげることもありました。橿原市にある益田岩船は奈良の酒船石や亀石に匹敵する、まさに奇石と呼ばれるにふさわしい不思議な作品です。益田岩船は樫原ニュータウンの西側、白樫南小学校裏に隣接する岩船山とも呼ばれている小高い丘の斜面に存在します。人の手が巧妙に入れられた巨石の作品でありながら、その歴史的背景はこれまで何ら特定することができず、真相は多くの謎に包まれています。また、何故かしら知名度も低く、地元の方々でもこの比類なき幾何学的なデザインを誇る巨石を、まだ見たことがないという人が多いようです。益田岩船の美しい仕上がりと、その異様なデザイン、そして巨石が存在するそのロケーションそのものには、何かしら重要な意味があるはずです。そレイラインの考察から検証していた矢先、ふとしたきっかけで対馬の金田城の頂上まで登山する機会に恵まれました。そして物を見た瞬間、目が釘付けになりました。そこには益田岩船に酷似した2つの正方形の穴が造られていたのです。レイラインの検証とともに、益田岩船のデザインに類似した石造物を比較検証することにより、古代の謎を紐解くきっかけを得ることができるかもしれません。益田岩船の巨石デザイン花崗岩からなる益田岩船の大きさは、東西に約11m、南北に8m、高さは4.7m、形は台形の様相を呈しています。岩船の上部には、東西方向に幅およそ1.8mの溝が切られ、その内側に縦横1.6mの正方形となる2つの大きな穴が、深さおよそ1.3mに彫られています。これら2つの穴は互いに1.4m離れています。花崗岩の巨石に切り込まれた幾何学的なデザインの仕上がりは見事であり、古代の造作物とは思えないほどの美しさを誇ります。益田岩船の南側は、岩の表面が綺麗に磨かれたような仕上げとなり、北側も上半分は手が入NCJ109日本とユダヤのれられ、スムースな表面になっハーモニーから続くています。また、北側の下部から東西方向の側面にかけては、網目のような格子状のデザインが表面に彫られており、その不思議なデザインに一瞬、目が留まります。深さ10cmほどにもなる格子状の切込みは整然と並び、何等かの目的をもって彫られたようにも見えます。格子状の切込みに関する最も有力な説は、益田岩船の岩石表面をきれいに仕上げるための製造過程に必要とした加工の痕と考えることです。磨かれた部分と格子状になっている部分との接点が乱れて見えることから、格子状に切り込みを入れながら表面加工を進めていくにあたり、巨石全体を最後まで完結できなかったと想定されます。上部にある2つの穴のうち、ひとつにはクラックと呼ばれる小さな隙間が生じ、たまった雨水が漏れて流れてしまうことが原因で、プロジェクトが頓挫したのかもしれません。最終編しかしながら表面を加工するために、最初からわざわざ格子状のデザインを全面に渡り整然と切り込むでしょうか。それもいささか考えづらいことから、これら格子状の整形痕は、何かを象徴する意図的なデザインであったと主張する説もありま益田岩Part.II船のレイライン出雲大社八雲山す。例えば、益田岩船と呼ばれるだけに、古代の船をモチーフとして彫られたものとは考えられないでしょうか。紀元前10世紀以上にもなる遠い昔の時代から、西アジアを中心に人類は船で遠洋まで航海していたことが知られています。イスラエルではソロモン王の時代、すでにタルシシ船がアフリカ大陸からアジア大陸に向けて航海を繰り返していました。その後、紀元前5世紀、古代ギリシャでは三段櫂を搭載したトライリムと呼ばれた戦艦も歴史に姿を現しました。トライリムの漕ぎ坐は3段になっていることから、船の横には三段に櫂が飛び出し、船底に向けて海面に近い箇所から四角形の窓が積み重なっていたのです。考古学の資料分析から描かれた古代トライリムの図を参照すると、その升目状にデザインされている三段櫂の有様は、多くの格子状デザインが積み重なったようにも見えます。もしかすると、船の櫂が出る窓を思いおこしながら格子状のデザインを用いて切り込みを入れ、益田岩船の表面を上部から削って磨いたのかもしれません。益田岩船の年代と位置付け益田岩船の巨石は、異なる場所から人の手で運ばれて置かれ、そして現在の不思議な形になるまで手が加えられたのでしょうか。岩の重量は400~500tは超えると想定され、今日の技術をもっても、移動することは極めて難しいことです。しかも小高い丘の上まで運ぶわ生石神社石の宝殿伊弉諾神宮益田岩船紀伊大島出雲猿田彦神社けですから、大変な労苦と技術を要するはずです。よって、今日では自然石として従来、その場所にあったのではないかという考えが主流になってきています。しかしながら、周辺には類似した岩石もなく、何の変哲もない斜面に唐突に存在する巨石であることから、人為的に動かされた巨石であるという説も否定できません。古代人の英知は想像をはるかに凌ぐ優れたものであり、エジプトのピラミッドにしても何千、何万という巨石をどのように積み上げたのか、その方法さえも今日まで特定することができていません。よって重たいから元々その場所にあったであろう、という想定は安易にできません。また、益田岩船の場所が、ピンポイントで重要な位置づけを占めていたことにも注視する必要があります。レイラインの考察から、益田岩船の場所は伊弉諾神宮と同緯度のラインと、紀伊半島の最先端となる紀伊大島出雲の真北にあたるラインが交差する地点にあたることがわかります。指標としてわかりやすい場所にあるだけでなく伊弉諾神宮とも結び付く地点であることから、古くから奈良地方において、地の力を宿す中心的な場所となっていた可能性があります。そのクロスポイントに目印となる岩を置き、美しい石造物を彫ることにより、何らかの大切なメッセージを人々に伝えようとしたのではないでしょうか。それ故、人為的に巨石がその場所に持ち運ばれてきたとい500幾何学トンをな切込超みがえる際巨立大つな古石代の宝奇殿石益田岩船益田岩船の側面に描かれた格子状の跡紀元前410年頃のトライリムを描いたレリーフ画-1-