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古代日本と邪馬台国の地勢観 Part.IV
列島の指標を結ぶ線上に見出された重要拠点

前七世紀初頭、国家の崩壊という危機に直面し、故郷イスラエルの地を離れて東方へと旅したイザヤを中心とする先陣部隊は、アジア大陸を海岸沿いに航海し、その東の果てから台湾へ向かったと考えられます。「東の島々」を求めて長旅を続けてきた民だけに、台湾から先に浮かぶ琉球諸島を目にした時、目的とする島々の一端に到達したことを喜んだに違いありません。それ故、琉球諸島にて最初に上陸した島は、海から陸地に吐き出されて命拾いした旧約聖書ヨナ書の記述に基づき与那国島と命名され、一連の島々はいつしか八重山列島、つまり「神の山が連なる島々」という意味を持つ言葉で呼ばれるようになったと推測されます。

八重山列島のある琉球諸島は、大陸から台湾経由で航海してくる民にとって「東の島々」の玄関であり、その中心的な存在が沖縄本島でした。琉球諸島の中でもひときわ大きく、温暖な気候と豊かな農産物に恵まれ、平野部が広がる沖縄本島は、住み心地の良さという視点からは正に楽園として目に映ったことでしょう。次第に島の南側、平野部を中心に古代集落が築かれ始め、その拠点はヘブライ語で休息を意味する「ナハ」と呼ばれるようになったのです。

しかしながら、多くの渡来者にとって沖縄は、あくまで一時の安息の場でしかありませんでした。なぜならば、イスラエルの使命は新天地にて神の都と聖所を造営することであり、その場所は緯度、地形、周辺の環境等、総合的な判断から、琉球ではないことが分かっていたからです。それ故、イスラエルからの渡来者は都を再建するためにふさわしい土地を見出す為、琉球諸島の先にも続く「東の島々」を巡り回り、地勢を検証する必要性に迫られていました。そして神の命と導きに従うことを重んじた民は、琉球の優しい生活環境に甘んじることなく、未知の島々を探索する任務を背負って再び旅立つことになります。

使命感に燃えた男性の一行が、未知の島々に向けて旅立つということは、多くの女性や子供、老人が琉球、沖縄本島に残されることを意味していました。こうして沖縄はイスラエル移民にとって、「東の島々」の玄関となる一大拠点として位置づけられるも、そこに残された女性らに島の管理が委ねられ、祭祀活動も含めて女性が多くの行事を司るという異色の文化が古代から形成されたのです。そして命をかけて沖縄を離れた者たちの多くは、行く先々で使命を全うし、家族の元に戻ってくることはなかったのです。彼らの帰りをひたすら待ち望む思いは、沖縄の久高島で12年ごとに催されてきたイザイホーと呼ばれる祭りからも垣間見ることができます。

古代の指標となる淡路島の存在

日本の標準時を定める子午線は東経135度であり、その線は兵庫県明石から淡路島の北淡を通ることからしても、淡路島がほぼ、日本の中央に位置していることがわかります。また、地勢学的にも淡路島は重要な位置づけを持っています。昨今の東京大学及び防災科学技術研究所の発表によると、巨大地震をもたらすフィリピン海プレートは、紀伊半島の西端から淡路島中心を通って鳥取市に抜けている可能性が高いことが報告されています。その裂け目は地下70キロメートルにも達し、その結果、地下プレートの西側、中国・四国地方の下には複数のプレートが存在し、それぞれが下から支えられているのに対して、近畿地方はプレートが深く沈んでいることから、支えが存在しない状態になっていることがわかりました。つまり、今日の地勢学的見解としては、淡路島の中心部を境目として、四国側は強い地震がおきてもおよそ安泰であるのに対し、東側の近畿地方と周辺地域は地中の支えが欠乏していることから活断層が多く、海溝型巨大地震を引きおこす原因となることが指摘されたのです。淡路島は単に日本列島の中心に位置するだけでなく、地勢学的に見ても、重要な分岐点に位置していたのです。

