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嵐のボストンを走る!
世界最古の第111回ボストンマラソンを暴風雨が襲う!

2007年4月12日、アメリカのテキサス州が大型の低気圧に襲われ、暴風圏と化しました。またコロラド州では別の嵐が発生し、デンバー市を中心として春先の4月であるというのに大雪に見舞われたのです。成田からロスアンジェルスを経由してミシシッピ州で仕事を済ませ、ボストンマラソン参加のために東海岸沿いのボストンへと向かう途中にあった筆者と2人のチームメイトの一行を追かけるように、低気圧はアメリカ大陸西部から北東へ急速に移動し始めました。既に全米各地の新聞やテレビでもその凄まじさが話題となっており、天気予報ではこの嵐が第111回ボストンマラソン開催の4月16日にボストンを直撃するというのです。しかもマラソン当日の予想気温は最低2度、最高が7度、そして強風が伴うため体感温度は零下3度という最悪の予報です。

ボストンマラソンが中止?

ボストンマラソンは世界最古のマラソン大会であり、毎年2万人以上のランナーが世界中からエントリーする著名な国際大会です。過去のレース記録によるハードルが年齢枠ごとに高く定められている為、良い記録を出さなければ参加することができないのです。この由緒あるボストマラソンが史上初めて中止になってしまうのか、という話題がメディアで取上げられるほどの春嵐でしたが、比類なき歴史を誇るボストンマラソンだからこそ、「嵐の中でも走る」ことは当然だったのでしょう。大会決行です!

大会の前日、ボストン市の早朝は青空の広がる快晴です。「明日もこうであってほしいな!」と思っているのもつかの間、昼過ぎより一気に厚い雲が立ち込め、夕方から強風を伴う激しい雨が降りだしました。極寒の雨の中でのマラソンは、既に東京マラソンで体験済みですし、また暴風雨の中で走ることも幾度となく経験しているので怖くありません。むしろ低気圧の影響で、案外ラッキーかなと思っていたのです。ボストンマラソンのコースはボストン市西部の郊外にあるスタート地点から東の海岸沿いにある市街中心部のゴールに向けてほぼ一直線の道のりなので、暴風が追い風となって記録が大幅に伸びるとふんだのです。ところが直前の天気予報では、当日の風向きは一転して東からの向かい風に変わってしまったのです!

マラソン当日、果たして嵐が訪れる

4月16日、早朝4時半に起床してホテルのカーテンを開けると、予報通りの暴風雨です。横殴りの雨がひどく、道路上の水溜りが強風になびいて水面が動くのが見えます。「この暴風雨の中を凍える思いで走るのか…」と覚悟を決めて、いざ出陣です。

スタート地点はダウンタウンから40km程離れた郊外の住宅街にあります。当日は交通規制が厳しく、その町に出入りできるのは選手を乗せたバスと住民の車のみになると聞き、主催者側のアドバイスに従って早朝6時よりボストン中心街から出発する選手専用のピストンバスに乗ることにしました。バスにゆられて1時間少々、ついに選手村に到着です。

マラソンは学校の選手村から始まる

選手村と呼ばれるにふさわしい学校の校庭には大型のテントが2つ張ってあり、既にそこでは大勢の選手が、無料で配布されている飲食物を口にしながらくつろいでいました。参加選手しか入ることができないため、正にオリンピック選手村の様相です。唯一の室内休憩所であった体育館も人で溢れかえり、大変な混雑の中、野外で雨に打たれながらスタート時間までたむろっている無数のランナーも見かけました。

ボストンマラソンでは過去のレース記録に基づいてゼッケン番号が決められます。東京マラソンで達成した3時間8分の申告をした筆者には、4516番が与えられましたが、この記録ならばロスやホノルルマラソンでは2-300台のはずですから、ランナー層の厚さが伺えます。

スタート準備を知らせるアナウンスと共に選手はスタート地点に移動し始めましたが、いつ到着しても、自分に与えられた「コラル」というスタート・ポジションにすんなりと入れることには感心しました。つまり道路が半分に区切ってあり、選手が待機する「コラル」沿いを、通行人が自由に行き来できるように工夫されているのです。また嬉しかったのは、スタート直前まで大勢のボランティアがコラル脇から紙コップで水を配布してくれたことです。ほんの一口の水、この思いやりがレース展開を大きく変えることがあります。感謝につきます。ボストン、ありがとう!

サブスリーへチャレンジ!

