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素朴な時代の食生活に備蓄の原点を見出す
世界的な食糧難の時代がやってくる!

つい最近、成田駅近くの国道51号沿いに「幸楽苑」というラーメン屋がオープンし、大層な流行りようです。何しろ390円のラーメンを販売しながら、東証2部に上場してしまった程の人気チェーン店です。昔からあるごくありきたりのラーメンを単に「中華そば」と言っているだけのことにしかすぎないようにも思えますが、感心することがひとつあります。それは店舗内にて掲載してあるオーナーからのメッセージです。そこにこう書かれています。…祭りや映画の帰りにくぐる朱いのれんに、胸が躍った…昭和29年、あの頃の中華そばは、家族のたまのご馳走だった…汗をかきかき夢中で食べた…と。

かつて誰もが体験してきた素朴な日本社会の過去を巧みに綴っているこの文章は、昔の日本を本当に懐かしく思わせる言葉の響きを持っており、読むたびに共感を覚えます。この幸楽苑の文章に今の日本社会が必要としている食生活に関わるメッセージが含まれているような気がします。食べる事とはどういうことか、ご馳走とは何か、そして日々の食事に対しての感動をいつしか失いつつある私達が、素朴ながらも本当に楽しい食生活の原点に如何にして復帰することができるか、ということです。いつの時代においても人は、お腹がすくので食べるために働き、食べることを喜びとし、より美味しいものを食べることを人生の一番の楽しみとしてきたのです。お腹がすいて空腹感を覚える。そしてご馳走を感謝と感動をもって頂く、「いただきます!」「おいしい!」「うまい!」と喜ぶことの重要性を再認識しようではありませんか。

何かがおかしい日本の食糧事情

食べることが人生において最も大事なことの1つであるならば、当然国内の食糧事情に関しても深い関心が払われるべきです。食材が不足すれば「美味しい!」を歓呼することができなくなるのです!しかし現実はどうでしょう?例えば、国は国際社会の一員として食料の自給率を十分なレベルで維持し、自国の食べ物は国内で十分にまかなえるように農産業の枠組みを整備することは当然のことです。自給率が著しく落ちてしまうと、突如としておこり得る国際事変により食糧難に陥ってしまうことになるからです。しかし日本における自給率は下がる一方で、今日では異常事態とも言える30%台まで落ち込み、先進国の中では一番低い数値となってしまいました。昨年9月11日の同時多発テロ事件を振り返ってみてもわかる通り、輸出入に使われている交通網は空と海、双方とも突如として止まってしまうことがあるのです。北米、オーストラリア、中国、東南アジアからの食糧輸送が長期間止まってしまい、国民の大半がお腹をすかしてしまうような事態だけは避けなければなりません。それ故あらゆる手段を使って自給率を100%以上のレベルに持っていき、日本国民がいざという時に飢えないようにするべきです。

またこれに伴って食料の備蓄も常日頃、心がけなければいけないことです。今、日本では戦争も無く平和な日々を誰もが過ごしています。食生活にも何ら不自由を感じていません。しかしいつ何時天変地異や世界的レベルでの飢饉がおきて食糧の取得が難しくなるか、先は全く見えていないのです。だからこそ、日頃から用心して「備えあれば憂いなし」という格言のごとく、しっかりと備蓄を実践していくべきです。そして国家のブレーンを結集して中長期プランを導入し、あらゆる手段を講じて最低でも2-3年分の食糧を備蓄するという目標を設定し、その為に皆で努力するべきです。

ところが自給率も備蓄レベルも危機的な水準にあるにもかかわらず、現実問題として何ら進展を見ることができないのが実情です。国会の答弁を聞いても、自治体レベルにおける議論を聞いても、確かに食料の備蓄の重要性は一部議員の方たちが必死に訴えていますが、何ら盛り上がることなく終始しているようでありインパクトは感じられません。自給率を上げるために生産効率を改善し、国際的レベルの価格競争力をつけていく話題が出ても、農家の人達はあくまで目先の自分の権利、利得に目が向いているようであり、村のため、県のため、国のためなら「エーンヤコーラ」と人肌脱いでくれるような人は皆無です。本来ならば農作物の生産効率を上げるために、近隣の農家の人たちとタイアップして大規模な統合化を図り、かたわら売価を積極的に下げて、国際競争力を増すための抜本的改革を皆で協力しながら実現していかなければならないのです。すなわち農業においても価格破壊と聖域無き構造改革が必要なのですが、そのような風潮は毛頭見られません。切羽つまった状態であるにも関わらず、なぜ皆のんびりとしているのでしょうか?あくまで自分は自分、人は人、そして問題があれば行政に文句を言う、というように自分のことしか考えない体質から抜けきることができないのでしょうか?またこれらの緊急メッセージに対して一般庶民の関心度があまりに低すぎるのは何故でしょうか?

食糧問題に対して無関心な風潮のみが漂う昨今を振り返る時、いくら声を大にして「自給率を上げよう!」「食料の備蓄を始めよう!」と少数の人が叫んでも空回りするだけで何らインパクトが無いのは明らかです。消費者は当然物を安く買いたいから海外産の割安な食物の需要がどんどん増えます。そして国内の生産者は面倒な合理化など手をつけずに、できるだけ現状を維持しながら高い値段で国産の農産物を販売したいのですから、自給率は下がりつづけて当たり前です。これではいくら方法論を語っても埒があきません。問題は庶民の「心」にあるのですから。

飽食と浪費は当たり前?

