ブックタイトル日本シティジャーナル vol.203
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日本シティジャーナル vol.203
2020年(令和2年)1月1日発行第203刊毎月第3土曜日発行購読無料?????日本シティジャーナルvol. 203Nihon City Journal発行:サウンドハウス〒286-0825千葉県成田市新泉14-3TEL 0476-89-2333 FAX 0476-89-2334[平日]10:00~18:00[土曜]12:00~17:00http://www.nihoncity.com成田市、佐倉市、印西市、富里市、香取市、山武市、八街市、匝瑳市、四街道市、東金市、銚子市、旭市、栄町、東庄町、神崎町、酒々井町、多古町、横芝光町、芝山町、九十九里町、稲敷市、龍ケ崎市、河内町発行部数:300,000部奇跡の再会が2度!?ありえないことが起きる不思議な人生に乾杯!日本シティージャーナル11月号(2019年)にて、成田POPランの10km走にて優勝した体柳寿司は本当に美味しく、毎度、四国剣山に纏わる神宝の伝承を再検証!験談を記載しました。そもそも走るのが嫌いで、長年、ランニングなどしなかった自分が走るようになったきっかけは、遠いん。そこで思い切って声をかけ、NCJ109日本とユダヤの聞いてみることにしました。「おハーモニーから続く話し中、すいません、どこかで東昔のアジア知人と、信じられない史を塗時り、替ると、いつもどおりえたイスラエル元気いっぱ民族なくなり、ついに大移動の均衡潮を破流って信じられない場所で再会するという、奇跡的な出会いがあったからに他なりません。寿司屋のカウンターに座っている隣人は誰?平成10年の初夏、筆者は成田市の下総松崎駅近くにある古屋の天然温泉施設を取り壊し、新築の日帰り温泉施設を建築する工事に携わっていました。本職の仕事は別にあったものの、ふとしたきっかけで成田老人クラブの依頼を受けて、新しく天然温泉を建築することになったのです。東京生まれ、東京育ちの自分にとって、元々成田には縁もゆかりもなく、ましてや栄町の存在さえ、その数年前までは知りませんでした。そんな、よそ者の自分が結婚を機に成田に移住し、引っ越し当初は下総松崎に住んでいたことから、その近くにある天然温泉施設の再建に携わることになり、話はあっという間に進んだのです。温泉のグランド・オープンまであと3か月少々となった頃、日夜、突貫工事の打ち合わせに追われる毎日を過ごしていました。週7日、休みなく続く激務、そんな初夏のある日、その工事現場から栄町方面に向かう県道沿いにある柳寿司に、当時幼稚園に通っていた2人の子供を連れて、仕事帰りにお寿司を食べに行くことになりました。工事現場のすぐそばで、時折口にすることのできる寿司は、当時の成田温泉から再生した現在の大和の湯自分にとって、最高の贅沢でした。しかも栄町でも定評のある行くことが楽しみだったのです。その頃の柳寿司は、街道沿いの小さなお寿司屋さんでした。ガラガラ!と扉を開けて中に入いのマスターがおられ、8席ほどあったカウンターには2人だけお客様が座っていました。おそらく夫婦なのでしょうか、一緒に寿司をつまんで楽しそうに話をしていました。既に夜の8時半を過ぎていたこともあり、カウンター手前にあった2畳ほどの小上りに子供たちを座らせて食べさせようと思ったのですが、2人ともバタンキュー、といっきに畳の上で眠りこけてしまったのです。ちょっと時間が遅すぎたな、「ごめんなさい!」と心に思いつつも、眠ってしまった子供達を起こす訳にもいかず、一人カウンターに座って、寿司を食べることにしました。子供達の寝顔を見ながら、美味しいお寿司を頂いていると、日々の疲れがちょっとだけ癒されるような気がします。仕事のことを考えながら一人、静かに寿司を食べるのも、これまたおつなものです。隣に座っている夫婦はとにかく仲がよさそうであり、うらやましくも思えてきます。そろそろお腹がいっぱいになりかけてきた時、ふと、カウンターに座っている男性の横顔をちらっと見ると、「どこかで見たことあるような?」と不思議な感覚にかられたのを、今でもはっきりと覚えています。その時から自問自答が始まりました。「どこかで会ったことがある?」「誰だ、この人は!」ぐたぐたと考えても埒が明きませお会いしたことありませんか?」見知らぬ人(?)に対し、何という唐突な質問でしょうか!それでも、いてもたってもいられ聞いてしまったのです。ところが思いのほか、反応は期待したほどではありませんでした。「え?そうですか?」程度の返事だけです。しかし、一言、二言、会話を交わしただけで、ますます「絶対に会ったことがある!」