ブックタイトル日本シティジャーナル vol.201
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日本シティジャーナル vol.201
2019年(令和元年)9月28日発行第201刊毎月第3土曜日発行購読無料まず、聖書には神が山に降臨し、山に住まわれるということが、複数個所に記載されています。モーセはシナイ山にて天から降臨する神と出会っただけでなく、ダビデ王の時代では、王自身が神と山の関係が大切であることを詩篇に綴っています。ダビデ王は「主の山に登る」ことの大切さを説き、「あなたの聖なる山」(詩43)、「神が住まいにと望まれた山にとこしえに住まわれる」(詩6 8)と謳い、神は「高い山に登られた。主なる神がそこに住まわれるためである」(詩68)と祈りました。そして「聖なる山で拝みまつれ」(詩9 9)、「私は山にむかって目をあげる」と謳い続けたのです。後の時代では、日本に渡来したと想定されるイザヤも、その預言書にて「主の家の山」(2:2)、「主の手はこの山にとどまり」(25:10)、「高い山にのぼれ」(4 0:9)「わが聖なる山」(5 6:7)と書き綴っています。イスラエルの民にとって、高い山こそ、神が住まわれる場所と考えられていたことがわかります。イスラエルの民は神を愛するがゆえ、古代、海を渡って日本列島に渡来した当初、国生みの一環として列島をくまなくリサーチしたうえで、神が住まわれる聖なる山をまず、探し求めたのではないでしょうか。世界の島々の中で、日本の山岳信仰史が際立っている理由は、山に住まわれる神を信じたイスラエルの民の存在があったからに他なりません。その宗教文化と伝統を長年にわたり列島各地で継承してきたが故、今日でも大勢の日本人は山を愛し、山に建立された神社や祠、そして山頂にて神を祀ることに努めています。そしていつしか、ご来光を崇めるような風習がごく当たり前のこととして、庶民の間でも定着してきたのです。もうひとつ見逃せないポイントは、古代、イスラエルからの渡来者は、船に乗って日本列島に到来し、優れた海洋民族の側面を持っていたと推測されることです。イスラエルは国の西方が地中海に面しており、古代から船による行き来が盛んでした。よって先陣をきって東方へと向かった初代の渡来者は、船を用いて大陸の海岸沿いを東に向かって航飛騨山脈に聳え立つ富山県の最高峰「立山」海したに違いありません。その先頭集団の中には王族や神の預言者も存在したと考えられ、必然的に大切な神宝も船内に携えられてきたことでしょう。その第一陣は、タルシシ船のような大きな船でアジア大陸を陸沿いに進み、琉球から南西諸島を北上して淡路島を基点とする日本列島に到達したのです。それが国生みの原点と考えられます。古代の民は優れた航海技術を携えており、天体や地勢を観測しながら方角を見定めつつ、船旅の拠点を定めることができました。その航海の指標として重宝されたのが、船上から眺めることのできる海沿いの岬や半島であり、その背後に聳え立つ内陸の高山だったのです。神が住まわれる山は、ひときわ聳え立つ高山という教えを聖書から学んでいた民だけに、船から眺めることのできる高山は船旅の指標となったに違いありません。そして島ごとに海上から見届けることのできる最高峰を確認しては、上陸後、その頂上にてまず神を祀るための祭壇を築き、そこで神を崇め祀ったことでしょう。こうして海から眺めることのできる地域の最高峰は、霊峰となる可能性がある山として一線が引かれるようになり、山の麓だけでなく、その頂上にも祭壇や祠、または社が造られるようになったと考えられます。西アジアから到来した初代の船団は、航海の行き止まりとなる淡路島を長い船旅の終点とし、そこを日本列島の中心と見据えたようです。それが記紀に記されている国生みの始まりと言えます。そして淡路島を基点として、そこから船で島々を巡りまわり、列島の実態を把握し続けたのです。その結果、多くの島々が見いだされて名付けられ、国生みが完結したと考えられます。その過程にあって、本州の太平洋岸を航海した古代の民は、まず、高さと美しさを誇る富士山の雄姿に圧倒されたのではないでしょうか。まさに霊峰の筆頭として名高い所以です。これらの歴史的背景を前提とするならば、日本の霊峰が特定された経緯や理由が見えてくるようです。古代にまで遡る由緒ある歴史が存在し、山そのものが古くから信仰の対象となり、今日まで多くの人に崇められてきた山こそ、真の霊峰になりえます。また、これらの霊峰は、他の霊峰や聖地と、地の繋がりをもっていることにも注視する必要があります。それは複数の聖地や霊峰が一直線に並ぶことをも意味し、その仮想線は、レイラインとも呼ばれています。霊峰とは、必ず他の霊峰や聖地と結び付く場所に存在するものなのです。こうして島々の最高峰や高山が特定され、そこで神が祀られたのです。古代の霊峰として認知される条件が見えてきました。古代の霊峰に選定される条件古代の民は如何にして、日本列島に霊峰となるべき山を見出し、そこで神を祀る社を建てたのでしょうか。大陸より渡来してきた民は、高度な航海術と天文学を携えてきただけでなく、神は高い山に住まわれることを信条としていたと想定し、その視点に沿うように海の向こうに見える日本列島の島々を思い浮かべるならば、霊峰を見出すヒントが見えてくるようです。1.