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-国連職員の仕事- 18
民族和解vol.7

写真 /バンニャ村のセルビア人の子供

写真 /バンニャ村のセルビア人の子供

コソボにおける民族和解について書き始めて7回目ですが、もうしばらく書かせてください。それくらい根深い問題なのです。

さて、村人の間での民族和解を促すことをあきらめた私は、14人のアルバニア人市評議員を個別に説得することにしました。一軒一軒彼らの家をたずねて回り、話し合いをするのです。彼らが何を考えているのか、セルビア人との共存は本当に無理なのかを、会議場ではなく彼らの家で腹を割って話し合いました。その中の一人、評議員の中でも特に強い反対意見を持っている男を訪ねたときのことです。彼は、町からずいぶんとはなれた山の中に住んでいたのですが、やっと彼の家にたどり着いたときに驚きました。立派であったろう彼の家は無残にも焼け落ち、彼とその家族はその前にテント小屋を立てて住んでいたのです。戦争が終わって1年が経ったのに、彼にはいまだに住む家さえないのです。これではいくら私が民族和解などと奇麗事を言ってもセルビア人を許す気持ちにはなれないだろうと実感しました。衣食足りて礼節を知るといいますが、被害者が最低限の生活を取り戻せないうちに和解を受け入れさせることは無理だとわかりました。

それでも2週間近くかけて14人の評議員と話し合った結果、6人は戦争に加担しなかったセルビア人ならば会ってもよい、5人は誰であれ絶対に会いたくない、3人は決めかねるという立場でした。そこで、会ってもよいと考えている6人だけでもセルビア人との会談に参加してもらおうと考えました。フランス軍にも十分な根回しをし、7月19日に日取りを決めました。戦後初めて、北部ミトロビッツアとスーボグルロ村を代表するセルビア人2名がアルバニア人と会うはずでした。ところが、会談の2日前になって今度はセルビア人が、バンニャ村の代表も加えて3人にしたいといってきました。しかしアルバニア人側はこの3人目のセルビア人を受け入れることはできないと拒否。セルビア人側も3人出なければ会わないと言い張り、またしても両民族の対話は流れてしまったのです。

すると今度は、セルビア人のほうから会談はミトロビッツアで行いたいと申し入れ、これに対してアルバニア人も同意をしました。そこで、8月24日に日取りを再設定し、今度こそはうまくいくだろうと準備を開始したところ、会談2日前に、アルバニア人側が突然、やはりスケンデライで会いたいと言い出したのです。セルビア人にこれを告げると、身の安全が確保されるのであれば、セルビッツア(スケンデライのセルビア名)でもよいと回答して来ました。両者の間の気持ちが揺れ動きながらも、だいぶ固まってきていることが感じられるようになりましたが、今度は、フランス軍と国連警察が二日間では警備予定の変更ができないといってきて、会談はまたしても流れてしまいました。

ところがまもなくして、首都のブリスティナからコソボ全体のセルビア人評議会のメンバーが8月30日にスケンデライ・セルビッツア市を訪ねてくるとの連絡が入ってきました。私はこれを好機ととらえ、アルバニア人代表を懸命に説得、何とか彼らの同意を得ました。今度こそは、うまくいくはずでした。ところが、前夜になって突然、特別副代表から連絡が入り、治安上の心配があるので訪問は取りやめると告げられました。今度こそはと考えていただけに、トップからの中止指令には本当に愕然としました。

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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