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-国連職員の仕事- 25
コソボの少女ベシアナvol.5

写真/ベシアナ一家

写真 / ベシアナ一家

今まで4回にわたってコソボ戦争で大火傷を負ったベシアナについて書いてきました。ベシアナの最後の治療は、現在も日本で進行中です。彼女の日本滞在を記録したブログを是非ご覧ください。彼女が日本の小学校に通いながら10月5日の耳の再建手術にむけて、懸命に治療を続けている様子が報告されています。

彼女の治療については、これ以上書くことはありませんが、一言だけベシアナ(私たちの約束という意味)という彼女の名前の由来となっているベサについて書きたいと思います。ベサとはアルバニア語で約束という意味です。しかし意味はとても強く、アルバニア人同士がベサと言って誓った約束は命を懸けても守らなければならない、もし約束を守らなかった場合にはたとえ相手に殺されても文句は言えない、というほどに強い倫理的拘束力を持っている言葉です。だから彼らは、ベサという言葉を使った約束は滅多にしません。ベシアナの両親が、なぜベサという言葉を娘の名前に入れたのかは尋ねたことがありませんからわかりませんが、私は彼女の名前にアルバニア人の誇りとナショナリズムを感じます。

1999年のコソボで仕事をしていた私を含む日本人には、日本とコソボの友好の歴史を築いているのだという明確な意識がありました。我々は、日本政府からではなく国連からコソボに派遣され戦後復興のお手伝いをしましたが、我々が日本人であることをコソボの人々は皆わかっていました。大勢の日本人が焦土と化していたコソボにやってきて、汗を流しながら故郷の再建を手伝ってくれた、そしてコソボ戦争の犠牲者である幼い女の子を何度も日本に連れて行って治療を受けさせてくれているということは、スケンデライ・セルビッツア市の人々ならば皆知っていることです。私は日本とコソボの交流史について詳しく調べたことはないのですが、多分このようなことはこれまでに一度もなかったのではないかと思います。コソボは今年2月に独立を宣言し、日本もその独立を承認しました。今後はますます日本とコソボの友好が深められていくと思います。両国の友好の歴史の1ページに我々の活動が記録されるであろうことを私は誇りに思います。

そして日本とコソボをつなぐ友好のシンボルがベシアナなのです。ベシアナが成長して両国の架け橋となることを願っています。コソボにはアルバニア系コソボ人とセルビア系コソボ人の民族対立が根深く残っています。その犠牲者であるベシアナが、自分を傷つけたセルビア人を「好きじゃない」という感情を持つのは当然かもしれません。しかし、コソボの本当の平和は両民族の平和共存によってのみ達成できるのだということにいつか気がつき、そのために力を尽す人間になってもらいたいものだと思います。そして我々日本人も、両民族の平和共存に基づくコソボの発展のために支援を続けていかなければならないと思います。それこそが、「私たちの約束」ではないでしょうか。

3年間あまりにわたってこのシリーズをご愛読いただき、どうもありがとうございました。私は今も国連に勤務しており、「世界の片隅」である東ティモールで平和構築のお手伝いをしています。しかし、現在起きていることをそのまま報告することは、国連職員の服務規程上からも難しいので、このあたりで筆を擱(お)かせていただきます。

写真 / コソボで活躍した日本人

写真 / コソボで活躍した日本人

(文:井上 健)

井上 健(いのうえ けん)

井上 健(いのうえ けん)

1957年東京生まれ。早稲田大学政経学部在学中に400日間世界一周の一人旅をし、国際協力の道に志す。卒業後、イギリスのサセックス大学開発研究所に留学、開発学修士号取得。その後、国際公務員として、ワシントン(世界銀行)、トリニダード・トバゴ(国連開発計画)、タイ(国連カンボジア人道支援室)、カンボジア(国連カンボジア暫定統治機構)、ソマリア(国連ソマリア活動)、スイスとドイツ(国連ボランティア計画)、コソボ(国連コソボ暫定統治機構)、東京(アジア生産性機構)に勤務し、現在は東ティモールの国連統合ミッションでガバナンス部長を務める。専門は、国際開発協力、人道支援、平和維持・構築など国際協力業務一般。好奇心が旺盛で、世界各地を訪ねて、何でも食べ飲み人々と交流することが大好き。これまで住んだ国は12カ国、訪れた国は80ヶ国余り。毎週必ず何かひとつ生まれてはじめての経験をすることを心がけている。

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