日本シティジャーナルロゴ

ホノルルマラソン激走談話 PART 1
成田を含む北総地域をマラソン大国にするために

精神力と日頃の地道な鍛錬がものをいうマラソンは正に日本人にうってつけのスポーツであり、今や日本の国技と言っても過言ではありません。しかし大半の人にとってマラソンはテレビで見るものであり、まさか自分が走るものとは思わないでしょう。私もマラソンとは全く縁の無い生活を送っていました。学生時代はテニスの選手として結構走りこんでいたのですが、社会人になってからは運動量がめっきり減り、週に1~2回ジムに通ってもウェイト・トレーニングばかりしていました。40代も半ばに差し掛かった2年前に転機が訪れました。この成田シティージャーナルにも寄稿頂いている米井医学博士の紹介により、アンチエイジングを学ぶチャンスにめぐり合い、老化を阻止して30代の若さを取り戻す為に飲食物やサプレメントの摂取、日々の運動及び睡眠等、自分の生活習慣の改革を始めたのです。すると不思議なことに1ヶ月程で今までになく元気が湧いてきました。そして体を動かすことが以前よりも楽しくなり、走りたいと自然に思うようになったのです。

まずイオンのジムでトレッドミルというランニング・マシンを使い、10分間黙々と走ることに挑戦しました。最初は時速12kmを超えると10分でも息切れがしてつらく感じましたが、それも1~2週間すると全く苦にならなくなり、半年もすると時速16kmでも走れるようになっていました。ちょうどその頃、高橋尚子が世界記録を樹立したベルリンマラソンでのレース展開をテレビで見ながら「ワクワク、どきどき」のドラマに溢れるマラソンに興味が沸いてきました。そして昨年8月末、会社でマラソン好きなスタッフからホノルルマラソンが年末にあることを聞いたとたん、迷わずエントリーを入れている自分に気がついたのです。

トレーニング期間はわずか3ヶ月余り、またどうやってマラソンの訓練をするかも全く知らなかった私は、とりあえずトレッドミルで徐々に長い距離を走っていこう、と計画しました。9月半ばには生まれて初めてトレッドミル上で20kmという長距離を走ることができたので、そのまま距離をのばしていけば、と安易に考えていたのです。ところが10月になり段々と日中の気温が下がってくるにつれて軽い腰痛が始まり、週末のテニスでそれを悪化させてしまい、1ヶ月以上もの間走れなくなってしまったのです。最後は鍼と灸の集中治療で12月初旬にやっと走れるようになったのですが、マラソン直前の調整時でも1時間走ると腰や大腿筋が大変痛くなり、初マラソンの完走は実に困難に思えてきました。

大会前日、ロスアンジェルスでの仕事を終えてから夜の7時過ぎに飛行機でホノルルに到着しホテルにチェックインしました。そして、ジムで軽く汗を流してから寝たのですが、時差ぼけも重なり熟睡ができず、殆ど眠れないまま、早朝3時、出発の時刻を向かえました。ホノルルマラソンのスタートは朝の5時、徐々に緊張感が高まってきます。私には絶対に3時間台で走りたいという願望と共にもう一つ、大きな目標がありました。それはマラソン完走直後、11時25分発の成田行きJAL便に乗ることでした。その為にはマラソンを9時までには完走し、それからホテルをチェックアウトして飛行機に乗るという前代未聞の強攻策をこなさなければならなかったのです。42.195kmを4時間未満で走るということは時速10kmでも間に合いません。練習でも時速10kmで2時間までしか走ったことがなく、腰痛が治ったばかりの病み上がりの自分にとって、正に未知への挑戦が始まろうとしていました。

ドカーンと数十発打ちあげられた大型花火を合図に、2003年ホノルルマラソンが幕を挙げ、何時の間にか2万5千人がスタートを切って走り始めました。ハワイの暖かい気候にも助けられたせいか腰痛も全く感じることなく、スタート直後の走りはとても快調で、「今日はこれならイケル!」と嬉しくなった私は前半を飛ばし、後半は運を天にまかせて根性で走り抜けようと決意したのです。最初の艱難は強風でした。ダイアモンドヘッドの方角に向けて走っていた時、突如として強い向かい風に見舞われ、思いのほか体力を消耗していることに気が付きました。屋内のマシンでしかトレーニングをしてない自分にとってこの強風は予想外であり、どうしてよいか分からず頭をかがめて空気抵抗を押えるようにして走りました。そして住宅街に入って暫くするとかなりきつい上り坂になっているではありませんか!これが第2の艱難です。無論ダイアモンドヘッドを一周して走ることは知っていたので多少の登り坂はあって当然ですが、あれほど勾配のきつい坂があるとは思いもよりませんでした。登り坂を走るトレーニングをしてない私はどうやってペースを保ったらよいかわからず、スピードの調整が全くできずに焦りを感じ始めました。

