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-国連職員の仕事- 3
道を作りながら走る

写真 /市役所になったショッピングセンター

写真 /市役所になったショッピングセンター

前回、私がコソボのスケンデライ・セルビッツア市の市長に任命されたところまで書きました。「さあ、今日からあなたはここの市長だ、戦争ですべてを失った6万5千人の住民がいるからしっかり面倒を見るように」とだけ言われて、トヨタのランドクルーザーを一台あてがわれ、たった一人で送り込まれました。もちろん、言葉も文化も習慣もわからないし、知り合いだって一人もいません。とりあえずは地図を片手に、とにかく町まで行って見ました。町といっても中心に道が一本と、その道とバイバス路をつなぐ道がもう一本あるだけで、その道沿いに雑貨を売っている店が数店と一膳飯屋が2軒ほど営業をしていました。

町をぶらぶらしていると若い男が近寄ってきて英語で話しかけてきました。なんでも戦争前は地元の中学校で英語の教師をしていたのだが、今は失業中なので国連で雇ってくれないかとのことでした。話を聞いてみると、戦前・戦中のアルバニア系住民の置かれていた状況がよくわかりました。町外れに家族で住んでいるというので訪ねてみると、屋根が焼け落ち、砲弾によると見られる大きな穴が壁にあいている家に、奥さんと子供それに兄弟の家族など10人近くの人々が生活をしていました。話をしていると地元のことはよく知っているし、性格もよさそうな男だったので、「正式の国連職員として雇うには時間がかかるが、他にすることもないのならとりあえず通訳として私の仕事を手伝ってくれないか」と話しました。これが、私の一人目の現地採用スタッフであるネジャットとの出会いです。

市の行政を立て直すためには、市の職員と市役所が必要です。ところがこれまで職員をしていたセルビア系の住民は、皆、町から追い出されてしまい一人として残っていませんでしたし、元々の市役所はフランス軍に占拠されていて使えませんでした。しかし、市長である私には、すべての職員を任命・罷免する権限と、個人の所有物でない限り、いかなる建物や設備でも利用できるという絶大な権限が与えられていました。そこで、とりあえずはコソボ解放軍によって任命されたアルバニア系住民の指導者をカウンターパートにして人集めを始めました。また、町を見て回ると中心地にショッピングセンターの残骸が残っていたので、その所有者が個人ではないことを確認したうえで、これを市役所として使うことに決めました。日本の常識から考えると無茶苦茶なようですが、平和構築の現場の仕事とはこういうものです。あれこれ議論ばかりしていては物事が先に進みまません。大切なことは結果を出すことです。もちろん、基本的人権の擁護や職務規定の遵守といった、最低限守らなければならないことはありますが、結果を出すためにどのような手段をとるかは、現場の責任者の独創性にかかっています。国連の仕事でも、開発協力などの場合には何年も前から計画を立て、計画書に沿って一つ一つ着実に事業を実施していきます。ところが人道支援や平和構築の現場では、そんな悠長なことは言っていられません。事態は刻々と変化するし、何もしないということが人命や政治的解決の機会を失うことにつながるからです。とにかく日々直面する問題を解決しながら目標に向けて前進し続けるのです。目的地はかなたに見えています。しかし眼前には道なき荒野が広がっているだけです。道がなければ進めません。だから、われわれは道を作りながら走るのです。

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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