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-国連職員の仕事- 12
民族和解 vol.2

写真 /アルバニア系コソボ人の子供たち

写真 /アルバニア系コソボ人の子供たち

アルバニア系コソボ人とセルビア系コソボ人の対立は、本当に根深いものです。日本人は、「恨みには恨みをもってむくいず」とか「昔のことは水に流そう」とかいって、良し悪しは別としても、昔の対立をすぐに忘れようとします。でも、バルカンの人々は決して昔の遺恨を忘れません。世代を超えて先祖の恨みを語り継ぎ、いつの日かその恨みを晴らそうとしているのです。だからこそ、ミロソビッチ大統領は、600年前のコソボ平原におけるセルビア民族の敗北を持ち出してセルビア民族主義に火をつけることができたのです。わずか60年前に大敗北を喫した相手とこれほど堅固な同盟関係を築ける日本民族とは、やはり基本的な価値観がどこか違うような気がします。

以前にも書きましたが、私のアシスタントの一人にアルバニア系コソボ人のネジャットという中学の英語の先生をしていた男性がいました。私が始めて彼の家に案内されたとき、彼の家の壁にはセルビア兵の砲弾によってあいた大きな穴がのこっていました。その穴を見ながら彼はこんな話をしてくれました。彼がまだ子供のころ、おじいちゃんが口癖のように何度も、絶対にセルビア人のことを信用してはいけないぞと言っていたというのです。その当時は、近所にも大勢セルビア人が住んでいて、セルビア人の子供ともよく遊んでいたので、ネジャットにはおじいさんの言う意味がよくわかりませんでした。

ところが、今回の戦争でセルビア人によって自分の家が焼かれ、親戚や友人が殺され、やはり亡くなったおじいさんの言っていたことは正しかったと今になってわかったというのです。話を聞き終わった私が、「ネジャット、君は同じ話を君の子供や孫にもするつもりかい」とたずねました。彼は、しばらく沈黙して考えていましたが、やがて口を開き答えました、「そうすると思う、それが私がこの戦争で学んだことだ」と。私はため息をつくことしかできませんでした。

「バルカン半島は世界の火薬庫」といわれたのは、100年も前のことですが、ネジャットのおじいさんは、子供のころにバルカン戦争や第一次世界大戦を経験し、その体験に基づいて孫に話をしたのでしょう。同じように、ネジャットは自らが経験したコソボ戦争の話を孫に語り継ぐのでしょう。こうして、民族の怨念が世代を超えて受け継がれていくのです。これだけの歴史の積み重ねの結果としてあるアルバニア系コソボ人とセルビア系コソボ人の対立を前にして、私は呆然と立ちすくむ思いでした。

面白いことに国連コソボ暫定統治機構(UNMIK)の設置をきめた国連安保理決議1244には、「民族和解」という言葉は入っていないのです。不可能な任務を課しても仕方がないと考えたのかどうかはわかりません。しかし、「治安を維持する」、「民主的な自治政府を設立する」、「すべての避難民の帰還を達成する」といった主な任務を遂行するためには、民族和解を促すしかないことは、明確でした。コソボについて数ヶ月間は、家を焼かれたアルバニア系コソボ人の支援に追われていましたが、いよいよセルビア系コソボ人の問題にも取り組む必要が出てきました。しかし私が住んでいたスケンデライ・セルビッツアの町には、もはや一人のセルビア系住民も残っていませんでした。私の仕事は、町を追われた元住民たちを探すことから始まりました。

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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