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-国連職員の仕事- 7
市行政の再建に着手する

右側から筆者、市長のラマダン氏、副市長のファディール氏

右側から筆者、市長のラマダン氏、副市長のファディール氏

今回からは、私がどうやって市の行政機構を再建したかを具体的に書いていきます。コソボは住民の9割がアルバニア系住民であるにもかかわらず、セルビア系住民が市の行政を独占していました。かつてコソボはセルビア共和国の自治州として、アルバニア系住民によるそれなりの自治が認められていたのですが、ミロシェビッチが大統領になるとアルバニア人の自治権はほとんど剥奪され、市役所からもすべてのアルバニア系職員が追放されたのです。

ところが1999年3月24日から6月9日までの77日間続いたNATO軍の空爆によって、今度は逆に、ほとんどのセルビア系住民がコソボから出て行くことになりました。NATOとセルビア政府との取り決めによって、町ごとにセルビア軍が撤収し、NATO軍が入る日が定められました。セルビッツア市の場合は6月18日が両軍の交代の日でした。ですからこの日は、今でもアルバニア系住民によって市の解放記念日として祝われています。この日を境に、セルビア人のセルビッツア市は、アルバニア人のスケンデライ市(スケンデライという名前は、スケンデラベックというアルバニア人の歴史的な英雄にちなむとも言われています)になったのです。もっとも国連では、いまでも市の名前をスケンデライ・セルビッツアと併記するようにしています。

さて、セルビア軍の撤収と同時に、アルバニア系住民からの報復を恐れたすべてのセルビア系住民も町を去りました。このため、それまでの市役所からすべての職員がいなくなってしまいました。NATO軍の任務は、セルビア軍の撤退の確認と治安の維持であり、市の行政の再建は国連に任されました。そして私が、国連によって市の暫定行政長官(いわゆる市長)に任命されたのが8月31日でした。ところが6月18日から8月31日までの2ヵ月半の間に、まさに権力の空隙を埋めるように、コソボ解放軍は自分たちの手で「アルバニア人政権」を作ってしまったのです。彼らは、独自の「市長」と幹部を任命して「警察」組織まで作って町の自治を行っていました。こうした事情を何も知らずに、右も左もわからない状況で、私はコソボ解放軍の本拠地にたった一人で乗り込んできてしまったのです。私の当面の任務は、コソボ解放軍でもコソボ自民党でもない、国連による市の行政機構を作りあげることでした。

幸い、アルバニア系住民は、NATOと国連が彼らをセルビア人支配から解放したとわかっているため、国連職員に対して敵愾心は持っていません。しかし、これからは自分たちでコソボの国づくりをしてゆくのだから国連の命令を受けるつもりもない、というのが彼らの考え方でした。私が最初に出会った町の代表はラマダン・ドブラという男でした。彼は、学生時代からコソボの解放運動にかかわり、その結果、長年獄中につながれていたため、戦闘員としてはコソボ解放軍に加わっていませんでしたが、解放軍の政治的指導者でした。そこで戦後、コソボ解放軍は、彼を解放軍の本拠地であるスケンデライ市の「市長」に任命したのです。ラマダンは、物静かで穏健ですが芯の強い指導者でした。

私と彼とはその後2年間、市の運営をめぐって渡り合うことになるのですが、奇しくも、私と彼は同年齢で、当時42歳でした。最後は、親しい友人となった私と彼とのあいだのさまざまな駆け引きを次回から紹介します。

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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