海上より山の頂上が見える山前述したとおり、海を越えて日本列島に渡来した古代の民は、必然的に船で日本列島周辺を行き来することになり、海上から陸の地勢を見届けることが重要な課題となりました。そして遠く離れた内陸に山の頂上が少しだけ見える位の標高を誇る高山が指標として求められたことでしょう。それは、山側から見るならば、その頂上から日本海や太平洋を一望できるほど、見通しが素晴らしいことを意味していたのです。新天地にて神を祀る場合、その場所が容易に特定できなければなりません。よって、海上から見届けることができる地域の最高峰であり、上陸した後も、その場所、方角、位置づけがわかりやすい場所にあることが大切でした。古代の指標となるべく、360度にわたり、周囲の光景を見渡しながら遠くまで地勢を確認できることが、古代霊峰の必須条件だったと考えられます。2.山頂と麓にて神が祀られている古代より神が崇められてきた霊峰であるならば、人々が長年にわたり神を参拝してきたという軌跡が、山の随所に残されていると考えられます。その最たるものが、山頂に建立された神社です。その山頂にある社を奥宮として、山の麓でも神社が建立され、いずれにおいても人々がいつ何時でも神を拝することができるように整備されていることが重要です。こうして霊峰の頂上まで登ることのできない人であって-2-古事記が証する大八島国の領域-イスラエルの拠点と同じ緯度に収まる大八島国-至ハラン(北緯37度12分)知訶島(五島列島)両児島(男女群島)那覇伊岐島沖縄諸島津島甑島屋久島4筑紫島大島(屋代島)女島(姫島)20312隠岐之三子島吉備児島大倭豊秋津島1713小豆島10 1218淡道之穂之狭別島19伊予之二名島至エルサレム(北緯31度47分)至ベエルシェバ(北緯31度12分)も、麓にて神を参拝することができるようになり、より大勢の人が山の神に歩みよることができるように配慮されていることも大事です。古代の霊峰では、山頂と麓、双方で神を祀ることが当たり前だったのです。3.レイラインにて他の聖地と結び付いている古代の霊峰は、日本列島の指標として大切な位置づけを占めていました。何故なら、それらの霊峰を拠点として、新たなる港や集落を列島内に造成する場所を特定し、神を祀る神社の場所も見出していくことができたからです。その主だった手法がレイラインの構築です。霊峰が座する地点を基準に、レイラインと呼ばれる仮想の直線を他の聖地と結んで引くことにより、その線上に、神社を建立するべき聖地や、港を建造する場所、さらには別の霊峰までも選定することができます。それ故、古代の霊峰であるならば、その場所を拠点としてつながる複数の神社や聖地、他の霊峰などがレイライン上に複数見つかるはずです。レイラインを構築する基点となっていることが、由緒ある歴史の証拠であり、それが霊峰であったことの印と言えるでしょう。4.記紀に名前が記されている山日本書紀や古事記には、神代から歴代の天皇紀に関する記述の中で、いくつかの山の名前が登場します。史書に山の名前が記されているということ自体、その山の重要性が公に証されていると共に大切な情報源となります。それらの山々において、神々とも呼ばれた日本人の先祖が古代、活躍されたのです。その背景には、宗教的な要素も多分に絡んでいたことでしょう。特筆す佐渡島9161511567148大八島国の領域古事記に見られる神代の地名1.出雲国2.伯伎国(島根)3.筑紫日向4.胸形(宗像)5.無邪志国(武蔵)6.上菟上国(上総)7.下菟上国(下総)8.伊自牟国(上総)9.遠江国(静岡県西部)10.凡川内国(河内、大阪南部)11.茨域国12.倭田中(大和)13.山代国(京都)14.馬来田国(上総)15.道尻岐閉国(陸奥)16.周芳国(諏訪)17.三枝部18.天香山19.紀国(紀伊)20.高千穂べきは四国の石鎚山と、琵琶湖そばの伊吹山です。どちらも聖なる霊峰として、今日まで多くの人々から愛されてきています。無論、すべての霊峰の名前が記紀に記されているわけではないことから、名前の記載は必須条件ではありません。しかしながら記紀に名前が記載されることにより、より霊峰としての信憑性が高まることに注目です。5.古代イスラエル人の行動範囲となる緯度内にある山イスラエルの祖国は地中海に面しており、その緯度は日本列島とほぼ同じです。イスラエルの民が歩んだ行動範囲の歴史を振り返ると、そのエルサレムと呼ばれた首都を中心に、南西方向にはアフリカ大陸のエジプト、カイロ周辺まで、そし北方はダマスカス、今日のシリアからハランに至るまで、歴史の流れの中で旅を繰り返しています。イスラエルの民は長い年月の間、地中海に沿うカナンと呼ばれる地を中心に生活圏を拡大してきたのです。その南北の上限と下限をみると、北は族長時代の父アブラハムの故郷があったハランの町、北緯37度12分、南は北緯31度14分のベエルシェバ、そしてエジプトのカイロがあります。それらを日本の地図と合わせると、まず、北のハランとほぼ同緯度にある日本列島の地域は能登半島や、福島県の会津若松界隈です。多少のオーバーシュートがあったとすれば、佐渡から山形の南方、仙台も含まれるかもしれません。そして南方を見ると、エルサレムと同緯度には日本の中甑島(鹿児島)にヒラバイ山があり、ベエルシェバと同緯度には鹿児島の最南端、枕崎や指宿市があります。また、エジプトのカイロ