「日本八霊峰」の提唱
最古の霊峰が古代渡来人により見出された手法を考察!
島国とも呼ばれる日本は、国土の大半を山々で埋め尽くされています。その数は、少なくとも2万はあると言われています。それらの山々の中でも、特に名高く、由緒ある山は、江戸時代では「日本名山図会」にて88山が選別されています。その後、昭和の時代に入ると「日本百名山」と呼ばれるくくりでもまとめられるようになり、時には「日本二百名山」、「三百名山」として、より多くの山々が含まれることもありました。
石鎚山 頂上からの眺め「日本百名山」は登山家であり、小説家としても活躍した深田久弥氏が、自らの登山体験を踏まえたうえで、山々を選定しています。その基準となったのは、1.山の品格、2.山の歴史、3.山の個性です。そして深田氏自身が登頂した山ということが大前提にありました。その後、2006年には山と渓谷社より「新日本百名山登山ガイド」が発刊されました。また、山岳雑誌の「岳人」によるアンケートにより、登山の対象として面白い山々100峰なども選定されています。こうして日本の山々は、多くの山岳家をはじめ、自然を愛する人々から崇敬され、その名を歴史の中に刻んできました。
著名な霊峰はいずこに
日本の著名な山々を思い浮かべる際、百名山という自然の美を基本としたくくりだけでなく、時には、霊峰と呼ばれる宗教的な意味合いを含む基準を用いて選定することもあります。霊峰とは、山々の中でも、古くから信仰的な対象として崇拝されてきた山々を指します。日本では古代から山は神聖な場所と考えられ、そこに神が住まわれるという宗教観が根強く存在しました。よって多くの山々では神仏が祀られている場合が少なくありません。地域に土着する風習や宗教観に基づいて山の随所に祠が建てられ、祭りごとが行われることは日本固有の文化です。それら地域に土着した宗教観を超えて、歴史的かつ宗教的な意義のある由緒や言い伝えにより、山全体が神聖化された山々を霊峰と呼びます。
最も有名な霊峰は、「日本三名山」「日本三大霊峰」とも呼ばれる富士山、白山と立山です。この三名山の共通点は、それぞれの山がご神体として崇められ、山の麓だけでなく、その山頂にて神が祀られていることが挙げられます。
富士山では山の神霊を祀る浅間信仰が広まりました。立山は山岳信仰のメッカとして修験道者が集まり、立山信仰の神として伊耶那岐神が立山権現として祀られています。また白山も古代より山岳信仰の対象として修験道の霊峰となり、白山信仰が古くから広まりました。これらの山はいずれも修験道のメッカとして多くの行者が神を崇めるために登山したという歴史を共有しています。
また、日本三名山に加え、奈良の大峰山と釈迦ヶ岳、鳥取の大山、愛媛の石鎚山を挙げ、富士山、立山、白山と合わせて「日本七霊山」と呼ぶこともあります。しかしながら七霊山には諸説があり、釈迦ヶ岳を外して月山を加える説もあれば、白山の代わりに御嶽山を選別する説など様々です。どのような条件をもって霊峰を選ぶかは、それを選定する学者や評議会の考え方や選定基準に左右されます。よって、「日本七霊山」には定説がありません。最近では山と渓谷社より「日本百霊山」という本も出版されており、より多くの山々が霊峰として紹介されています。そこでも本の著者は「“百霊山”と銘打ってはいますが、あくまで私の好みやエピソードの面白さで選んだものです」と記載しているとおり、自らの基準にて、霊峰を選ぶというこれまでの考え方に徹しています。
世界遺産に登録されるための基準10項目
霊峰と呼ばれるからには、それなりの基準が必ずあってしかるべきです。霊峰を選定する際に参考となるのが、世界遺産として登録されるための基準10項目です。世界遺産となるためには「顕著な普遍的価値」が見出されることは言うまでもありません。その基準として10項目が挙げられていますが、その中でも以下の5項目(10項目中3-7項目)が、霊峰を選定する際の基準として参考になるガイドラインと言えそうです。以下にそれら5項目を抜粋しました。
- (iii) 現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
- (iv) 歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