淡路島は古代社会においても、大切な指標が存在する島として認知されていました。6800余りの島々から成る日本列島の中でも淡路島は近畿地方の曲がり角に位置し、瀬戸内海の島々の中でも東方の最後に浮かぶ大きな島です。また、四国とも隣接することから、島々の中心的な指標とするには理想の位置づけにあったと言えます。その淡路島に、いつしか古代の民が到来し、その中心に聳え立つ巨大な自然石が注目されました。そして神籬石とも呼ばれたその巨石は、列島の中心的な指標として認知されるようになり、そこから夏至の日の出、およそ30度の方角にある水源の豊かな諏訪湖の南側周辺には、縄文時代前期から大きな集落が造られ、今日、阿久遺跡と呼ばれています。その後、近郊に聳え立つ日本の最高峰、富士山の周辺にも集落は広がりをみせます。今からおよそ5000年から6500年前もの大昔、既に日本列島では渡来人により集落が築かれ始めていただけでなく、それら集落の存在を淡路島と紐づけることができる不思議に、歴史のロマンを感じないではいられません。

その淡路島が古事記や日本書紀では、日本国家の起源となる国生み神話という大舞台で、島々の一番手として登場します。それは、国生みと呼ばれる島探しに直接関わったイスラエルからの一行が、古くから語り伝えられてきた淡路島と神籬石の指標の存在にいち早く注目し、淡路島を列島の中心として認識した上で、そこを基点として島々を巡り回ったからではないでしょうか。それ故、まず淡路島を目指して航海し、そこから島々の検証を開始したと考えられるのです。それ故、国生みの歴史は淡路島から始まったという古事記や日本書紀の記述は、あながち、間違いではなかったのです。そして新しい国家の建造を目指したイスラエルの一行は、淡路島の神籬石を中心的な指標として、各地を地理的に紐づけながら、驚異の精度をもって新たなる拠点を列島各地に見出していくことになります。

古代日本列島の指標線と邪馬台国の位置

沖縄と八戸を結ぶ南北の基準線

前七世紀、淡路島に到来したイスラエルからの調査団は、淡路島の神籬石の存在だけでなく、阿久遺跡と呼ばれる諏訪湖近郊の古代集落や、列島の北の端、十和田湖周辺に存在した複数の集落についても、数々の伝承から理解していたことでしょう。それらの情報を参考に一行はまず、「東の島々」の全体像を捉えながら、内陸に足を入れる為に舟を着岸させる港の場所を確定することが不可欠でした。それ故、目印となる大きな山や湖、岬などに注視し、手持ちの指標となるデータと紐づけながら港の候補地を選別したのです。

その結果、本州北端の拠点となる港の候補地として、まず、八戸が特定されました。沖縄の那覇から2000キロメートル以上も離れている八戸は、沖縄の那覇と淡路島の神籬石とを結ぶ直線上に存在します。よって、その線が三陸の海岸線と交差する場所が港の候補地として選別され、後の八戸港になったと考えられます。周辺の海域は、黒潮と親潮がぶつかる絶好の漁撈地でもあり、港町としては最適の環境を有していました。そしていつしか、琉球の八重山列島や八重島に相対する最北端の港として、同様に神の名前を意味するヤーウェーと命名され、そこに「八戸」という漢字が当てられ、後に「はちのへ」と読まれるようになったのではないでしょうか。また、青森周辺にはイスラエルの渡来者が前七世紀に到達する以前より、古代集落が形成されていたことが環状列石の存在からも知られ、その歴史は少なくとも縄文時代まで遡ることから、八戸に港が発展することはごく自然の成り行きでもあり、その港の候補地をピンポイントでイスラエルの識者が見出したとも考えられます。

いずれにしても、那覇と八戸という南北に遠く離れた古代集落の拠点を、淡路島を中心点として一直線に結びつけることができることは、これらの集落の場所が古代、意図的に選別され、それらを紐づけることが意識された結果と言えるでしょう。そして沖縄の那覇から淡路島、八戸を結ぶ直線こそ、古代日本列島の地勢を理解する上で重要な基準線となるのです。日本列島における集落や港等の拠点の多くは、このような相互関係による地理的な繋がりから発展することが多いと考えられます。それ故、指標となる地点や、拠点の位置関係を正しく把握することにより、古代日本の地勢観が見えてくるだけでなく、例えば邪馬台国の比定地さえも、何故その地域が選別されたのか、その根拠を理解することができるようになります。

