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生きること、死ぬこと
与えられた日々を有意義に過ごす為に、死の認識は不可欠

生きるということは素晴らしいことです。その尊い生命が脅かされずに、誰もが安心して暮らすことができる今日の日本社会に生まれ育ったことを感謝せずにはいられません。また日本では衣食住に不自由しないことも大変ありがたいことです。ところが食べ物が十分にあり、住まいも与えられ、着る物にも困らない、という生活の基本条件が満たされているにも関わらず、今の日本社会は、これまで培われてきた良い意味での日本人らしさを失いつつあります。そして様々な社会的要因が絡んでか、心病む人が急増し、社会全体に亀裂が生じているように思えてなりません。いじめや自殺、殺人事件が増加傾向にあるのも、その心の病が主たる原因でしょう。 このような心の問題を抱えたまま、日本は高齢化社会を迎えようとしています。今や100歳まで生きても決して不思議ではない時代です。しかしながら、老後に不安を感じる人は後を絶たず、老人の自殺者も決して少なくありません。定年退職をした時から、第2、第3の新しい人生が幕を開ける訳ですから、今こそ抜本的な意識の改革が必要です。そして生きることと死ぬこと、言い換えれば「生命の尊厳」や宗教心についてもきちんとした教育が提供され、やがて訪れる死に備える為にも、しっかりとした考えを持って対応すべきです。 長寿大国化した日本では、死が以前よりも遠い存在になってきており、老後の生き方や、死そのものについて、より長い時間をかけてじっくりと考えざるを得なくなりました。如何にして、最期の1日、1時間、1秒まで、与えられた人生の時を、果敢に生き抜いて、人生の終焉ともいえる「死」を迎えるべきなのでしょうか。このように重要なトピックを真剣に考え、時間を費やして議論し、それぞれが自分の生き方についてしっかりとした思いを持つことが大切ではないか?そんなことを考えていた矢先、再び家族に不幸が訪れました。

母を偲び、思うこと

今年の1月8日、享年84歳にて母が亡くなりました。直接の死因は脳梗塞ですが、晩年は高血圧と心臓疾患の問題を抱えており、病院を行き来する生活が続いていました。そして1月4日に突然倒れた後、あっという間に帰らぬ人となってしまったのです。交通事故で両足を潰される程の複雑骨折をしたことや、以前、内臓の手術をしたこと等を考えると、女性の平均寿命まで長寿をまっとうできたことに母の強い生命力を感じずにはいられません。その最も大きな原動力は、本人の粗食主義でした。

大分昔の話になってしまいますが、母は筆者が物心ついた頃から、既に白米を避けて、素朴な穀物を好んで食べていました。せっかく美味しい白米があっても、何のためらいもなく麦や玄米を混ぜたり、七分搗きのお米しか使わなかったり、あげくの果ては、粟やひえなども頻繁に混ぜていました。あまりに御飯の味が落ちるので、文句を再三言ってはみたものの、馬の耳に念仏です。無論、炭酸飲料や、様々な添加物が入っている即席食品等は母にとって薬物以外の何物でもなく、肉類も含めてあまり買うことはありませんでした。その粗食が功を奏したのでしょうか、おかげで母は晩年までメタボになることもなく、どこへ行っても元気に駆け回る程、エネルギーに満ち溢れていました。確かに現代医学も、長寿の秘訣として肉食を避け、腹八分を守り、白米よりも玄米を推奨し、果物と野菜を多く摂取することが食生活の基本であることを教えています。そしてカリカリに痩せることにより、更に寿命が延びると言われています。そんな時代の流れを先読みしていたのでしょうか。母の健康マニアぶりから、今更ながら学ぶべきことがあります。

次は我が身?余命は何年?

2年前の1月には父が亡くなり、そして今年の1月には母が他界しました。すると次は、我が身かと、いつしか「死」について真剣に考えるようになりました。まず気になるのが、自分の寿命はおよそ後、何年残っているかということです。日本人の平均寿命は年を追うごとに延び続け、戦争直後の昭和22年には男性が50歳、女性は54歳であったのが、平成18年度の簡易生命表によると、男性は79歳、女性は86歳と、今や世界でもトップクラスの長寿大国になりました。筆者は今50歳ですから、平均寿命から単純計算すれば、後、29年の余生が残されていることになります。

ところが昨今のメタボ問題に象徴されているように、巷では日本の長寿化は今や終焉したと囁かれ始め、今後は平均寿命が縮み、実際の平均生存年数は段々と短くなっていく可能性を指摘されています。すると20年後、自分が70歳になった時には、もしかすると平均寿命がずっと短くなり、後、数年の命でしかないような数値になっているかもしれません。しかも筆者の祖父は75歳で他界し、父も脳溢血で同じく75歳で召天している為、この75歳という年齢が大きな鬼門として、自分の前に立ちはだかっています。何とかしてこのハードルだけは乗り越えて、少しでも長く生きたいと考えるこの頃です。