- (v) あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)
- (vi) 顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
- (vii) 最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
剣山 山開き祭り日本の霊峰は、どれもが類まれな自然美を有することは勿論、宗教文化を継承してきた形跡が山麓から山頂まで随所に見られ、古代からの歴史の流れを肌で感じることができます。そして霊峰を囲む地域で執り行われる祭りごとは、長年にわたる宗教的な伝統行事の一環であり、山の存在そのものと密接な関連があります。人々と霊峰とのふれあいは、日本固有の伝統に相まみれて、長年にわたりその山を聖なる場所と位置付けることに寄与し、いつの日も特別視されるようになったのです。日本の霊峰は、当然のことながらこれら世界遺産としての条件もクリアーできるほど、特有の美と歴史を誇ります。
古代霊峰を見極めるための歴史的背景
月山頂上の月山神社本宮これら世界遺産の基準を用いたとしても、古代の霊峰を選別することは容易くありません。どの山が霊峰か、という問いかけについては諸説があり、細かい選定基準が定まっていないからです。様々な尺度や見方があることから、結果として、霊峰と呼ばれてきた山々は日本列島の随所に存在します。しかしながら、奈良時代や飛鳥時代をさらに遡り、古墳時代、そして弥生時代から霊峰として崇められてきた可能性のある由緒ある山々のみに絞るならば、検証すべき霊峰の候補は限られてきます。果たして古代の人々が信仰の対象とした霊峰を特定することはできるのでしょうか。どのような歴史的背景により、霊峰として人々から崇められるようになったのでしょうか。
霊峰と呼ばれる山々には、古代に遡る由緒があるだけでなく、その他にも古代の人々が注目した何かしらの共通点があるはずです。それら歴史の流れと霊峰の実態を理解することにより、山に纏わる由緒と共に、「霊峰」として崇められるようになった理由を見極めることができるはずです。霊峰として選ばれる山々の選定は、その選択基準によって大きく左右されるだけに、正しい歴史的解釈と宗教概念をもって見定めることが重要になります。
剣山 亀岩・鶴岩そこで日本の古代史を振り返りながら、国生みの時代を経て、いかに山々が「霊峰」として崇められるようになったか、そのきっかけと可能性について考えてみました。太平洋に浮かぶ多くの諸島においても、古代より宗教的行事が山々で営まれてきた島は少なくありません。しかしながら、日本のように整然としたしきたりや細かな儀式が長年にわたり踏襲され、山々においても神が崇められ、その頂上や麓にも神社が建立され、複数の山そのものが神聖化するというような事例は世界でも類をみません。古代、何らかのきっかけがあったからこそ、日本固有の「山の宗教文化」が培われることになったと考えられます。
その背景を探るためにも、古代史の流れを理解するための前提となる様々な歴史的要点を、グローバルな視点から見直すことが不可欠です。そこで、諸説はあるものの日本の有史が始まった可能性のある紀元前7世紀前後と同時期に、西アジアにて国家を失ったイスラエルの民が離散して世界各地へと移住したという史実に注目し、離散したイスラエル人と日本の接点を考えてみました。すると古代、アジア大陸よりイスラエルからの移民が大陸沿いに海を渡り、最終的に日本列島に住み着いて国生みを実現し、日本の有史が始まったという想定も、可能性として見えてきます。そしてイスラエルからの渡来者が国生みに関わったと考えることにより、古代史における様々な疑問が解かれていくことがわかります。これが「日本とユダヤのハーモニー」を考察する原点となります。
例えばイスラエルの民は、聖書に書いてある言葉を神の言葉と信じる民族としても知られています。それ故、西アジアから渡来したイスラエルの民が日本の霊峰を見出した張本人であるとするならば、それらの高き山を霊峰として求めなければならない理由があったはずです。果たして、聖書には霊峰についての教えが記載されているのでしょうか。
