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-私のラクダ- 1

ソマリアのラクダ

今月から、この連載コラムを担当することになりました。筆者は日本生まれの日本育ちですが、大学卒業後20年間ほどを海外で過ごし、そのほとんどの期間、国連職員として世界各地を転々としながら勤務してきました。4年前に帰国して以来、千葉県に在住し、現在はアジア太平洋地域の国際機関であるアジア生産性機構という国際機関に勤め、月に一度の割合で外国に出ています。そんな私の世界各地での経験や体験をこのコラムを通してお伝えしたいと考えています。

私は動物が好きで、これまでの人生でいろいろなペットを飼ってきましたが、今でも一番心に残っているペットはラクダです。日本人でラクダをペットとして飼った経験のある人はあまりいないと思いますから、これから数回にわたって私のラクダ、ダアリについて書きます。

時は1994年、私は内戦真っ只中のソマリアに赴任しました。「ブラックホークダウン」という映画をご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、首都のモガデシュでは、あの映画のとおり米軍とソマリア人軍閥の大親分の一人だったアイディード将軍が壮絶な戦闘を繰り広げていました。私が着任したのは、米軍の攻撃用ヘリコプターであるブラックホーク(黒い鷹)が撃墜され、米兵18名が虐殺され、彼らの死体が市中を引き回されるという事件がおきてからわずか3ヵ月後のことです。当時のソマリアはまったくの無政府状態で、各地に軍閥の親分が群雄割拠し、まさに日本の戦国時代のようでした(今でも同じ状況ですが)。国連の現地本部がおかれていたモガデシュでは毎日のように市街戦が繰り広げられており、われわれ職員は、元アメリカ大使館だった広大な敷地の中に立てられたプレハブのオフィスのまわりに土嚢を積み、防弾チョッキを着用し、ヘルメットをかぶって、コンピュータのキーボードをたたいていました。それでも敷地内に飛び込んでくる流れ弾に当たって負傷する職員が続出しました。流れ弾どころか流れロケット弾まで飛んでくるような職場でした。

そんなソマリアで、私はベイ・バクール地方という広大な地域における国連諸機関と国際NGOの人道支援活動を調整するという任務を命ぜられ、モガデシュからヘリコプターで1時間ほど内陸に飛んだところにあるバイドアという町に赴任しました。モガデシュ、キスマヨ、バイドアという3つの町を結んだ地域は当時、死の三角地帯と呼ばれ、1992年から93年にかけての大干ばつの際には一日に数千人が餓死するという悲惨な状況でした。当時バイドアで活動していたNGOの職員から聞いた話ですが、そのときの彼らの仕事は、毎朝トラックで行き倒れとなった人々の死体を集めて回ることから始まり、ひどい日には400人以上の死体を回収したとのことでした。私が着任したころは、これほどひどい時期は過ぎていたのですが、それでも村々には飢饉が広がり、町の周りには村から逃げてきた避難民の群れがスラムを作ってあふれていました。ここでの生活や仕事の内容はまた別の機会にでも書きますが、とにかく厳しい状況が続き、気の滅入ることばかり起こる毎日でした。

そんなある日、ヘリコプターから地上を眺めるとラクダの大群が下界の半砂漠地帯を悠々と歩いていました。そのときです。ああ、あんなラクダを飼って自分のラクダに乗ってみたいなあ、と感じました。ここまで書いたら、予定の紙幅が尽きてしまいました。続きは次回に書きます。

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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