午前10時、強風の中、第111回ボストンマラソンの幕が切って落とされました。世界中から集まったエリートランナーが、歓声に包まれながら走り出す瞬間です。驚いたことに、スタート直後に暴風雨が収まりはじめ、向かい風も弱まり小雨になってきたのです!道路上の水溜り、そして肌寒さはランナーにとって過酷ですが、最悪の条件ではなくなってきました。さあ、希望的観測に胸をふくらせて3時間の旅へと出発です。

東京マラソンでは極寒の雨の中、後8分でサブスリーという記録を達成していたので、もし追い風があるなら、ボストンでは3時間を切る絶好のチャンスです。その為、3時間ちょうどで走るための1マイルごとのラップタイムをリストバンドにつけて、自分の時計と見合わせながら1マイルを平均6分52秒で確実に走り切るという戦略に徹することにしました。これは時速14.1kmに相当し、東京マラソンの時よりも時速0.4km早く走らなければなりません。この違いが実は大変なのです。

レースの序盤ではさすがに混雑が厳しく、多少遅れをとってしまいましたが、その後は順調に流れに沿ってスピード感を取り戻し、予定通り1時間30分ちょうどでハーフ地点を通過することができました。また給水ポイントが多数設置され、しかも左右両側でその位置がずれているため、給水で失敗することがありません。ランナーにとっては大変嬉しい主催者側の配慮です。

ところがハーフを過ぎた頃から、強烈な向かい風が吹いてきました。体の大きい選手の後につき真っ向から風を受けないようにして走るのですが、それでも風が強すぎて、設定したラップタイムから10秒、20秒と遅れをとり始めました。どうやってスピードを取り戻そうかと考えている矢先、今度は風邪気味だったこともあり、走りながら咳がコンコンと始まったのです。これで一気に意気消沈、サブスリー達成が絶望となってしまいました。

25km地点を過ぎた後は気持ちを切り替え、とにかくゴールを目指して果敢に走り切り、自己ベストだけは更新しようと心に言い聞かせました。すると沿道の途中で女子学生の大歓声軍団を目の当たりにし、再度モチベーションがアップ!元気を取り戻し、終盤直前にあるハートブレイクヒルと呼ばれるランナー泣かせで有名な急斜面もも無心で上り詰め、35km地点から気合を入れ直してギアチェンジ!中盤でスピードを落とした分、終盤で挽回!と思いきや、今度は腹痛が始まってしまい、大苦戦です。その痛みを必死にこらえながら走り続け、遂にダウンタウンの高層ビル街に突入です!

頑張った自分を褒めたい!

ボストン市内へつながる一直線の最後の長いストレッチは、大観衆の声援に支えられながら、体に残っている全ての力を振り絞る正念場とも言えます。ここを走り切る苦しみは半端ではありません。「自己ベスト絶対更新!」と心の中で何度も叫び続けながら、棒になった足を前に出してがむしゃらに走り続け、フィナーレは失神寸前でゴールに突入です!2人のヘルパーに両脇から支えられ、かろうじて立つ自分に、多くの声援と祝福が送られた事をとても嬉しく思いました。頭を下げては失神するからと、靴の紐まで解いてくれるヘルパーもいたのです。本当に感謝です!

レースの結果は3時間7分34秒。過酷な条件に打ち勝って、自己ベストを1分以上更新!サブスリーには程遠かったにしても、1マイルあたり平均7分10秒の記録です。大会全体としての成績はちょうど1600位。自分より早く走った女性ランナーは87名、そして年齢別の成績は360位。マラソン歴3年半の自分が、世界からエリート軍団が集まるボストンマラソンで、トップの1割に食い込めたことに大満足です!

年連続で優勝した世界のトップランナー、ケニヤのチェリヨット選手の記録も伸びずに結局2時間14分13昨年、同選手が達成したコース記録よりも6分59秒も遅く、尚且つ、過去30年で最も遅い優勝記録だったのです。女子の記録も2時間29分台と、これも1985年来の最低記録に終わりました。寒さと雨、水浸しの道路、そして台風並みの最大風速15mの向かい風という悪条件が積み重なった過酷なレースだったからこそ、誰しも記録を伸ばすことができなかったのです。ふと考えてみると、チェリヨット選手の記録は昨年よりも5.2%も遅いのです。筆者の記録も同等に落ちたとすると、もし天候がよければ記録は9分以上更新し、確実に3時間を切っていたはずなのです!

そんなことを考えながら今回、最後のマラソン記事を書いています。この3年半、12回に渡り世界各地のマラソン大会を走ってきた筆者ですが、引退の時がきたようです。サブスリーは達成できなかったものの、それだけの実力はあったのだと確信し、それに固執せず、もうすぐ50歳になる自分の体をいたわることも考え、自己ベストを最後まで更新し続けた第111回ボストンマラソンの暖かい思いを胸に抱いて、マラソンの世界を後にします。いつまでも走るために・・・

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部