日本シティジャーナルロゴ

ベルリンの壁にチャレンジ!
最後のマラソン大会でサブスリーを実現できるか、いざ勝負!

今年4月、嵐のボストンを走ったことを最後にマラソン大会から引退することを宣言したものの、公約を簡単に破って何とその5ヵ月後、世界最大、しかも最速コースと言われているベルリンマラソンに再挑戦しました。

何故、苦しむのを承知で走るのか?

人は何故、とてつもない苦しみを自ら好んで、過酷なレースに参加するのでしょうか?自らの限界に挑戦するマラソンフィーバーはその過激さを増し、今や42.195kmのフルマラソンだけでなく、ウルトラマラソンと呼ばれる100kmマラソンも登場しています。そして最近では、アフリカのサハラ砂漠を7日間で230km走るという競技会まで有名になってきました。わざわざお金を払って、誰もいない、何もない砂漠を、何故人は走るのでしょうか。しかし大会には、世界各国から数百名ものランナーが集まります。これこそ生きている証を立てたい、という人間の本性に秘められている願望の現われなのかもしれません。

42.195kmという距離をこれまで12回走ってきた筆者は、今になって何故、苦しむのを承知で自分も走り続けてきたか、わかってきたような気がします。初マラソンでは想像を絶する苦しみを味わい、それからも大変なことばかりの連続でした。しかし、自分を限界まで追い込んで走っている時は、少なくともこの世の問題一切から解放され、ひたすら走ることだけに集中します。そんな自分との熾烈な闘いの中に、生きていることの素晴らしさと開放感を感じるようになってきたのです。

マラソン体験はプロも顔負け!

過去12回のレースを通して様々な体験ができました。嵐のボストンや、凍えるような真冬の雨の東京マラソン、そしてロスアンジェルスでは30度を越す異常気象の炎天下で走り、プーケットでは交通整理のない公共道路上を車と一緒に走るという怖い思いもしました。失速の体験も3 度有り、その内1度がベルリンでの苦い体験です。ハーフを1時間30分で走ったものの、力尽きて、残りの半分に2時間かかってしまう大失速で、当時のレースの記憶が今でも全くありません。

レース中の経験談も枚挙に暇がありません。走りながら膝関節の激痛や、大腿筋、腰痛を我慢したこと等は序の口であり、ひどい腹痛に悩まされたこともあります。また耐え難いのは、脱水症状と栄養失調に陥り、吐き気が生じることです。それでも走り続けるつらさは、言葉に言い尽くせません。ゴール前に失神寸前になったこともあります。

逆に面白い体験もあります。一番ずっこけるのは、一生懸命走っている時に、自分の前を走っているランナーが突然、ブブブーと大きな「おなら」をすることです。これには参ります!ちょっと笑うだけで、スピードが落ちてしまうのです。

やり残していたことが3つあった!

そんな思い出一杯のマラソンレースの数々ですが、3つだけやり残していることがありました。ひとつは過去12回、全て自分自身でペース配分をし、時計を見ながら走ってきた為、プロのペースメーカーについて走ったことがないことです。ベルリンマラソンでは3時間を最短にして、15分ごとにぺースメーカーが配置され、大勢のランナーがそのペースメーカーの周囲に群がって、一緒に走ることができます。これには是非ともチャレンジしたくなりました。

次に体重のコントロールです。4年前に走り初めてから一気に体重が落ちて65kgに落ち着いていましたが、色々と研究した結果、走るための自分のベスト体重は60-61kgということがわかりました。更に4kgも体重を落とすということは、お腹の周りについている重たい脂肪が無くなる訳ですから、足の負担が減り、より軽快に走れるはずです。しかも1kg体重が減ると記録が3分伸びるというジンクスもあり、減量をきちんと実行すれば記録が伸び、サブスリーが視野に入ってきます。

もうひとつのやり残しは、まともな天候、正常な環境の元で、普通に自分の力を試してみたかったのです。この1年半の3大会は、どれも最悪のレースコンディションでした。寒さと、強風、びしゃびしゃの道路、ずぶぬれの靴、これでは良い記録がでる訳がありません。やはり最適なレース環境は、無風状態、天気は曇り、気温は10-15度、そして平坦な道。もしかしてこれらが今年のベルリンで全て揃うならば、最後にもう一度だけ、自分の本当の力を試してみたくなったのです。

不安材料もこと欠かさない

しかし今年は既に東京マラソンとボストンマラソンを走り、どちらも自己ベストを更新するべく体を極限まで酷使してきた為、そのつけが一気に回ってきたのでしょう。4月のボストン以降、足の痛みが何ヶ月も取れず、明らかにオーバーワークの兆候が見えていました。これは体が赤信号を出していることに他なりません。それでも最後のレースに望みをつないで、7月からトレーニングを再開しました。

ところが今年は例年にない猛暑の日々が続き、その暑さのためか、走っても全然元気がでないのです。それに輪をかけたのが、ストイックな減量です。カロリーの高いご飯ものや、炭水化物類を献立から排除し、野菜中心のメニューに固執した結果、大会の1週間前には30数年ぶりに59kg台まで体重を落とすことが出来ましたが、この減量が暑さと合い重なり、完全に夏ばて状態に陥ってしまったのです。結果、確実に練習不足となってしまいました。以前のようにレースを走り切れるか不安がつのります。