岩木山頂上から津軽平野を望む聖書には神が山に降臨し、山に住まわれるということが、複数個所に記載されています。モーセはシナイ山にて天から降臨する神と出会っただけでなく、ダビデ王の時代では、王自身が神と山の関係が大切であることを詩篇に綴っています。ダビデ王は「主の山に登る」こと(詩24)、「神の山」(詩36)、「聖なる山」(詩43)の大切さを書き記し、「神が住まいにと望まれた山にとこしえに住まわれる」(詩68)と謳いました。そして、その山は「高い山」であり、「主なる神がそこに住まわれる」(詩68)ことから、「聖なる山で拝みまつれ」(詩99)、「私は山にむかって目をあげる」と謳い続けたのです。後の時代では、日本に渡来したと想定されるイザヤもその預言書にて、「主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえる」(2:2)ことから、「高い山にのぼれ」(40:9)、「わが聖なる山」(56:7)と書き綴っています。イスラエルの民にとって、高い山こそ、神が住まわれる場所と考えられていたことがわかります。
イスラエルの民は神を愛するがゆえ、古代、海を渡って日本列島に渡来した当初、国生みの一環として列島をくまなくリサーチしたうえで、神が住まわれる聖なる山をまず、探し求めたのではないでしょうか。世界の島々の中で、日本の山岳信仰史が際立っている理由は、山に住まわれる神を信じたイスラエルの民の存在があったからに他なりません。その宗教文化と伝統を長年にわたり列島各地で継承してきたが故、今日でも大勢の日本人は山を愛し、山に建立された神社や祠、そして山頂にて神を祀ることに努めています。そしていつしか、ご来光を崇めるような風習がごく当たり前のこととして、庶民の間でも定着してきたのです。
海上から眺める淡路島もうひとつ見逃せないポイントは、古代、イスラエルからの渡来者は、船に乗って日本列島に到来し、優れた海洋民族の側面を持っていたと推測されることです。イスラエルは国の西方が地中海に面しており、古代から船による行き来が盛んでした。よって先陣をきって東方へと向かった初代の渡来者は、船を用いて大陸の海岸沿いを東に向かって航海したに違いありません。その先頭集団の中には王族や神の預言者も存在したと考えられ、必然的に大切な神宝も船内に携えられてきたことでしょう。その第一陣は、タルシシ船のような大きな船でアジア大陸を陸沿いに進み、琉球から南西諸島を北上して淡路島を基点とする日本列島に到達したのです。それが国生みの原点と考えられます。
古代の民は優れた航海技術を携えており、天体や地勢を観測しながら方角を見定めつつ、船旅の拠点を定めることができました。その航海の指標として重宝されたのが、船上から眺めることのできる海沿いの岬や半島であり、その背後に聳え立つ内陸の高山だったのです。神が住まわれる山は、ひときわ聳え立つ高山という教えを聖書から学んでいた民だけに、船から眺めることのできる高山は船旅の指標となったに違いありません。そして島ごとに海上から見届けることのできる最高峰を確認しては、上陸後、その頂上にてまず神を祀るための祭壇を築き、そこで神を崇め祀ったことでしょう。こうして海から眺めることのできる地域の最高峰は、霊峰となる可能性がある山として一線が引かれるようになり、山の麓だけでなく、その頂上にも祭壇や祠、または社が造られるようになったと考えられます。
西アジアから到来した初代の船団は、航海の行き止まりとなる淡路島を長い船旅の終点とし、そこを日本列島の中心と見据えたようです。それが記紀に記されている国生みの始まりと言えます。そして淡路島を基点として、そこから船で島々を巡りまわり、列島の実態を把握し続けたのです。その結果、多くの島々が見いだされて名付けられ、国生みが完結したと考えられます。その過程にあって、本州の太平洋岸を航海した古代の民は、まず、高さと美しさを誇る富士山の雄姿に圧倒されたのではないでしょうか。まさに霊峰の筆頭として名高い所以です。
