ブックタイトル日本シティジャーナル vol.199
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日本シティジャーナル vol.199
2019年(令和元年)7月28日発行第199刊毎月第3土曜日発行購読無料う説も、安易に否定することはできないでしょう。いずれにしても、益田岩船の場所、そのものに重要な意味があることに違いはありません。では、この巨大な石造物はいつ頃造られたのでしょうか。一説によると、益田岩船のデザインは大和時代に普及した高麗尺と呼ばれる、ものさしの基準を用いて採寸されているということです。それに加え、益田岩船の表面加工の技術が、古墳時代末期から飛鳥時代に造られた奈良界隈に存在する他の石造物と類似点が多いことから、益田岩船は7世紀前後に造られたのではないかと考えられています。益田岩船の年代を考えるにあたり、少なくとも2つの視点から見極める必要があります。まず、巨石そのものが発見された、もしくは移設された時代がいつであったか。そしてその後、石造物の作品として手掛けられたのはいつだったかということです。それらの時代を検証するにあたり、レイライン上の位置づけからヒントを得ることができます。益田岩船の巨石が奈良の中心に見出され、その場所が大切な指標として認識されたのは、古代でも、かなり時代を遡るものと考えられます。何故ならば、益田岩船は紀伊半島の最南端に突出する紀伊大島出雲と同じ経度にあり、その線が淡路島の伊弉諾神宮と同緯度の線と交差する場所にあるからです。紀伊大島出雲は紀伊半島の先に突出する島であり、海、陸地、双方から見てわかりやすい場所となっていることから、古代の指標として用いられやすかったのです。また、紀伊大島の東部は、島根県の出雲に紐づけられて紀伊大島出雲と呼ばれていることにも注目です。出雲(イズモ)はヘブライ語で「最果て」を意味する言葉です。紀伊半島でも突出した最果て、最南端となる紀伊大島出雲から見て真北に、益田岩船が存在します。また、益田岩船は、国生みが始まった淡路島の中心にある伊弉諾神宮と同緯度の位置に存在します。伊弉諾神宮は、伊耶那岐神が葬られた古代最古の聖地のひとつです。その伊弉諾神宮と同緯度の線が紀伊大島出雲か益田岩船の上部にある2つの正方形穴らみて真北となる線と交差する地点に益田岩船があるのです。このように古代でも最も古い歴史を誇る場所や、紀伊大島出雲のようにわかりやすい自然の指標のみを用いたレイライン上にある拠点は、年代の古い史跡の特徴となっています。こうして益田岩船の巨石は古代、現在の場所に発見されたか、そのピンポイントの場所に巨石が運ばれ、そこが重大な指標として認識されるようになったと考えられます。この益田岩船が指標として存在したからこそ、益田岩船と出雲の八雲山を結ぶ線上に、後世において兵庫県にある生石神社の「石の宝殿」が見出されたと推測されます。日本三大奇石の一つにあげられる「石の宝殿」は、崇神天皇の時代に手がけられた石造物と推定されています。その場所を特定するためには、出雲の古代聖地である八雲山と奈良の益田岩船、そして古代の霊峰石鎚山と金刀比羅宮厳魂神社が選別されたことがレイラインの検証からわかります。そして八雲山と益田岩船、石鎚山と金刀比羅宮を結ぶ線が交差する地点が重要視され、そこに「石の宝殿」が建造されたと推定することにより、これらの聖地がすべて古代では紐づけられて考えられていたのではないかと推測できるのです。八雲山はスサノオが活躍した国生みの時代まで、そして金毘羅宮は神話に登場する大物主命の時代まで歴史が遡ることから、霊峰石鎚山と共にレイラインの指標としては最も古いものにあたります。また、益田岩船の場所も、伊弉諾神宮と紀伊大島出雲を介して、古くから特定されたと考えられます。その益田岩船の場所を指標として用いて、「石の宝殿」が出雲の八雲山につながる線上に見出されたということは、これら指標のすべてが海に結び付いていることを示唆しているようです。出雲はスサノオが日本海から上陸した古代の聖地です。紀伊大島出雲も海に面した紀伊半島の最南端です。香川の金刀比羅宮は海上交通の神々を祀っています。そして伊弉諾神宮にて葬られた伊耶那岐神は、国生みにあたり、日本の島々を船で巡り渡っ城山頂上そばにある正方形のピット綺麗に削られて仕上げられた南側の面た人物です。よって、奈良の拠点となる益田岩船に海上交通のモチーフが絡んでいることに何ら不思議はなく、これらレイラインの指標を用いて見いだされた「石の宝殿」も例外ではありません。益田岩船のレイラインに関係するこれら指標の相互関係から察するに、「石の宝殿」が造られる以前、すなわち崇神天皇の時代よりも古い時代から益田岩船の場所は大切な拠点として認知されていたと考えられます。その場所に益田岩船の巨石が見出され、もしくは運ばれた後、時代を経て、その巨石に手が加えられ、益田岩船の形状になったと想定されます。