エルサレムへの想いがこめられた甑島

甑大明神
甑大明神
淡路島の神籬石の他にも、もう一つ、中心的な指標の役割を果たしたのが、イスラエルの渡来者にとって、故郷エルサレムと同じ緯度に存在する離島です。那覇から舟で北上してきたイスラエルの民が南西諸島沿いに黒潮にのって北上した際、注目したのが故郷の首都、エルサレムの北緯31度47分という緯度線でした。その線上に存在する島が、鹿児島県の中甑島です。甑島は上甑、中甑、下甑と呼ばれる3つの島に分かれ、中甑島の南側にはヒラバイ山と呼ばれる標高156メートルの小さな山があります。ヒラバイ山の緯度は31度46分であり、エルサレムとほぼ同じ緯度です。それ故、中甑島は海原を旅する古代の民の貴重な指標として、いち早く認知されたのです。そして島の南方、海岸沿いの山はイスラエル人を意味する「ヘブライ」という名称で呼ばれるようになるも、長い年月を経て読みが訛り、やがて「ヘブライ」が「ヒラバイ」と発音され、ヒラバイ山という名前に転化したと考えられます。

海の要塞 甑大明神の全体像
海の要塞 甑大明神の全体像
甑島は「コシキ」と読みますが、その名前は続日本紀にも登場し、遅くとも八世紀には「甑」という名前が南九州では使われていたことがわかります。その言葉の意味は米などを蒸すために用いられる、せいろの形に類似した甑形と呼ばれる土器です。その甑形にも見える磐座が島に存在し、甑大明神として地元住民から崇められていたことから、甑島と名前がつけられたと地元では語り継がれています。

海岸から見上げた甑大明神
海岸から見上げた甑大明神
ところが、実際に甑大明神を検証すると、それは念入りに削られて造られた巨大な磐座の傑作のようです。大明神と呼ばれる磐座の真下、海水に浸かる海辺には、何百、何千とも言える無数の岩石がころがっており、そこには岩を割る為の矢を打ちこんだと思われる跡が無数に見られます。つまり甑大明神とは人工の作品であり、天然の産物ではなかったのです。イスラエルの要塞、マサダを彷彿させる雄姿を持つこの磐座は、正面が沖縄の方向に面し、あたかも南方から渡航してくる同胞を迎える為の指標として創作された感があります。甑大明神とはおそらく、ヒラバイ山の標高が低く、目印としての指標に欠けることから、その場所を明確に指標化するために造られた、古代イスラエルの芸術作品だった可能性を否定できません。

正面から見た甑大明神の御姿
正面から見た甑大明神の御姿
しかしながら、なぜ、蒸すために用いられた土器の形が「コシキ」と呼ばれるようになったのか、その語源はこれまで不明のままでした。「コシキ」という言葉は実は、ヘブライ語に由来していたのです。甑は鉢形の器の底に小さい穴が複数開けられた土器であり、湯釜の上に乗せることにより、それらの穴から熱い湯気が通り、その蒸気をもって器の中の穀物を蒸す為に使われました。この甑の役割は、ヘブライ語で「コシキ」と呼ばれる器と同一です。Khosekhet、コシキ(Khosekhet、コシキ)は節約、もしくは節約装置を意味し、具体的には、熱い煙がでる場所に水管を通し、煙の熱で水を加熱するような仕組みを指していました。これは、甑における加温の考え方とほぼ同一です。すなわち、蒸気や煙等の外部熱で器を熱することを指していたのです。「コシキ」の仕組みは古くから伝承され、蒸気熱で加熱する器も、煙で過熱する管と同様に「コシキ」と呼ばれるようになりました。その器が島で用いられ、また、甑の形状にも見える磐座が崇められていたことから、島の名前も「コシキジマ」と呼ばれるようになったのでしょう。

帽子山展望台から見るヒラバイ山
帽子山展望台から見るヒラバイ山
このヒラバイ山が「東の島々」の重要な指標となっていたことは、そこから淡路島の神籬石に向かって線引きをすると、すぐにわかります。その線上の北方には諏訪湖に隣接する守屋山があり、諏訪大社の御神体という噂が絶えない聖山です。そして山麓近くには古代集落として名高い阿久遺跡が広がっています。つまり、ヒラバイ山と神籬石を結びつける一直線上にある山を、古代の民はアブラハムが一人子、イサクを神の命によって捧げることを決意したモリヤ山と同じ名称で呼び、その麓にイスラエル伝説が多々伝承される諏訪大社が造営されたのです。甑島の指標がピンポイントで神籬石と結び付き、諏訪大社の存在に繋がっていることに驚きを隠せません。