神秘的な空間に包まれる立山の頂上これらの歴史的背景を前提とするならば、日本の霊峰が特定された経緯や理由が見えてくるようです。古代にまで遡る由緒ある歴史が存在し、山そのものが古くから信仰の対象となり、今日まで多くの人に崇められてきた山こそ、真の霊峰になりえます。また、これらの霊峰は、他の霊峰や聖地と、地の繋がりをもっていることにも注視する必要があります。それは複数の聖地や霊峰が一直線に並ぶことをも意味し、その仮想線は、レイラインとも呼ばれています。霊峰とは、必ず他の霊峰や聖地と結び付く場所に存在するものなのです。こうして島々の最高峰や高山が特定され、そこで神が祀られたのです。
古代の霊峰として認知される条件が見えてきました。
古代の霊峰に選定される条件
古代の民は如何にして、日本列島に霊峰となるべき山を見出し、そこで神を祀る社を建てたのでしょうか。大陸より渡来してきた民は、高度な航海術と天文学を携えてきただけでなく、神は高い山に住まわれることを信条としていたと想定し、その視点に沿うように海の向こうに見える日本列島の島々を思い浮かべるならば、霊峰を見出すヒントが見えてくるようです。
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海上より山の頂上が見える山
前述したとおり、海を越えて日本列島に渡来した古代の民は、必然的に船で日本列島周辺を行き来することになり、海上から陸の地勢を見届けることが重要な課題となりました。そして遠く離れた内陸に山の頂上が少しだけ見える位の標高を誇る高山が指標として求められたことでしょう。それは、山側から見るならば、その頂上から日本海や太平洋を一望できるほど、見通しが素晴らしいことを意味していたのです。新天地にて神を祀る場合、その場所が容易に特定できなければなりません。よって、海上から見届けることができる地域の最高峰であり、上陸した後も、その場所、方角、位置づけがわかりやすい場所にあることが大切でした。古代の指標となるべく、360度にわたり、周囲の光景を見渡しながら遠くまで地勢を確認できることが、古代霊峰の必須条件だったと考えられます。
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山頂と麓にて神が祀られている
大勢の参拝者が訪れる筑波山神社古代より神が崇められてきた霊峰であるならば、人々が長年にわたり神を参拝してきたという軌跡が、山の随所に残されていると考えられます。その最たるものが、山頂に建立された神社です。その山頂にある社を奥宮として、山の麓でも神社が建立され、いずれにおいても人々がいつ何時でも神を拝することができるように整備されていることが重要です。こうして霊峰の頂上まで登ることのできない人であっても、麓にて神を参拝することができるようになり、より大勢の人が山の神に歩みよることができるように配慮されていることも大事です。古代の霊峰では、山頂と麓、双方で神を祀ることが当たり前だったのです。 -
レイラインにて他の聖地と結び付いている
古代の霊峰は、日本列島の指標として大切な位置づけを占めていました。何故なら、それらの霊峰を拠点として、新たなる港や集落を列島内に造成する場所を特定し、神を祀る神社の場所も見出していくことができたからです。その主だった手法がレイラインの構築です。霊峰が座する地点を基準に、レイラインと呼ばれる仮想の直線を他の聖地と結んで引くことにより、その線上に、神社を建立するべき聖地や、港を建造する場所、さらには別の霊峰までも選定することができます。それ故、古代の霊峰であるならば、その場所を拠点としてつながる複数の神社や聖地、他の霊峰などがレイライン上に複数見つかるはずです。レイラインを構築する基点となっていることが、由緒ある歴史の証拠であり、それが霊峰であったことの印と言えるでしょう。
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記紀に名前が記されている山
伊吹山頂に祀られる日本武尊の像日本書紀や古事記には、神代から歴代の天皇紀に関する記述の中で、いくつかの山の名前が登場します。史書に山の名前が記されているということ自体、その山の重要性が公に証されていると共に大切な情報源となります。それらの山々において、神々とも呼ばれた日本人の先祖が古代、活躍されたのです。その背景には、宗教的な要素も多分に絡んでいたことでしょう。特筆すべきは四国の石鎚山と、琵琶湖そばの伊吹山です。どちらも聖なる霊峰として、今日まで多くの人々から愛されてきています。無論、すべての霊峰の名前が記紀に記されているわけではないことから、名前の記載は必須条件ではありません。しかしながら記紀に名前が記載されることにより、より霊峰としての信憑性が高まることに注目です。 -
