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-国連職員の仕事- 14
民族和解 vol.4

写真 /セルビア王国がオスマントルコに敗れた1389年のコソボ平原戦争記念碑

写真 /セルビア王国がオスマントルコに敗れた1389年のコソボ平原戦争記念碑

我々の目的は、アルバニア人とセルビア人が平和に共存できるコソボを作ることでした。日本でも、近所に住む隣人で考え方や生活習慣がぜんぜん違うので友人にはなれないが、相手の存在は認めるし、挨拶程度は交わすという人間関係はあるでしょう。せめて彼らにもその程度の隣人関係を築いてほしいと考えたのです。そのためには、どうすればよいのか。私が考えた道筋は、次のように段階的に和解を進めることでした。まず両者の代表同士が話し合いを持ち、セルビア系住民の帰還に合意する。ついで、セルビッツア市の元住民だったセルビア人が日帰りで町を訪れ、役所での仕事などもはじめる。両民族が日常の接触に慣れてきたらセルビア人が元の家に帰還する。大雑把に言って、この3段階で和解を進めていこうと考えたのです。しかし、彼らの代表といざ個別に話を始めると、和解はほとんど不可能なように思えました。アルバニア人は、セルビア人の帰還を認めるどころか、話し合いすら拒否しました。セルビア人は、故郷に戻りたいから話し合いには応じるが、自分たちの身の安全が保証されない限りは、帰りたくても帰れないという考えでした。

とにかく、いまや勝者であるアルバニア人に敗者となったセルビア人の帰還を認めさせることが先決であると考え、私はアルバニア人の代表12人を集めて市評議会をつくり、その1999年11月30日に開いた第一回会議で、この評議会にはセルビア人代表も2人含めたいと発表しました。私はセルビア人の中には戦争に加担し、犯罪を行った「悪いセルビア人」もいるだろうが、戦争に巻き込まれただけの「良いセルビア人」もいるはずだ、悪いセルビア人は当然に逮捕され処罰されるべきであるが、良いセルビア人は隣人として再び受け入れるべきではないかと話したのですが、まったく相手にされませんでした。

なぜならすべてのセルビア人は何らかの形で戦争犯罪にかかわっているので、彼らの帰還は絶対に認めることはできない、というのが彼らの一貫した主張でした。12月21日に開いた第二回市評議会でも、この議題を取り上げ、そもそも戦争犯罪人とは何かという話をし、アルバニア人にとって受け入れ可能なセルビア人の基準について話し合おう、と呼びかけたのですが、まったく話にならず、理屈以前の感情の問題として、セルビア人の顔など二度と見たくもないという態度でした。結局、この問題を市評議会でこれ以上取り上げても進展はないと判断し、それ以降は市役所の再建や市の復興計画など実務的な問題についてアルバニア人代表と話し合いを進めることにしました。

しかし、その後もセルビア人と通じていたというアルバニア人が覆面をかぶった何者かに射殺されたり、前回紹介したようにセルビア人の乗ったバスが襲撃されたり、セルビア人の住む村に手榴弾が投げ込まれるなどの事件が相次ぎました。さらには、2000年2月29日に開かれた第4回市評議会の最中に、評議会に参加していたロシア軍司令官の運転手として市役所の外で待機していたロシア兵が、アルバニア人によって撃たれ、数日後に死亡するという事件も起きました。こうした一連の事件を目の当たりにして、やはり民族和解は避けて通れないことを私は痛感し、市のレベルでの話し合いが無理なら、村のレベルからはじめようと考え、冬の寒さも少し和らいできた3月から私はアルバニア人とセルビア人の村々を回ることにしました。新たな挑戦と挫折の始まりでした。

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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