「美味しいものを食べている時が最高に幸せ!」良く聞く言葉ですね。体が健康で普段から軽く運動でもしていればお腹ももっとすいてご飯が更に美味しくなり、それこそ“汗をかきかき夢中で食べる”ような食欲となって至福の一時を過ごせます。しかし現実はどうでしょうか?今日食べ物はお金を払えばいつでもどこでも買うことができる商品と化してしまい、誰でも飽きる程食べることができるようになりました。また決まった時間になると当たり前のように3食を食べる風習が定着し、時には付き合いで我慢しながら食べることさえあります。実際に食べ過ぎて体を壊す人も大変多いのが実情です。本来動物は過食に対する防御機能が備わっていませんから、同様に人間も食べ過ぎると身体に不調をきたし、それは自分の寿命を縮めているようなものです。

食事とは本来感謝の気持ちをもってご馳走を頂くものであるはずです。食べるものに全く不自由がない今日の私たち日本人は本当に恵まれています。ところが不自由が無くなると何時の間にか感謝の気持ちが消えうせてしまうのが人間の常です。食物とは本来、農耕や狩猟などのダイナミックなアクションの結果として得ることのできる自然の恵みであるにもかかわらず、大半の庶民にとってはそれがお金で簡単に解決できるため、感謝の気持ちが薄れてしまうのです。更に飽食の時代とは親が子供を甘やかす時代でもあります。わがままを言いたい放題の子供たちが好き嫌いの文句を豪語し、その愚言を親がなだめるというナンセンスがまかり通る時代なのです。親が子供に「食べてくれる?お願い」と頼み、子供は「しょうがないな、食べてやってんだぞ!」と恩着せがましく食べるのです。こんな子供が大人になって食糧の備蓄の話を聞いても何も理解できないのは当然でしょう。またご飯とは絶対に無駄にせず残さず食べるものです。それが感謝の表れでもあります。つい一昔前までお米にはお百姓さんの気持ちがこめられているのだから、たとえ一粒でもご飯を残すことは大変もったいないことだ、と誰もが教わってきたものです。ところがそのような風習は今や全く影を潜め、使い捨てというコンセプトに慣れきってしまった私達は、いらなくなった食べ物を何らためらうことなく捨てるようになってしまいました。私たち先進国の周囲で無駄に破棄されている食材の量はおそらく世界中の飢えている人たちを満足させてもまだ足りるほどの量ではないかと危惧しています。

平和はいつまでも続かない

これらの現実を振り返ると、私達が直面している食糧問題の原点が私達の「心」そのものにあるのは明白です。そのハートの問題を解決するために是非とも実践したいことが以下の3点です。

  1. 食物と自然を大切にし、心から感謝を捧げることを当たり前とする道徳教育のカリキュラムを組んで、幼い子供も含めた教育を始める
  2. 私利私欲のまま物と金を貪る金権主義から脱皮して価値観を修正する為、宗教哲学の力を借りて人生観を抜本的に見直す
  3. 農産業の効率化を実現する為の大規模な統合化を実現するために、お互いに譲り合いの心を持って一致団結する農家の組織を育成する

これらの根本的な心の課題を解決しないまま自給率を上げるための具体策や、備蓄をするためのインフラの整備を語っても大半は無駄骨になってしまうでしょう。

平和な時代はいつまでも続きません。それは歴史の常とするところです。また異常気象や天変地異などが原因となって世界的な飢饉もおそらくここ10年以内にやってくることと思われます。その時慌てふためいても遅いのです。だからこそ今、皆で立ち上がるべきです。素朴なライフスタイルを愛し、無駄を無くして物を大切にし、お互いに協力しあって譲り合いの心を持ちながら農業のあり方を一新するのです。その上で未来を担う子供達の教育をしっかりとやり遂げましょう。艱難の時代がもうすぐ到来してくるのですから。

(文・中島尚彦)

教育の側面

成田市議会の一議員様よりお手紙を頂きました。その中で第6号「教育の抜本的改革が急務」について述べられていますので、一部抜粋でご紹介致します。

今回の教育問題について興味深く読ませていただきました。以前私の家の離れに下宿していた某農業高校畜産科の先生は、教育熱心で行動的な人でした。バスケットクラブの監督をつとめていたため、朝は早く夜は9時過ぎの帰宅でした。「私の学校の生徒は“俺は頭が悪いからこの学校に来た”といって、最初から意欲がない生徒ばかり。だから1つでもいいからこれだけはやり通したと自信が持てる子供にしたい」と言って、練習をサボる生徒は自宅に押しかけても引っ張り出して学校へ連れていきました。練習がきつくて退部を申し出てくる生徒には夜中まで人生論を交わして翻意させていました。近所でその学校に通う子供を持つ親が「あの先生は熱心なのはいいが、やり過ぎ」と批判していましたが、登校拒否のその子供は立派に卒業して就職し、4年後に結婚して今ではマイホームを購入してよき父親となっています。

こんな先生は研修で作られていくものではなく、それ以前の素養です。また、父兄の1人として授業参観に来た大学教授が、先生の数学の教え方が悪いと黒板に数式を書いて教えてしまったとか、音楽の先生のピアノが下手だといって生徒の前で先生にピアノを教えたピアノ講師の母親等々。親もしつけをし直す必要があります。

私は成績第一の教員試験を止め、親(PTA)は学校の先生を監視しながら教育を語らずに、自らの子供のしつけを反省しながら先生とともに子供の素質を見出すことが大切だと思います。先生方は文部科学省や県教委の指導でがんじがらめです。最終的には教育を含めた四権分立がいいのではないでしょうか。

© 日本シティジャーナル編集部