神籬石と富士山から見出された拠点

古代日本の指標線(淡路)古代日本の指標線(淡路)古代日本列島に到来した西アジアからの渡来者は、内陸への入り口となる港の場所を列島各地に特定して集落の拠点を設ける為に、淡路島の神籬石や、中甑島のヒラバイ山だけでなく、富士山や、淡路島から眺めることのできる最も標高の高い四国剣山、西日本で最高峰を誇る石鎚山、そして九州や四国の岬等も指標として用いました。そして短期間で神籬石から夏至、冬至の日の出、日の入りの方向に諏訪大社、出雲大社、花窟神社、そして高千穂神社と呼ばれる聖地の拠点を特定しただけでなく、それらを新たなる指標として、鹿島、宇佐、海部、宗像の鐘﨑港など、海沿いの港となる拠点も見出されることになります。これらの拠点港が特定された地勢の根拠を検証してみましょう。

まず、ヒラバイ山と富士山の指標を結ぶ線上から、本州東沿岸に鹿島の港が特定されました。古代の海岸線の姿は今日とは大きく異なり、鹿島周辺の海岸線も例にもれず、古代では内陸方向にかなり入り組んでいたと考えられます。それでも鹿島の存在意義は変わらず、ヒラバイ山に紐づけられる線が突き当たる本州の東沿岸周辺には、古くから港が存在し、鹿島神宮も港のそばに造営されたのです。ヒラバイ山と富士山、鹿島を結ぶカシマ線上には、後世において空海が本拠地とした高野山の存在も浮かびあがり、注目に値します。

次に、その鹿島を指標として同緯度の北緯35度59分を西に向かうと諏訪湖のほとりに達し、ヒラバイ山と岩上神社の神籬石を結ぶモリヤ線と、諏訪湖畔の南、守屋山の麓で交差します。モリヤ線は淡路島の神籬石から夏至の日の出の方向、およそ30度の方角にある阿久遺跡を指す線ともほぼ重なります。そして、モリヤ線は守屋山の山頂を越えて諏訪大社前宮本殿をピタリと指しています。これは偶然の一致とは言い難く、古代から阿久遺跡、そして後の諏訪大社も含め、それらがヒラバイ山と淡路島の神籬石を結ぶモリヤ線、更には富士山や鹿島を結ぶカシマ線とも地理的なつながりを持つことが、あらかじめ目論まれていたからに他なりません。イスラエルの首都、エルサレムの思いが込められたヒラバイ山を原点とする線上に存在するこれらの指標を元に、諏訪大社や鹿島神宮の位置が決定づけられているだけでなく、諏訪大社は、これら3つの線上における全ての拠点に結びつく力の象徴であるだけに、それが今日でも著名なパワースポットの一つとして知られている所以です。

諏訪大社前宮本殿から守屋山頂上へ向かう山道の途中には人の手が入った多くの磐座が存在し、守屋山は岩の博物館とも囁かれる程です。駐日イスラエル大使ら多くのユダヤ人が今日でも参拝する諏訪大社の背景には、多くのイスラエル系渡来者がその場所を聖地として大切にしてきた歴史があります。イスラエルの民にとって諏訪大社の御神体として噂が絶えない守屋山の存在は極めて重要であり、旧約聖書アブラハムの時代を彷彿させる名山と同一の名称であることからしても、多くの思い入れと共に、古くから祭祀活動の重要拠点であったことを知ることができます。

富士山を指標として同緯度に拠点を見出す手法を用いた、もう一つの重要な事例が出雲です。古代より重要な指標として重宝された富士山の頂上から北緯35度23分を西に向かい、日本海の沿岸でつき当たる場所が港として選別され、同緯度上の内陸側に出雲大社が造営されたのです。こうして、富士山に由来する地の力を備えた日本海側の最重要港として、出雲は古くから栄えました。その同緯度線上に出雲大社は造営されることとなりますが、神社と淡路島の神籬石を結ぶと、その角度は約29度9分となり、夏至の日の入りの角度とほぼ一致します。出雲大社は富士山だけでなく、神籬石とも地理的に結びついていたのです。

また、伊弉諾神宮の奥宮である神籬石から冬至の日の出方向、およそ28度24分の線上には花窟神社の巨石が存在し、古代から祀られていたことにも注目です。伊弉冊尊が灼かれて亡くなった後に葬られた御陵として知られる花の窟神社が、海岸沿いの磐座と共に、淡路島の神籬石に紐づく場所として聖地化されたのです。記紀には伊弉冉尊が紀伊国熊野の有馬村に埋葬されたと伝えられ、人々が伊弉冉尊を祀り、その場所が「花を供えて祀った岩屋」であったことから、花窟神社と呼ばれるようになったようです。こうして国生み神話に直接関わる伊弉冉尊を祀る場所として、海岸沿いの巨大な磐座に造営された花窟神社も神籬石と結びつき、必然的に伊弉諾神宮とも紐づけられていたのです。

