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-国連職員の仕事- 19
民族和解vol.8

写真 /町に来るセルビア人を警備する国連部隊

写真 /町に来るセルビア人を警備する国連部隊

皆さん既にご承知と思いますが、2月17日にコソボは独立を宣言し、日本政府は1ヵ月後にコソボの独立を承認しました。高村外務大臣の談話は、「我が国は、3月18日付けでコソボ共和国を国家として承認した。コソボ共和国は、国連特使案に沿った国家運営を行う意思を明確にしており、我が国として同国の独立が長期的にこの地域の安定に貢献することを期待している。

なお、我が国は、セルビアとは伝統的に友好関係にあり、今般のコソボ共和国の国家承認をもってセルビアとの友好関係が阻害されることは本意ではなく、引き続きセルビアとの友好関係が維持されることを希望する」という簡単なものですが、コソボアルバニア人の独立の意思をとどめることはできない、しかしセルビア人とも引き続き仲良くやって行きたいというもので、第三者的立場にある日本としては妥当な判断だと思います。どちらとも仲良くしたい日本としては、アルバニア人とセルビア人が「喧嘩」をやめてくれるのが一番いいのですが、そう簡単に行かないのが民族対立の難しさです。

さて、前回まで書いてきたように、私はコソボの真ん中で「喧嘩」の仲裁にエネルギーの大半を注ぎこみましたが、失敗と挫折の連続でした。しかし1年が経ち、ようやく機が熟してきました。改めてアルバニア人とセルビア人の指導者、それに警備を担当しているフランス軍とロシア軍とも相談の上、スケンデライ・セルビッツア市ではなく、ミトロビッツア市で戦後はじめての会談が開かれることになったのです。2000年9月5日、アルバニア人はフランス軍に、セルビア人はロシア軍に警護されてミトロビッツアの国連本部にやってきました。最初の会議は、お互いが顔をあわせるということだけでも十分意義があったわけですから、セルビア人の町への帰還といったような具体的な問題は話題になりませんでした。彼らはもともと同じ市に住む知り合いどうしで、1年半前までは話もしていた間柄でしたから、戦後はじめての再会とはいえ、それほどの違和感はなかったようでした。セルビア側の代表は、アルバニア人を苦しめた実行犯ではなく、普通の村人だったため、アルバニア人にも受け入れられやすかったようです。また場所が分断都市として知られているミトロビッツア(川を隔てて北側にセルビア人が、南側にアルバニア人が住んでいる)であったため、セルビア人も、多数派のアルバニア人に包囲された少数派という意識を持たずにすんだようでした。

こうして民族和解の第一歩が始まりました。しかし、その後も、村に戻ってきた4人のアシュカリ人(アルバニア語を話すジプシーで民族的にはセルビア人でもアルバニア人でもない少数民族)が虐殺されたり、セルビア人の村が襲撃されるという事件が相次ぎ、会談は中断されました。年が明けた2001年1月になって、ようやくセルビア人代表が市内に戻ってきて会合が開かれるようになったのです。以来、今日に至るまで両民族の定期的な話し合いは続いているようです。コソボは独立しました。しかし、かつてセルビア人がアルバニア人に対して行ったような、暴力で他民族を追い出すような試みは許されません。両民族は、多数派であれ、少数派であれ、共存してゆくしかないのです。それは、民族和解を経た平和的な共存であってほしいものです。日本を含めた国際社会は、まだしばらくの間、彼らを見守っていく必要があるでしょう。

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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