「益田岩船」名称の由来古代の巨石がなぜ、益田岩船と呼ばれるようになったのかは定かではありません。一説では822年に完成した奈良の益田池との関わりが指摘され、古代からその地域が益田と呼ばれていたことに由来するのではないかといわれています。しかしながら、その場所が益田と呼ばれていたとしても、古代ではまだ、そこに池が造成されていたわけでもなく、「岩船」という名称をつけるにはいささか不可解です。「益田」という名称は、名前の響きが殆ど一緒であることから、イスラエルのマサダ要塞に由来し、「マサダ」の当て字として漢字で「益田」にしたとは考えられないでしょうか。名前の一致だけでなく、驚くことに岩の形まで同じに見えることに注目です。益田岩船は、見る角度によって様々な顔をもっています。中でも南側からの綺麗な表面の姿は美しいものです。マサダ要塞も東西双方から見る角度によって、様相、形が全く異なりますが、その東方から見る様相は益田岩船に似ていまイスラエルのマサダ要塞す。筆者がマサダを訪れた際には多くの画像をカメラで撮ることができました。それらの画像と比較しても類似点が多いことに気が付きます。双方の頂上がフラットなこと、右側の斜面は緩やかで、左側の斜面が急であること、そして裾野が大きく広がっているように見えることなどがキーポイントです。益田岩船とマサダ要塞が関連するという前提で考えると、西アジアから到来したい古代の海洋豪族によって益田岩船が造られた可能性も見えてきます。奈良盆地の中心となる場所に古代の識者らは巨石を見出し、その後、岩を削ってマサダ要塞の似姿に合わせて造り上げたと想定すれば、益田岩船がマサダ要塞の形に酷似していることも理解することができます。また、「岩船」としての海上交通に紐づけることができることにも注目です。益田岩船は出雲の八雲山と生石神社の「石の宝殿」とレイライン上で繋がっているだけでなく、海上交通の神々を祀る金刀比羅宮の奥宮とも紐づけられています。「石の宝殿」は元伊勢御巡幸が行われた崇神天皇の御代に造営されたと言われています。一世紀近く続いた元伊勢御巡幸では、その最終段において海洋豪族に守られながら、琵琶湖の東方、美濃国(岐阜)の伊久良河宮より船で川を下り、海岸沿いを航行しながら伊勢まで到達することができたのです。その後も船木一族を主体とする海洋豪族は紀伊水道に向けて渡航を続け、一族の拠点を各地に造成しただけでなく、各地で造船に必要な塗料の原料となる辰砂をも発掘しました。そして淡路島の舟木には多くの聖地を結ぶレイラインの交差点となる重要スポットを見出し、そこに巨石を置いたのです。その流れに沿って、船木一族の最終拠点となった播磨の近郊にある「石の宝殿」も手掛けられたのではないかと推測されます。古代の海洋豪族の様々な働きによって元伊勢御巡幸が完結し、伊勢神宮が建立されただけでなく、その延長線には海洋豪族の存在を世に知らしめる複数の巨石を用いた石造物が残されることになりました。それらの指標のひとつが、益田岩船の場所であった可能性があります。そして時代を経て、その巨石に白羽の矢があてられ、マサダ要塞を追憶するかのごとく「益田岩船」が綺麗に彫られて誕生したと推測すると、時代の流れが見えてきます。建造された目的は何か?益田岩船の巨石が削られて、現状の形をとった目的は何だったのでしょうか。なぜ、岩を綺麗に磨く必要があったのでしょうか。上部にある2つの正方形の穴は、何の目的をもって造られたのでしょうか。諸説はあるものの、いずれも理解しがたい部分があり、定説に至っていません。簡単にまとめると、以下の通りとなります。1.建造途中の横口式石槨説まず、未完成の一石二室の横口穴式の石槨(せっかく)として、遺体を収める石棺や副葬品を収納する古墳のような役目を果たしていたという説があります。通常の石槨は横向きに口が開いていますが、益田岩船の場合は横口が天井を向く形に回転したと考えます。益田岩船の近くに発見された牽牛子塚古墳の横口式石槨の開口部における形状と、益田岩船の2つの穴の形状が類似していることから、同等の目的をもって造られたのではないかと推測するのです2.石碑を載せるための台近隣に築造された灌漑用貯水池である益田池の建造を記念する石碑の台坐とする説もあります。空海が造成した讃岐国の満濃池の技術を取り入れたと伝えられている奈良の益田池は、822年に完成しました。その際、空海は「大和州益田池碑銘并序」を碑文として記し、益田池の完成を讃えています。その石碑を載せる台として益田岩船が加工されたというのです。益田池を称賛する碑を載せる台坐として「益田岩船」と命名されたと考えると、つじつまが合います。3.火葬墳墓説横口式石槨説に似ている考えとして、穴の中に火葬した遺骨を入れて石の蓋をするために穴が彫られたという説があります。4.星占いのための天文台説占星術を駆使した天体観測を行うために、益田岩船を台坐-2-