古代イスラエル人の行動範囲となる緯度内にある山
イスラエルの祖国は地中海に面しており、その緯度は日本列島とほぼ同じです。イスラエルの民が歩んだ行動範囲の歴史を振り返ると、そのエルサレムと呼ばれた首都を中心に、南西方向にはアフリカ大陸のエジプト、カイロ周辺まで、そし北方はダマスカス、今日のシリアからハランに至るまで、歴史の流れの中で旅を繰り返しています。イスラエルの民は長い年月の間、地中海に沿うカナンと呼ばれる地を中心に生活圏を拡大してきたのです。
その南北の上限と下限をみると、北は族長時代の父アブラハムの故郷があったハランの町、北緯37度12分、南は北緯31度14分のベエルシェバ、そしてエジプトのカイロがあります。それらを日本の地図と合わせると、まず、北のハランとほぼ同緯度にある日本列島の地域は能登半島や、福島県の会津若松界隈です。多少のオーバーシュートがあったとすれば、佐渡から山形の南方、仙台も含まれるかもしれません。そして南方を見ると、エルサレムと同緯度には日本の中甑島(鹿児島)にヒラバイ山があり、ベエルシェバと同緯度には鹿児島の最南端、枕崎や指宿市があります。また、エジプトのカイロまで含むならば、その緯度線には屋久島が存在します。
つまり古代のイスラエルの民が、長年にわたり天文学の知識と経験を活かして生きてきた緯度圏とは、日本の鹿児島から北陸、福島の間を網羅する緯度線の間に存在していたのです。それ故、日本列島という新天地にて、新たなる霊峰を見出し、列島内に新たなる拠点を短期間で設けていくためには、これまで先祖代々培われてきた天文学をフルに活かすことができる、従来からの居住範囲であった緯度線の範囲に収まることが望まれたことでしょう。それ故、国生みの当時、日本列島に霊峰を見出す際も、まずはその緯度線のエリア内にて山々が探しもとめられたと推測されます。それ故、霊峰をはじめ、神社の建立や磐座の存在なども、南方は九州の鹿児島界隈、北方は山形、宮城をリミットとして、その緯度線の間に霊峰や神社、指標となる拠点が見出されていくことになります。
古事記が証する大八島国の領域
「日本八霊峰」の選定基準とは
古代霊峰として認知されるには、単に山の麓や山頂にて神が祀られているだけでなく、山そのものが地の指標となり、そこを基点として他の霊峰や神社、地の指標などと結び付くレイラインを構築していることが重要です。霊峰とは地域信仰における中心的な存在であることから、いつの日も多くの人が遠くから遥拝し、時には山頂まで登りつめ、そこで神を崇めてきたのです。また、古代の霊峰は、海上からも視認できるという比類なき標高をもつ山でなければなりませんでした。船から見ても指標の山として位置づけることができるからこそ、古代の渡来者は短期間の間に、その存在を大勢の人に知らしめることができたのです。
これら霊峰としてのハードルを満たすことのできる山々が日本列島には存在します。国生みの時代、日本人の先祖は海を渡って列島に到達した当初、本州を中心とする島々の周辺を航海しながら、ひたすらそのような高山を地の指標として見出すことに努めたことでしょう。そして「神は高い山に住まわれる」という信仰心があったが故に、まず海上から見える標高の高い山々が注視され、それらの中から、地の利がある山が特定されたと考えられます。こうして厳選された山の頂上では神が祀られ、山の麓にも社が建てられ、いつしか山全体が霊峰として認知されるようになったのです。