幸いにも寿命の統計に関しては、平均寿命の他に、平均余命と呼ばれるデータがあります。前者は今年生まれた0歳児の平均的な寿命を指しますが、後者は年齢別に、これから後、何年生きることができるかという数値を表しています。簡易生命表によれば、50歳である筆者の平均余命は31年であり、平均的に見ればおよそ81歳まで生きながらえることができるのです。そして女性ならば、後37年、つまり男性よりも更に6年、長生きすることができます。勿論、これらのデータは、現在の生活環境や、死亡率が維持されることが前提となっているため、今後大きく変化する可能性も否定はできません。

また、平均寿命や平均余命を計算する為に使用されるデータに死亡率があります。平成18年のデータでは、50歳の男性が今年、死ぬ確立は0.00344です。これは簡単に言えば、50歳の男性が300人集まれば、誰か一人、その年に死ぬであろうということです。300人といえば、ちょうど筆者の小学校と中学校の同級生の数を足した数です。その内、誰か一人、今年死んでいくことになるというのは、考えるだけでも切ないものです。しかも死亡率は年々上昇し続け、男性は54歳になれば毎年200人に一人、そして62歳になれば100人に一人、命を失う計算です。次は誰が犠牲になるのか、考えるだけでもロシアンルーレットの様に感じてしまう人も少なくないはずです。

統計上のデータはあくまで参考程度にすべきであり、このような統計ばかりに捉われて、「死」についての認識を正しく持たず、しっかりと生きることの大切さを忘れてしまうことだけは、避けなければなりません。今、大切なことは、私達に与えられた日々を、精一杯、有意義に過ごすことであり、その延長線に「死」があることを前向きに受け止めることではないでしょうか。

死を恐れず、望まず、避けず

生きることと、死ぬことについて、きちんとした人生哲学を持ち、自分の死の意味を理解することは大変難しいことです。特に死についての認識をしっかりと持ち、それを迎え入れるだけの心の強さを持つには、相当な精神力が必要でしょう。また、アンチエイジングのように、寿命を延ばして死期を遅らすことで、死についての理解が深まるものでもありません。やはり大事な基本は、それぞれが自分の置かれている立場で、生と死について熟考し、最期に死を迎えるまでしっかりと生きていく事です。

一つのアイデアとして、死についての認識を、「恐れず」、「望まず」、「避けず」、という3つの原則にまとめてみました。まず、死は恐れるに値しないという原則であり、これは霊魂が存在するというキリスト教等の信仰心に基づきます。そして肉体が滅びても自分の魂は「生き続ける!」ことを信じることにより、死の恐れから開放されるようになります。それ故、最期の1秒、一瞬まで命をまっとうして、永遠に生きる魂として死後にも期待することができるのです。宗教心は時に、魂を救い、死の恐怖から開放してくれることさえあります。次に、死は「望まず」という原則です。これはいかなる場合においても、自らが死を求めてはいけないということです。自殺など論外であり、与えられた日々を、精一杯、生きることが人としての使命であることを訴えています。最後に、死は「避けず」という原則があります。いつか必ず、死は訪れるわけですから、最初からその時がくることを見越して、死に対して前向きに取り組むことが大事です。そして、実際に最期の時が訪れた際、「死」を避けようとする余り悲痛な思いになるのではなく、真っ向から見据えて、自らの魂を自然の摂理に委ねる位に心が座っていることが大切でしょう。

死に立ち向かって生きることの難しさ

このように、生きることと、死ぬことの意味をきちんと考えて心の準備を常にしておくだけでなく、自分自身の命を大切にし、体をケアーして、少なくとも自ら寿命を短くするような言動を慎むことは、人生の鉄則と言えます。ところがこれがどちらも難しいのです。例えば長生きしようと思えば、日々7時間の睡眠をとることが大切です。もし平均睡眠時間が4時間になった場合、死亡率が倍に増えることが統計で発表されています。ところがこの原稿を書いている今、時計を見ると朝の5時半です。既に締め切りが過ぎてしまっているので、やるしかない!と、睡魔と闘いながら執筆を続けているのですが、これは自分で自分の命を縮めていることに他なりません。

このような愚行は枚挙に暇がなく、日々が反省の連続です。やりたいことが人生に残されていて、まだ死ねない、と自分に言い聞かせているのですから、ライフスタイルを改善し、自己のストレスレベルを管理できないようでは、生きること、死ぬことを真剣に考えてきたという証にもなりません。死を迎えてからでは遅いのですから、今から人生の終点である死を見据え、それを恐れることなく、むしろ辿り着くべき人生のゴールと理解して、意気揚々と長寿をまっとうしたいものです。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部