という思いが強くなってきました。そこでちょっと申し訳なかったですが、立て続けに、「確かに会ったことあるような気がするのですが。。。」と語り続けるも、相手からは「そうですか。。。?」という返事だけです。そこで思い切って自らの人生の旅路を振り返り、片っ端から出会いの接点となる可能性がある場所について話をしてみることにしました。「僕は東京の渋谷に住んでいたのですが、東京で最終編お会いしてませんか?」「音楽関係の仕事しているのですが、音楽関係のお仕事では?」そして「アメリカのカリフォルニアにしばらく住んでいたのですが。。。」とまで切り出したのですが、いまいちピンとくる様子もなく、ほどほどに関心をもって聞いてもらっている程度にしか見えませんでした。それでも諦めることなく、自分がアメリカに行った理由にまで踏み込み、「僕はテニスをしに、アメリカに行ったのですが。。。。」と語った瞬間、突如、青天の霹靂のごとく真相があらわになったのです。「テニス?!」「僕は今、テニスクラブを経営しているのだけど。。。」と、男性が話始めたのです。それで分かったことは、何と、隣に座っていた方は、26年前、筆者がアメリカにテニス留学する前の中学3年生の時、ウィンブルドンで勝ち進んだ著名なテニスプレーヤー、故石黒修氏の弟子として、自分をトレーニングしてくださった元全日本の樺沢プロだったのです。中学生時代に東京で一緒にテニスの練習をしてくださった当時20代の樺沢選手が、それから四半世Part.II紀経った後、アメリカ帰りの自分が向かった縁もゆかりもない印旛沼そばの小さなお寿司屋さんのカウンターに偶然、座っていたのです!しかも自分の真横であり、他にお客様はいません!こんな劇的な再会、出会いはあるでしょうか?26年という時を経て樺沢プロの頭は白髪になり、自分も子持ちの仕事人に化け、それぞれ心身ともに様変わりしたことから、お互いがすぐには気付くことができなかったのです!当時、樺沢プロは成田市の公津の杜、駅前に京成電鉄より土地を借り、そこでテニスクラブを経営していました。そして日夜、テニスクラブでレッスンを受けに来る多くのテニスプレーヤーを教えながら、日々、テニスライフに明け暮れていたようです。その先輩プレーヤーと、東京から遥か離れた印旛沼沿いの小さな寿司屋で26年ぶりに再会した訳ですから、再びラケットを手にしないわけにはいきません。かれこれ20年近くテニスからは遠ざかっていましたが、この奇跡的な再会を機に、仕事の合間を見つけては、テニスの練習をすることになりました。その結果、高校時代にテニスをやめてからは走ることをやめたはずが、再びランニングを開始したのです。そして足を鍛えながら、樺沢プロが運営するテニスクラブで上手なプレーヤー達と一緒に練習しても、恥をかくことがないように、自らを鍛え直すことにしたのです。この再会がなければ、嫌いなランニングをする、ということは、考えられません!人生は出会いにより、大きく変わります!若返り策に感化された旧友との出会いそれから数年間、テニスをしながらとりあえず、体を鍛えつつ、仕事に没頭するという生活が続いていたある日、会社のスタッフから唐突に、「ホノルルマラソンを一緒に走りませんか?」と誘われたのです。その当時、マラソンはメディアの話題に取り上げられることが多く、モデルの長谷川理恵さんが、フルマレースのゴールは苦しみのあまり絶叫!ラソンを3時間15分で走っているというニュースが耳に入りました。それを聞いたら、もういてもたってもいられません。女性のモデルが3時間15分で走れるのに、高校時代、といってももはや20年以上も前の話ですが、あれほどテニスで鍛えて走っていたのだから、自分がその記録を超えられない訳はない、と安易に思ったのです。そして長谷川理恵には絶対に負けられない、と勇み立ち、テニスの練習は中断して毎日走り始め、4か月後の2003年12月に開催されたホノルルマラソンへの参加に備えたのです。結果は惨憺たるものであり、フルマラソン、4 2 .19 5kmを走る難しさを痛く味わうこととなりました。実際、走っている途中に脱水症状になり、吐き気を催し、意識も朦朧。それでも「走れ、走れ、」と我慢して自分に言い聞かせながら足を止めずに動かし続けたのです。、最後の10kmでは正直、もう「いつ死んでもいい!」「苦しすぎる。。。!」と悶え苦しみ続け、かろうじて生きながらえてゴールするも、心身ともにぼろぼろでした。結果は3時間59分00秒。4時間は切ったものの、もう走ることはなかろう、と自らに言い聞かせたことを、いまでもはっきりと覚えています。そんな否定的な思いは、どこにいってしまったのか、それから1か月後、再び自分の心の中にホノルル初マラソンで地獄の苦しみを体験-1-