古代の霊峰は地域の拠点となる高山であったことから、必然的にレイラインの指標としても用いられることになりました。その結果、多くの神社がその霊峰と結びつくレイライン上に建立されることになります。未踏の日本列島に到達し、山道さえもないジャングルのような雑木林を内陸奥地まで足を踏み入れ、レイライン上の大切な場所を特定し、そこに社を建立して神を祀ることは、決して容易いことではありません。それでも多くの神社は、これらの霊峰同士や地の指標となる岬や島々を結びつけたレイライン上でも、特にレイラインが交差する地点に綿密に位置づけられて建立されました。霊峰や地の指標を含む2本のレイランが存在すれば、どんなに遠い場所や山奥であっても、その交差点をいつでも特定することができたのです。そのためにも、古代の霊峰を地の指標として用いることが不可欠でした。こうして後世において、多くの神社がそれらのレイライン上に建立され、日本列島の各地に人が移り住み、国土が開発されていくことになります。
古代より多くの人々が比類なき霊峰として崇めてきた山々は少なくありません。その中から、富士山、立山、白山、石鎚山、剣山、伊吹山、大山、筑波山の8峰を厳選し、「日本八霊峰」と呼ぶこととします。いずれも地域の最高峰であるだけでなく、歴史的な背景を証する由緒に恵まれ、レイラインの基点となる指標としても重要視されてきました。その結果、これらの山々を通り抜けるレイライン上に多くの神社や聖地が並び、霊峰として筆頭の候補であることの裏付けを確認できます。
岩木山頂上から見渡すパノラマ東北地方の山々は本リストには入っていないものの、月山と筑波山の由緒と自然の美観は特筆すべきものがあります。特に岩木山は本州最北端の拠点として極めて重要であり、その頂上から眺める北海道や日本海を含む360度のパノラマの光景を見るだけで、誰しも大自然が育んできた地域最高峰の美しさに心を奪われてしまうに違いありません。これら2峰が八霊峰に含まれなかった理由は、古代イスラエルの民が目安としていた北緯を超える雪国に存在することから、先祖代々培われてきた天文学を駆使した地勢検証の枠組みを超えてしまったこと、そしてその結果、レイライン上の基点として用いられることが難しく、他の聖地との結びつきがレイライン上にほとんど見られないことです。しかしながら八霊峰に選定されずとも、岩木山や月山のように素晴らしい霊峰が日本には数多く存在することも心にとめておく必要があります。
また、「日本八霊峰」の中に大峰山とも呼ばれる山上ヶ岳と釈迦ヶ岳が選ばれなかった理由は、双方とも海上から見て確認することができない熊野の中心部に位置すること、そして大峰山が鹿島神宮と富士山頂近くを結ぶ直線上に存在すること以外、どちらにもレイラインが存在しないことが挙げられます。他の霊峰や聖地との結びつきがないということは、熊野山奥の探しづらいエリアに存在する山ということになり、古代の指標として山頂にてまず神を祀る、という目的を達成するには不向きの場所であったと考えられます。今日、山上ヶ岳の頂上には「お花畑」と呼ばれる樹木が広がり、頂上にて神が祀られてきたという痕跡も乏しく、古代より山全体が霊峰となる風格とはズレがあるようです。釈迦ヶ岳の山道は、今日、かなり荒れ果てており、熊野山中の登山道として一般の方々にお勧めできるようなルートはありません。古代より人々が参拝する霊峰であるならば、長年に亘る人々の行き来により、必ずや山道が整備されてくるものです。釈迦ヶ岳山頂の「釈迦如来像」の歴史も不透明であり、古代の民がそこで神を拝したという痕跡にはなりえないことも、「八霊峰」のひとつとして選択されなかった理由です。
古代より崇められてきた「日本八霊峰」
「日本八霊峰」を一座ずつ解説するにあたり、特にレイラインの重要性に焦点をあてながら、霊峰の特異性に注視してみましょう。
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富士山
日本最高峰の標高3776mを誇る富士山霊峰を語る際、誰しも筆頭にあげるのが富士山ではないでしょうか。日本最高峰の標高3776mを誇る富士山は、比類なき日本の指標として古代より崇められてきました。富士山の雄姿は太平洋の海上から眺めることができます。その頂上からは、関東平野を一望できるだけでなく、中央アルプスに聳え立つ山々さえも見渡すことができます。北東方向には茨城の筑波山、北方には八ヶ岳や浅間山があり、北西方向にある信州アルプスを見渡すと乗鞍岳や御嶽山が見えます。そして南方には伊豆大島の三原山も臨むことができます。多くの山々を眺めることができるという事実そのものが、富士山の重要性を証しています。