今日、伊弉諾神宮が公表する「陽の道しるべ線」では、冬至の日の出方向に熊野那智大社が建立されたということになっていますが、その方向に在るのは実は、伊弉冉尊が手厚く祀られた花窟神社であり、その巨大な磐座が、歴史の重みと真実を今日も、私たちに語りかけています。

岬から特定された聖なる宮の場所

淡路島の神籬石からは数々の拠点が見出され、特に日の出、日の入りの方向に見出された聖地は、それぞれが新たなる指標となり、次の拠点を見出す手掛かりとなりました。その神籬石から見て、冬至の日の入りの方向となる九州にも拠点が見出されたことに注目です。その線上に聖なる場所を特定するための指標として用いられたのが、四国最南端、北緯32度43分にある足摺岬です。南西方向から舟で黒潮に乗って北上してくる旅人にとって、四国土佐湾に突き出て見えてくる足摺岬は、遠方からも確認できる絶好の指標でした。その足摺岬の先端と同緯度であり、しかも神籬石より南西29度28分、冬至の日が沈む方角を指す線が交差する場所に、高千穂神社があります。更にそのすぐ南側、700メートル程先には、美しい高千穂峡の大自然が広がります。高千穂神社と神籬石を結ぶ線上には天岩戸神社も建立されていることからしても、これらの聖地が神籬石と結びつけられていることがわかります。

足摺岬は高千穂の指標となっただけでなく、太平洋岸沿いを本州方面に渡航する際の重要な基点ともなりました。洋上を航海する上で、大きな岬ほどわかりやすい目印はなく、足摺岬とその東に見える室戸岬を結ぶ線は特に重要視されました。そして、二つの岬の先端を結ぶ直線の上にも、新たなる拠点が見出されることになります。その直線が紀伊半島の西側、和歌山県日高郡みなべ町の海岸沿いに当たる個所では古代未明より鹿島神社が存在します。直線の遠方は鹿島灘にあたり、海岸の近隣には鹿島神宮の地があることから、関連性を否定できません。いずれにしても、二つの岬を結ぶ線上を熊野灘方面に向かって進むと、志摩市の北、的矢湾奥の伊雑ノ浦の西側から2キロメートル程、北上した個所した場所を通り抜けます。そこは伊雑ノ浦へ流れる川がのどかな光景を演出する穏やかな地であり、ちょうどその一角に、天照大神の遙宮(とおのみや)と呼ばれる伊雑宮があります。

伊勢神宮の奥の宮とも呼ばれる伊雑宮は歴史が古く、伊勢神宮の紋である六芒星が最初に発祥した地とも言われています。この伊雑宮の名前の語源は、伊雑が「イザワ」と発音されることからしても、イスラエルから渡来した預言者イザヤである可能性が高いと考えられます。それ故、宮の名前も「イザヤの宮」が訛って「イザワの宮」と呼ばれるようになったと推測されます。また、伊雑宮は足摺岬と室戸岬を結ぶ線上だけでなく、九州鹿児島の最南端、佐多岬と富士山の頂上の南側を結ぶ線上でもあります。つまり伊雑宮は、列島の地勢を活かしてピンポイントで見出すことのできる聖地であるだけでなく、列島最大の霊山、富士山とも紐づけられていたのです。こうして古代、伊勢神宮の前身となる伊雑宮の地は列島の地勢に育まれながら聖地化し、そこに由緒ある宮が造営されたのです。

伊弉諾尊の想いは伊雑宮の造営だけにとどまらず、大陸に向けて列島の西側の端にも、伊雑宮と同様に聖なる宮を建立すべく、聖地を厳選したことでしょう。そこで伊雑宮に相対する列島の西側で、伊雑宮と全く同緯度の北緯34度22分45秒上にある対馬の仁井が、最西端の地として特定されたのです。リアス式海岸に囲まれた浅茅湾の入り江の最も深い位置となる仁井は、伊雑ノ浦と同様に波も穏やかで、美しい自然に囲まれていました。そこに和多都美神社が造営されるはこびとなったのです。どちらの宮の場所も入江の奥という美しい自然の環境に恵まれ、「東の島々」を網羅して聖なる拠点を定めることを天命とした伊弉諾尊にとって、これら東西の端に選別された聖地は、正に理想郷として目に映ったことでしょう。そして宇佐神宮と和多都美神社を結ぶ線上の北九州沿岸には鐘崎港が発展し、宇佐神宮から夏至の太陽が沈む方向には和多都美を奥の宮とする海神神社が建立され、大陸からの渡来者を受け入れる玄関となったのです。こうして、神籬石を中心に東西を走る線のすぐ南側、ほぼ並行線上の東端には伊雑宮が、そして西端には和多都美神社が、歴史に名を残すこととなります。

