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-国連職員の仕事- 15
民族和解 vol.5

写真 / 解放記念日に集まったアルバニア人

写真 / 解放記念日に集まったアルバニア人

民族和解を村レベルから始められないだろうかと考え、わたしは3月に入ると隣接しているセルビア人の村とアルバニア人の村を訪ねて回ることにしました。紛争前までセルビア人の家族も住んでいたアルバニア人村がいくつかあるのですが、帰還は時期尚早と考え、とにかくセルビア人の村と谷を隔てて隣接しているアルバニア人の村との対話を始めようと考えたのです。まず、セルビア人の村に行きました。いまや少数民族となってしまい、ひっそりとおびえながら村の中に閉じ込められたようにして生活をしているセルビア人は、対話や和解に積極的でした。我々の身の安全が保証されている限り、アルバニア人と会うことは問題ない、というのが彼らの立場でした。ところがアルバニア人はセルビア人と会うつもりなど全くないという立場です。予想通りでしたが、そこで私は、毎週のようにアルバニア人村を訪ね、村のリーダーと対話を重ね、もしセルビア人とアルバニア人が協力し合うのであれば、共同の農機具の修理工場を作ることを国連としても支援していきたいなど、あの手この手で説得をしました。2ヶ月近くも村に通い続けた結果、5月になるとアルバニア人村のリーダー数人がセルビア人の村を訪ねてもいいということになりました。

ところが、やっと対話が始まると喜んだのもつかの間のことでした。なんとセルビア人の村の警備をしていたKFOR(NATOを中心として国際治安維持部隊)のフランス人司令官から、アルバニア人がセルビア人の村を訪ねて万が一彼らが襲われた場合、安全の確保ができないので場所を変えてほしいといわれました。わたしは、逆はともかくセルビア人がアルバニア人を襲う可能性はほとんどゼロに等しいといったのですが、フランスKFORは同意をせず、結局、セルビア人の村での会合はキャンセルになりました。しかし気を取り直し、それなら日を改めて、セルビッツア・スケンデライ市の市庁舎で開くことにしました。セルビア人が町に来るということに対してまた猛烈な反対がありましたが、穏健派アルバニア人の支持を取り付け、何とか会議を開けるところまでもって行きました。ところが直前になって、フランスKFORがまたしても治安の維持に責任がもてないからセルビア人の警護をしないと言い出したのです。これにはさすがにショックでした。私がこんなに苦労してやっとまとめた話を、今度は身内がつぶしたのです。実際、いろいろ情報を集めてみるとフランスKFORの司令官があと数週間で任期満了となりフランスに帰るので、その直前にセルビア人とアルバニア人との対話を行って万が一騒動がおきたら、経歴に傷がつくので、とにかくそういうことは自分の離任後にしろということになったようでした。軍人でも事なかれ主義があるのだなあと実感しましたが、味方に裏切られたという思いは拭い去れませんでした。

そうこうしているうちに、6月になりました。6月18日はNATOの進攻によって市からセルビア人が追い出され、アルバニア人が「解放」された記念日です。しかしその直前には、厳しい戦いが各地でおき、多くの犠牲者が出た慰霊の月でもあります。当然、反セルビア感情も高まり、一度は、セルビア人と話をしてもいいと話していた村の指導者たちが、村人が2年前に虐殺された慰霊祭が終わるまではセルビア人には会いたくないと言い出しました。こういわれると待つしかありません。

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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