日本列島において富士山が最も高い山であることは一目瞭然です。それ故、古代より富士山は比類なき地の指標となっただけでなく、高き山に神が住まわれるという信仰心を背景に、その頂上では神が祀られるようになりました。こうしていつしか山全体が霊峰化したのです。しかしながら、富士山は活火山であり、数百年に一度は噴火を繰り返し、頂上に造営された祠や社もすべて跡形もなく消え去っただけでなく、山全体の容姿も大きく変貌してきました。しかしながら、噴火の度に人々は新たなる祭壇を衣替えした富士山頂に造営し、山への信仰心を守り続けてきたのです。
富士山の火口富士山信仰は古代から、富士山の噴火と結び付いていました。富士山本宮浅間社記によると、第7代孝霊天皇の御代に富士山が噴火し、第11代垂仁天皇の命により、浅間大神が祀られることにより富士山が鎮められ、浅間神社の起源となりました。浅間という呼称は火山を意味しているという説があり、それにちなんで、活火山として著名な阿蘇山、浅間山も命名されたと考えられています。景行天皇の御代では、日本武尊が駿河国で野火に焼かれそうになった時、浅間大神に祈ることにより難を逃れたことが記紀に記されていることからしても、富士信仰は着実に広まっていたことがわかります。その後も富士山は度々噴火を繰り返しながらも、富士山の頂上を極める信仰登山まで盛んになり、各地で浅間神社が建立されることとなりました。富士山が古代の霊峰であることは、レイライン上に並ぶ山や神社が、いずれも歴史的にみて、最も由緒ある古代の聖地であることからしても理解することができます。富士山を結ぶレイライン上には、出雲大社、諏訪大社、石上神宮、鹿島神宮、そして宇佐神宮など、日本書紀や古事記に記載されている由緒ある古代の神社が名を連ねます。これほどまでに著名な神社が名を連ねるレイラインは富士山を基点とした事例しかありません。
富士山とレイラインでつながる聖地は、古代に建立された神社だけでなく、由緒ある山々も存在することに注目です。富士山とは、出雲大社は伊吹山、石上神宮は石鎚山、そして諏訪大社は立山と共に、それぞれが結びついています。また、筑波山は紀伊半島の最南端にある紀伊大島と共に、富士山と一直線のレイラインを形成しています。さらには由緒ある古代の神社、鹿島神宮が、辰砂の発掘で知られるようになった古代の採掘場である若杉山とも富士山を介してつながっていることは注目に値します。
これらレイラインの検証から、富士山を基点として多くの聖地や山々が同一線上に並んでいることを確認することができるだけでなく、それらレイライン上に浮かびあがる山や神社の歴史的背景をそれぞれ検証することにより、富士山が霊峰化した時代背景までも垣間見ることができるようになります。富士山が霊峰であることは、レイライン上に並ぶ多くの古代聖地が地の力を結集するべく結び付いていることからしても、理解することができます。
富士山のレイライン -
立山
北アルプスの飛騨山脈に聳え立つ富山県の最高峰、標高3015mを誇る立山は北陸4県の最高峰であり、3000m級の高山としては、日本列島において最北端に位置付けられています。立山は古代より霊峰として崇められ、立山信仰を育んできました。その頂上からは日本海を展望できます。それは海上から立山の頂上を臨むことができることを意味し、神が降臨する高山を探し求めながら日本海を船で旅した古代の渡来者も、立山の存在を容易に認知することができたことでしょう。その後、8世紀の初頭、慈興上人が開山したという伝承が残されています。
立山山頂の越中国一之宮雄山神社 峰本社立山には山そのものを御神体として祀る雄山神社が建立され、古くは立山権現と呼ばれていました。その祭神は伊耶那岐神と天手力雄神であり、創建の時代はわかっていません。祭神が国生みの創始者である伊耶那岐神であることから、国生みの時代に、伊耶那岐神ご自身が日本海から立山を見出し、そこで神を祀った可能性も否定できません。立山信仰の基本は修験道であり、山麓には信仰登山の拠点となる寺が建てられています。そして立山に登り、巡拝することにより死後の世界を疑似体験するという修行を積むことができると信じられたのです。立山が古代の霊峰であるならば、海上からその頂上を遠くに眺めることができるだけでなく、立山と他の聖地を結ぶレイライン上には、記紀に記されている山や、歴史的にみても由緒ある神社が並ぶはずです。立山のレイラインを検証すると、その想定にもれることなく、古代聖地が並んでいることがわかります。