富士山と剣山を指標とした拠点

対馬の和多都美神社に続き、指標となる富士山から九州の東海岸でも聖地が特定され、宇佐神宮の場所も見出されました。富士山の頂点と淡路島の神籬石を直線で結ぶと、大分の宇佐神宮の場所にピタリと当たることから、宇佐神宮の場所は、富士山と神籬石に紐づけられていたことがわかります。宇佐神宮が聖地化すると同時に、いつしか対馬の和多都美神社と宇佐神宮を結ぶ線上の北九州沿岸には、鐘崎港が発展していました。そして、宇佐神宮から鐘崎港の方を指す夏至の日の入りの方向には、対馬の西海岸沿い、保利山の麓に当たる個所に海神神社の存在が浮かびあがります。和多都美神社の北、およそ9.7キロの位置に建立された海神神社は仁井の和多都美神社の論社として同様にワタヅミと読まれ、東の島々の西の玄関として貴重な存在となり、後に「陽の道しるべ」のライン上に存在する西の玄関としても知られるようになります。こうして宇佐神宮との日の出、日の入りの線に連なる鐘崎港、及び海神神社は、和多都美神社や、更に東方遠くには神籬石や富士山、伊雑宮など多くの聖地と紐づき、必然的に古代、海人一族の貴重な本拠地として発展を遂げることになります。

また、淡路島から眺めることができるだけでなく、西日本で石鎚山に次いで二番目に標高の高い剣山も聖山として、古代社会では富士山と同様に極めて重要な指標となりました。出雲大社の地は、富士山と同緯度上の拠点として早くから認知されていましたが、その出雲の地も、そこから南西方向に聳え立つ剣山と結び付く指標として用いられ、その直線上の先には四国徳島の沿岸に、次の拠点となる港が見出されたのです。その港町が、古代から発展を遂げた海部です。こうして遠い昔、南方から舟で旅をして四国沿岸を航海する際に、必ずしや寄港する貴重な港町として古くから栄えた海部の集落も、出雲と剣山に紐づけられて発展したのです。また、今日では海部郡海陽町と呼ばれる海部周辺は、剣山方面に四国東南側から登る際、川沿いの長い山道が始まる剣山への玄関口でもあったことから、その位置づけは古代より重要視されました。

この出雲と海部を結ぶ線をカイフ線と呼び、淡路神籬石と宇佐神宮を結ぶ線をウサ線と呼ぶこととしましょう。これら2つの線が四国香川県で交差する場所に、金刀比羅宮が建立されたのです。これは単なる偶然ではなく、古代の地勢観を元に、神籬石や、出雲、宇佐、剣山、そして海部等の指標が連なる線が交差する場所を、海を渡り巡る海人一族が貴重な拠点として、特に重要視したことの証と言えます。そしていつしかその場所で神々が祀られるようになり、海の安全を祈願する金刀比羅宮として、庶民から愛される宮となったのです。

また、宇佐神宮と剣山を結ぶ線からも、古代の重要港が更に2つ定められました。およそ東西を横切るその線上に、四国の東海岸には徳島の阿南、そして紀伊半島では三重の尾鷲が存在します。どちらも今日、地域の重要港として知られていますが、その歴史は古代まで遡っていたのです。南方より舟で訪れる民は、高知県の南岸を経由して、海部から阿南へと北上し、そこから淡路や近畿方面、もしくは瀬戸内海を西方へと航海を続けました。また、本州を東方に向かう際は紀伊半島を海岸沿いに巡り回り、和歌山のみなべ町、鹿島神社に寄港し、それから伊勢と熊野の中間に位置する地の利に恵まれた尾鷲の港に立ち寄り、その後、沿岸を北上して伊雑ノ浦に佇む伊雑宮に寄港して、神を参拝したことでしょう。

こうして富士山と剣山という2つの名山を基点として見出された列島の指標に繋がる古代の港は、海を渡る旅人の重要港として古くから発展を遂げたのです。そして、これらの指標や、それらに紐づけられた拠点は、列島の山々や岬、聖地の指標に連結する力の象徴となるべく、その周辺には著名な神社が建立されることも少なくありませんでした。かくして、日本列島の随所には短期間で多くの神社が建立されることとなったのです。