やっとの思いでハーフポイントを走り抜けた時、電光掲示板には1時間50分と表示されていました。「悪くはないぞ。倍で3時間40分、3時間台で走れる!」そんな甘い考えが脳裏をかすめました。その後コースがハイウェイに変わり、幅広い道路をひたすら走ったのですが、そこで3つ目の艱難ともいえる胸の痛みと軽い吐き気が始まりました。「何故、こんな時に」と自分に問いかけながらも、確かに思い当たるふしがあったのです。つい先日、雨天の時に道路で滑って転び、したたかに打った胸部がズキンズキンと痛み始めたのです。吐き気はおそらく睡眠不足と脱水が原因だったのでしょう。このダブルパンチで一気に戦意喪失し、否定的な思いが頭の中を埋め尽くし始めました。「何でこんなつらいことをガマンしているのだ?」「これ以上走って倒れたらどうする?」そうこう考えているうちにみるみる失速し、足が鉛のように重たくなっていくのを感じました。その時ふと高橋尚子選手のことを思い出し、「彼女もこうして失速をしたんだ・・・」と自分を慰めながらも、体が徐々に崩壊していくような苦しみは想像を絶するものとなっていきました。その内、頭も疲労で上げられなくなり、うつむきながら、ただ夢遊病者のように前のめりに走ることしかできなくなり、「つらい!」「苦しい!」「これは生き地獄だ!」と頭の中は正に錯乱状態です。そして体が全く言うことを聞かなくなったその時、「やめてしまえ!」という叫びに相反して「もう後10km、ここでやめたら一生後悔するぞ!」という声が心の中にこだましてくるのです。失速した直後から高齢者や肥満気味のランナーにまですいすい抜かれていくという屈辱を味わっていただけに「ここで辞めたら男がすたる・・・!」と自分に檄を飛ばしながら「地面を這ってでも絶対にゴールするぞ」と絶叫する、もう一人の自分がそこにいました。そして、4時間を切ることは無理などころか、飛行機にも乗り遅れてしまうことも承知の上で、エネルギーが尽きたにも関わらず、ひたすら根性で足を動かし続けたのです。

そして遂に40km地点がやってきました。既に地獄のどん底を走り続けてきたような思いに浸っていたため朦朧としながら、後2kmでゴールか、と考えるのがやっとでした。ところがふと電光掲示板を見上げたとたん、一瞬自分の目を疑ってしまいました。とっくに4時間30分は過ぎていると思っていたはずが、そこに「3時間50分」と表示されているではありませんか!「何!まだ4時間たってない!」「2kmなんか10分で走れるじゃないか!」「ここからラストスパートかけたらサブフォーが実現できるぞ!」そう考えがよぎった瞬間、不思議なことに手足が動き始めたのです。失速したおかげで体力が備蓄されていたのでしょうか、「ウォー!」と心の中で叫びつつ、奇跡の3時間台のフィニッシュを目指してがむしゃらに走り始めました。そして前を走っているランナーを何十人もごぼう抜きして下り坂を走り抜けると、最後の一直線の遥か向こうにゴールが見えてきたのです。そして倒れこむようにゴールを走り抜け、初マラソンを完走するに至りました。

しかし無情にもその時、目に映った電光掲示板には4時間1分37秒という文字が光っていました。何と、あれ程まで切りたかった4時間を1分の差で切ることができなかったのです。よくやった、と自分に言い聞かせながらも、なぜもう少し頑張れなかったのか、という悔しい思いの方が強くなり、足の痛みでまともに歩くこともできず、足を引きずりながらホテルに帰る途中でぽろぽろと涙が出てくる自分がいました。すぐにチェックアウトを終えてホノルル空港へと向かうと、空港ではマラソンのFINISHER(完走者)しかもらえないTシャツを着ていたため、最初に空港に到着したランナーだ、ということで地元の空港職員からたいそうな祝福を受けたのが唯一の慰めでした。

ところが帰国後、嬉しいニュースが訪れました。成田に到着した後、すぐにホノルルマラソンのサイトで自分のオフィシャルタイムをチェックして初めて気がついたのですが、何と自分のフィニッシュ・タイムは3時間59分00秒だったのです。2万5千人ものランナーが参加している為、スタートラインをクロスするまでに時間がかかり、その分スタート時間の調整が行われていたのです。その結果、念願の初マラソンでサブフォー、3時間台で完走するという当初の目標を、失速と地獄の苦しみの中で達成できたのです。劇的なマラソンドラマは誰もが体験できるわけではないですが、正に山あり、谷ありの人生劇を象徴するような初マラソン体験でした。

成田市のそばには佐倉アスリート倶楽部もあり、小出監督に率いられる多くのランナーが日々、トレーニングを積んでいます。しかし成田界隈では走る人の姿をみることは極めて少なく、せっかくこれだけの自然に恵まれた環境が在るにも関わらず、自動車ばかりが優先されて、人間が走る環境があまり整っていません。この際、成田をマラソンの先進国にしてみてはどうでしょうか?

<次号に続く>

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部