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-国連職員の仕事- 6
コソボの生活

写真 /冬のスケンデライ・セルビッツア市

写真 /冬のスケンデライ・セルビッツア市

今回は、大変厳しかった当時のコソボの生活環境を紹介します。私が戦後初めての外国人としてスケンデライ・セルビッツア市に住み始めたとき、水道は完全に断水していました。そのため、庭に井戸のある家は井戸水をくみ上げ、なければNGOが週に2度ほど給水車で運んでくる水をもらいに行きます。幼稚園児くらいの子供までがペットボトルに水を入れて運んでいました。電気はよい日で一日数時間だけ。電話もなし。もちろんインターネットもなしです。

電気は本当に気まぐれな時間にしか来ません。だから当時の我々は、天気予報ならぬ電気予報をしていました。「明日の電気は、午前中は来ますが、午後は時々停電、夕方から完全に停電でしょう。ですから夕食は早めに作っておきましょう」という具合です。実際ほぼ毎夕、電気が必要なときになると停電していました。私のオフィスも2年目には発電機が設置されましたが、初めの年はほとんど電気なしでした。

午後4時を過ぎるともう暗くなるので、私たちはオイルランプとろうそくの灯りで一日のまとめと翌日の打ち合わせをしていました。今の日本ならばランプやろうそくはロマンティックな小道具ですが、当時の私たちにとっては仕事と生活の必需品でした。それでも停電のときは6時ぐらいには真っ暗な道を歩いて帰宅します。

それから、コソボの人々は薪を燃やすストーブで夕食を作るのですが、私は面倒なので日本にもある小型のガスコンロを使ってお湯を沸かし、よく一人でスパゲティをゆでて食べていました。まるでキャンプ生活です。8時を過ぎると真っ暗な家の中で何もすることがなくなり、寝るしかありません。冬のコソボは夜になると外気は氷点下15度から20度くらいにまで下がります。暖房のない家の中も相当な寒さです。私は寝袋に入り、その上から毛布を何枚もかけて寝ていました。

夜8時に寝ると夜明け前の4時頃には目が覚めるのですが、電気がなければ起きても何もすることがありません。真っ暗な家の中で一人寝袋の中で目を覚まし、厳寒の中でじっと夜明けを待っているのは実につらいものでした。近所に皆で家を借りて住んでいた日本人ボランティアの生活も似たようなもので、朝起きたら部屋に干していた洗濯物がバリバリに凍っていたとか、庭の井戸水で頭を洗ったら髪の毛が瞬く間に凍りついたとかいう話ばかりしていました。

特に困ったのは風呂です。湯船どころかお湯の出るシャワーすらないのです。仕方がないので鍋いっぱいのお湯を沸かし、それを冷水と混ぜてバケツにいっぱいの湯を用意します。そして素っ裸になって空っぽのバスタブの中で、バケツいっぱいのお湯だけで全身を洗うのです。どんなにすばやく済ませても、バスタブから出たときには体中が冷え切っていたものです。

ニューヨークの本部で働いている国連職員の生活は、東京の生活と変わらない快適なものですが、人道支援や平和構築の最前線で働いている現場の国連職員の生活は、世界中どこでもこのようなものです。ですから、こういった生活が我慢できるというだけでなく、むしろ不便な生活をそれなりに楽しむくらいの余裕がないと現場の仕事はできません。それでも当時のコソボは治安がそれほど悪くなく、身の安全にそれほど気を使わなくてもよかっただけ、ましな方だったと言えるかもしれません。

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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