伊弉諾神宮と「陽の道しるべ線」

イザヤの一行を始めとするイスラエルからの渡来者にとって、淡路島が「東の島々」の中心として考えられていたことは、これまで確認できた複数の拠点を地図上において結び付けて見てみると、その実態が浮かびあがってくるようです。列島内の拠点を山や湖、岬等の地勢を指標と共に線引きしていくと、その中心に淡路島の神籬石が存在します。そして、それらの拠点同士を異なる角度で結び付けると、その延長線上には新たなる拠点が見えてくるのです。古代の民にとって自然の大地とは神からの賜物であっただけに、土地のロケーションそのものが極めて重要であり、場所同士が太陽の日の出、日の入りの線上に結びつくことや、同緯度上で繋がり、相互に紐づけられていること等が、重要視されていたのです。

さて、「東の島々」を渡り廻り、日本列島を自らの目で探索する責務を負った伊弉諾尊は、その中心となる淡路島を自らの拠り所とし、最期は淡路島にて生涯を全うしたと考えられます。日本書記に、伊弉諾尊は「幽宮を淡路の洲に構り」、そこに御隠れになったと記載されている通りです。また、古事記には、伊邪那岐大御神は「淡海の多賀に坐す」と書かれています。淡海の多賀を近江と解する説もありますが、淡路島を一貫して淡道と記載する日本書記に照らし合わすならば、淡路島の多賀と考えることが妥当でしょう。では、淡路島旧一宮町にある多賀の地をどのように伊弉諾尊が探し当て、後世ではそこに淡路国一宮として名声を博した伊弉諾神宮を建立するはこびとなったのでしょうか。

伊弉諾尊がその場所を選んだ理由は定かではありませんが、列島周辺に見出された多くの拠点と、地理的に結び付く中心的な存在となることを目論んだ可能性があります。また、アクセスが難しい山の中腹に在る岩上神社の神籬石とは一線を引き、庶民の誰もが神を参拝しやすい平野部に神社を建立することを求めた結果とも考えられます。そして神籬石のある岩上神社とは、それを奥宮として緊密な繋がりを保つことを前提とし、しかも古代最古の祭祀場の一つとして名高い守屋山麓の諏訪大社前宮本殿から見て、ちょうど冬至の太陽が沈む方角、28度30分の線が淡路島に当たる場所を厳選した可能性があります。その諏訪大社からの冬至の線は、淡路島の西海岸、播磨灘に面する多賀の浜と呼ばれる海岸に当たります。また、列島の最西端には既に宇佐神宮に紐づけられた聖地として、対馬の西海岸沿いに和多都美神社を元宮とする海神神社の地が定められ、大陸からの航海者を迎え入れる玄関港となっていました。そこで、諏訪大社に紐づけられた淡路島の多賀の浜沿岸の川の上流およそ1キロ少々内陸の地で、しかも海神神社と同緯度の線が交差する場所が、伊弉諾尊の神宮の場所として特定されたのです。そこは神籬石からも近く、夏至の日の出方向には諏訪大社が、そして日の入り方向には出雲大社が連なる絶妙の立地条件を兼ね備えていました。

更に、伊弉諾神宮の場所として選別されたその土地は、剣山と六甲山の磐座を結ぶ線とも交差する場所に位置していました。岩の博物館と呼ばれる守屋山と並び、六甲山の石宝殿をはじめとする多くの磐座も、重要な文化遺産として特筆すべきものがあります。六甲という名称の語源は定かではありませんが、古くは「ムコ」、六兒、とも呼ばれました。六芒星と呼ばれるダビデの星の形は正六角形であり、亀の甲羅形状をしていることからして、六甲という名称は、その語源がイスラエルに起因している可能性があります。その六甲山には北山巨石群と呼ばれる太陽石を中心とした環状列石や、火の用心石、方位石などが並び、正に巨石の宝庫です。これらの巨石の中には、明らかに人為的に加工した跡が見られるものが多いだけに、古代社会においては何らかの目的、もしくは指標となるべく、用いられた可能性があります。