まず、国生みの祖である伊耶那岐神が葬られたとされる淡路島の伊弉諾神宮と、淡路島から見える最高峰、剣山を結ぶ線上に立山が存在することは重要です。剣山は伊耶那岐神が国生みの際に最初に見出した、淡路島から見える最高峰であったと考えられます。その剣山と伊弉諾神宮の場所に繋がる山こそ、立山であり、それが霊峰となる所以と言えます。
諏訪大社下社秋宮神代の舞台となった出雲大社の御神体とも言われる八雲山と、山幸彦、海幸彦の伝説に絡む対馬の海神神社を結ぶ線上に立山があることも重要です。それは、国生みに繋がる山として、地の力を共有するべく、立山そのものが聖地として特定されたことを意味します。また、出雲から諏訪へと続く武甕槌神に纏わる伝説と関わる諏訪に建立された諏訪大社下社が、富士山頂とレイラインを構成しているだけでなく、伊吹山と古代指標として重宝された室戸岬を結ぶ線も立山につながっていることからして、立山が富士山、八雲山(出雲大社)、剣山、そして伊吹山という古代の霊峰に結び付いている事実を地図上で確かめることができます。こうして立山の霊性は、ゆるぎないものとなったのです。
立山のレイライン -
白山
白山頂上から眺める油ヶ池と紺屋ヶ池立山と同様に石川県最高峰、標高2702mの白山も山全体が古くから信仰の対象となりました。白山の御祭神、三柱には立山と同様に伊耶那岐神が含まれています。その他、二神は伊邪那美命と菊理媛尊です。今日、白山神社は全国に3000社あまり建立されています。最古の国生みの時代から、白山は国生みの神々から知られていたことは想像に難くありません。日本海を北陸方面に航海するならば、天気の良い澄み切った日には必ずや白山を遠くに目にすることができるからです。
白山頂上から室堂の先に絶景を見渡す白山が知られるようになったのは、崇神天皇の御代です。紀元前91年頃、白山に神地が定められ、そこに社殿が建てられ、白山が崇められるようになりました。崇神天皇の時代と言えば、国家が動乱の局面を迎え、元伊勢の御巡幸が始まる時です。その重大な時期に白山信仰が広がることにより、修験道のメッカとなるべく土台が造られていったのです。白山は奈良時代に行者として名高い泰澄により正式に開山されました。そして修験道のメッカとして多くの行者に知られるようになり、白山信仰は修験道の象徴として体系化されていきます。その結果、いつしか白山修験は熊野修験に続く勢力にまで発展し、多くの行者が求めた登山信仰の基となったのです。
白山のレイラインは立山のものと比較すると、ずっとシンプルです。それでも地の力を共有するという大切な意味合いにおいて、他の霊峰とつながっていることがわかります。まず、日本八霊峰の一つに挙げられている筑波山と同緯度にあることは、極めて重要な事実です。真東に筑波山を拝することができるということは、筑波山から見ても同様に、白山を真西に見出すことができることを意味します。
羽黒山頂上の御本殿となる三神合祭殿同緯度線上にある霊峰同士が相互に崇めあうことにより、地の力が共有されると信じられていたことでしょう。また、日本八霊峰に挙げられているもう一座の霊峰、剣山と羽黒山を結ぶレイライン上に白山が存在することも需要な視点です。羽黒山は出羽三山のひとつであり、その東には東北の霊峰として名高い月山があります。よって、羽黒山を介して、白山は剣山に紐づけられていた、とも考えられるのです。こうして白山も八霊峰の一座として、多くの人々から崇められる対象となりました。
羽黒山のレイライン -
石鎚山 西日本最高峰 1982m
石鎚山 天狗岳
石鎚山のレイライン -
剣山 西日本第二峰 1955m
剣山頂上の風景 馬の背
剣山本宮宝蔵石神社にて祀られる巨石
剣山のレイライン -
伊吹山 伊吹山地の主峰 1377m
伊吹山の全貌を遠くから望む
伊吹山のレイライン -
大山 鳥取県最高峰 1729m
夏季に眺める大山の絶景 -
筑波山 関東地方東部の紫峰(筑波 嶺) 877m
国道から眺める筑波山全景
筑波山のレイライン
※本稿に掲載されている画像は、すべて筆者が自ら登山して撮影したものです。
(文・中島尚彦)