完璧なレース環境が遂に実現

9月30日、大会当日のベルリンは正にマラソン日和です。天気は曇り。一昨日からの雨もあがり、道路は朝方には乾いていました。気温も10度を超え、ちょっと肌寒い程度。スタート5分前、既に数万人がびっしりと並んでいるスタートポイントに到着。すぐさま3時間のペースメーカーが持っている大きな風船が目につきました。この風船を持っている人にしっかりと着いていけば、サブスリーが実現する訳です。

さあ、無数のランナーが一斉にスタートです。自分はペースメーカーのそばから一緒にスタートしましたが、そこはサブスリーを目指すランナーが集まっていることもあり、全員が時速14-15kmで最初から飛ばします。ランナーは、お互いの距離を1-2mもおかずに、ひしめきあいながら走り、真横のランナーとは頻繁に肩と肘がぶつかり合います。このサブスリーランナーの集団は、正に弱肉強食の世界です。ちょっとでも呼吸を乱したり、集中力を欠いてペースダウンすると、後部から他のランナーがすぐに割り込んできて、自分が後部に回されてしまいます。ですからペースメーカーにぴったりと付いて走るというのは、他を押しのけでも突っ走るガッツが必要であり、大変困難なことなのです。筆者はとりあえず、ペースメーカーから5m圏内には必ずいるという目標を立て、力まずに走ることに集中しました。

ハーフ地点が勝負の分かれ目

自分にとってサブスリーを達成する為の鍵は、前半をリラックスして走り、ハーフの地点でも十分に余力を残しておくことにつきます。これまでのレース経験から、ハーフでの体調、足の痛み具合を知るだけで、その後のレース展開がほぼ、わかってしまうのです。だからこそ、サブスリーに向かって後半にチャレンジする為には、ペース配分と共に、絶対に達成するんだ、という気力が不可欠です。しかしいざ、ハーフ地点に到達してみると、当初の想定よりも疲労が著しく、足にひどい痛みが生じ始めていたのです。ここまで何とかペースメーカーについてきて、1時間28分というサブスリーを想定した走りをしてきたのですが、既に足の筋肉にかなりのストレスがかかっていて、いつ壊れてもおかしくない状況でした。

このままペースメーカーについていけば、確実に30km台で失速することが、これまでの経験則から想定できました。地獄の失速を避けるには、ペースメーカーを無視して若干スピードを落とし、自分のペースで走れば良いのですが、その場合はハーフから死に物狂いで走っても、3時間2分前後のゴールになると思われました。いずれにしても、このままでは体が崩壊するのは決定的なため、ハーフ地点でサブスリー達成を断念せざるをえなくなりました。

ハーフから25km地点までは、自問自答の世界です。サブスリーを実現するために今回、マラソン大会に参加しているのですから、それが達成できないとわかったなら、さっさと棄権するべきではないかと。またここから懸命に努力して再度、自己ベストを更新してしまうと、後もう少しでサブスリーが達成できる、ということで、マラソン地獄から抜け出せなってしまうのではないかと。結局のところ、棄権という選択肢はありえず、サブスリーぎりぎりの記録も喜べない、という結論に至り、最後のマラソンを、思う存分、時間を忘れて、楽しく、笑顔で走ることにしたのです。

美しいベルリンに感謝

するとどうでしょう。今まで全く見たことのないベルリンの美しい姿が自分の目に映し出されてきました。これまではひたすら5m先の地面を見据えて走ってきた為、前に走っているランナーの足しか目に映りませんでした。ところが一旦顔を上げて周囲を見渡すと、そこには沿道にいる大勢の観衆や、応援のために演奏している様々なバンドは勿論、西洋の歴史を彷彿させる大聖堂、高級ブティック街など、今まで見失っていたベルリンの姿がありました。

そして道路沿いには多くの子供達が、選手に手を差し伸べていたのです。しかしサブスリーを目指す集団は、全員が真剣勝負で必死に走っていますから、そんな子供の手はみんな、無視しています。すると自然に、子供達の気持ちを大切にしてあげたいという思いにかられ、差し伸べられた手は、目に付く限り全部、喜んで手をパチンと合わせてあげることにしました。するとどうでしょう。子供達の笑顔を一杯見ることができた上、周囲の観衆もいっそう声を上げ、自分を応援してくれたのです。

32km地点では、街宣車が待ち構えており、ランナーの名前を読み上げて紹介していました。そして大勢走っている中から自分を選び…Nakajima from Tokyo!とマイクでアナウンスしてくれました。それを聞いた瞬間、ちょっと嬉しくなり、みんなに手を振りながら走り続けました。また途中、応援団の中には格闘技の舞いをしているグループもあったので、そこでは一緒に飛び跳ねたりし、また太鼓の演奏をしているグループの前では踊ったりしながら、とにかく自分の体が欲するままにベルリンの風土に染まりました。

ベルリンの3時間の壁は壊すことができませんでした。しかし、自分の心の壁は崩れ去り、ベルリンマラソンの思い出がやっと、記憶の倉庫に入りました。これまで空白だった心の隙間に、ベルリンの暖かいメモリーが残ったことを心から感謝します。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部