それら六甲山の巨石を剣山と結びつけ、これらの磐座が並ぶ線上に、伊弉諾神宮の場所が置かれたという可能性もあります。確かに伊弉諾神宮の場所は、剣山の頂上と六甲山を結ぶ線の真上に存在するからです。すると伊弉諾神宮は、剣山、石鎚山、富士山や、ヒラバイ山という古代の聖山に紐づけられているだけでなく、剣山を介して出雲大社や金刀比羅神社、宇佐神宮、海神神社、及び、諏訪大社や周辺の守屋山、阿久遺跡とも地理的に紐づけられるという図式が見えてくるのです。日本列島を網羅するこれら聖地なる拠点の存在は極めて重要であり、それらを同一線上に結びつけることにより、相互間の力を結集する象徴として、国造りに大きく貢献したとも考えられます。こうして伊弉諾尊自身の幽宮の場所となった淡路島の伊弉諾神宮の地は、正に伊弉諾尊のライフワークの集大成の象徴となるに最もふさわしい場所となりました。

伊弉諾神宮は、諏訪大社からの冬至の日の入りの線と、海神神社と同緯度の線が交差する場所に特定されましたが、指標として用いられた神社同士を結ぶ線も重要視されたことから見出された神社の一例が天橋立です。海神神社はその名の通り、海の神を祀り、海上安全を祈願することを重要視した神社ですが、諏訪大社も同様に海の守り神と深く関わり、その水信仰により、港のそばには古代、随所にお諏訪様が祀られていました。そしてこれら2つの神社を結ぶ線が、天橋立の真横を通り抜けるのです。天橋立がある若狭湾の西側奥、宮津湾の北岸には籠神社が在ります。天橋立創造神話や、伊勢神宮の神々がこの地から移られたという話が伝承され、元伊勢としても著名な籠神社の背景には、丹後国の海部宮司家による由緒ある歴史があります。よって、お伊勢様と呼ばれる伊勢神宮が、この籠神社と歴史的に、そして地理的に繋がりを保ちながら見出されたと考えられるのです。

籠神社では豊受大神、天照大神、海神が祀られているだけでなく、「丹後国式社證実考」によると伊弉諾尊が祭神として記載されています。つまり、籠神社は国生みの一環として伊弉諾尊が創設に深く関わり、海の神とも結びついていたのです。また、籠神社の奥宮は天真名井神社であり、後述する伊勢神宮と同様に、ダビデの星とも呼ばれる六芒星が神紋となっていました。伊弉諾尊の出自がイスラエルとするならば、元伊勢に関わる神紋が六芒星であっても自然な流れと考えられます。その籠神社の前身でもある真名井神社に神代、天照大神、豊受大神が降臨され、それから籠神社、伊勢の伊雑宮、そして今の伊勢神宮の地に移られたことから、籠神社は元伊勢と呼ばれるようになりました。

実は、籠神社を元伊勢として、伊勢皇大神宮の場所を特定する方法が存在したのです。既に伊弉諾神宮の場所が淡路島に特定され、また、その前提として日本列島の西の端には海神神社の場所が選ばれていたとするならば、海神神社と諏訪大社を結ぶ線上に、籠神社が存在することに注目です。つまり海神神社は列島西の頂点として、籠神社と伊弉諾神宮を結びつける役割を果たせる場所に位置していたのです。よって、海神神社を拠点として、同緯度上に引かれた線上の東の端に、伊勢皇大神宮の地を選別することは、籠神社に紐づけられた土地となることを意味していました。そして伊雑宮が既に伊勢の南、志摩の地に特定されていたことから、その場所を元宮としてそこから伊勢に向けて通りぬける線上に、伊勢皇大神宮の場所が求められたのです。その結果、海神神社と伊弉諾神宮を結ぶ線上で、しかも、夏至の日の出を富士山頂の方向に見ることができる場所が特定されたと考えられます。

伊勢皇大神宮が、淡路島の神籬石と共に、日本列島において見出された諸々の聖地、拠点と紐づく中心的な存在であることは、今日でも地図を検証すれば一目でわかります。伊勢皇大神宮の場所として厳選された聖地は、富士山だけでなく、伊弉諾神宮を介して剣山、石鎚山、六甲山や諏訪大社の守屋山にも結び付いていたのです。そして海神神社、和多都美神社、宇佐神宮、諏訪大社や鹿島神宮など、多くの聖地と関連し、元伊勢である籠神社とも、きちんとした地理的な繋がりが存在していたのです。富士山頂から登る夏至の日の出を拝する地の利に恵まれ、国家の特別な聖地として位置づけられた伊勢皇大神宮は、こうして「陽の道しるべ線」上に並ぶ日本列島屈指の聖なる宮として、いつの日も国民の篤い信望を集めることとなりました。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部