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大八島国の領域とイスラエルの関係
北海道、東北と南西諸島が国生みから外れた真相

日本最古の正史である古事記は、高天原から天下る神々によって見出される島々の国生みから始まります。日本列島は7千近くもの島々から成り立っていますが、古代の民はその中から国生みを代表する主たる島々を8つ特定し、この国を大八島国と呼びました。古事記の記述によると、その後、更に6つの島々が選別され、大八島国と合わせた14島をもって日本の歴史が始まる礎となる国土とし、国生みは完結したのです。日本書紀にも同様に、大八洲国と呼ばれる8島が選別され、歴史が動き始めたことが記載されています。大八島(大八洲)の内容について記紀には若干の相違点が見られるものの、日本列島の中で網羅されている地域は一緒であり、結果として、ほぼ同一の島々について語られていると考えてよいでしょう。

国生みについては、ごく一般的に神話と考えられがちです。しかし一旦視点を変えて、記紀の記述が史実に基づくものであるという前提で読み直すと、大陸の東に浮かぶ列島の中から、新しい国家の国土となる島々を古代の民が特定した歴史を編纂し、それを神話化した可能性が見えてくるのではないでしょうか。記紀には所々、現実離れしたような表現が用いられていることから、これまで史実としては受け止めにくいものでした。しかしながら国生みに記載されている島々は実存し、氏族の祖先として古事記に明記されている名称でさえも、その殆どの場所を今日でも確認できることは注視する必要があります。氏族の祖先を出身地まで辿り、詳細まで書き記している古事記の内容は単なる空想話とは思えず、むしろ実際に起きた史実を記録した上で、それを編纂していると考える方が自然です。そこで今一度、国生みに関わる記紀の記述を振り返り、島々や氏族の拠点となった国々の場所を地図上に落とし込みながら大八島国の領域を再確認した上で、歴史の真相に迫ることにします。

記紀が証する大八島国の領域

古事記によると、国生みの主人公として登場する伊弉諾尊と伊弉冉尊は、最初に淡路島、伊予之二名島(四国)、隠岐之三子島(隠岐諸島)、筑紫島(九州)、伊岐島(壱岐)、津島(対馬)、佐度島(佐渡島)、そして大倭豊秋津島(本州)の8島を生んだと記載されています。これらは先に見出された8島ということで、大八島国と呼ばれました。それから更に、吉備児島、小豆島、大島、女島、知訶島、両児島の6島が特定され、二柱の神が生んだ島は合わせて14島になりました。吉備児島は岡山県の児島半島、両児島は男女群島の男島・女島、また、知訶島については、古くは福江島を「おおぢか」、上五島の島を「こぢか」と呼んでいたことから五島列島であるというのが定説です。しかしながら、女島は国東半島沖の姫島とする説があるものの異論は多く、また、大島については山口県の屋代島という説もありますが、定かではありません。

日本書紀においても、大八島国と同等の大八洲国が国生みの島々として明記されていますが、島々が見出された順番が古事記の記述と異なるだけでなく、本文と複数の「あるふみ」に記載されている内容にも若干の相違が見られます。しかし以下の理由をもって、違いは些細なものと言えるでしょう。まず、大日本豊秋津洲は国生みの基点である淡路島に隣接し、目先に見えることから、それを淡路島の次に見出したとするか、もしくは日本海まで渡り、島全体の様相を確認した最後の時点で生んだとするかの違いと考えられます。

また、日本書紀本文では津島を含まず、億岐洲と佐土洲を双児の島として1つに数えることにより、新たに越洲と大洲、2つの島を追加しています。越洲は越前以東の北陸道を指していますが、何故、本州の一部である越洲が大八洲国の島の1つとして含まれたのでしょうか。大日本豊秋津洲は既に国生みの2番目の島として記載されていることからしても、同じ島の一部を取りざたして、再度、国生みのリストに列記することは、いささか不自然です。本州の一部である越洲が大倭豊秋津島と併記されるということは、後者も同じく本州の一部分を指していたことになります。つまり、大日本豊秋津洲とは本州全部を指すものではなく、本州の中でも越洲より南に位置する部分を指していたと考えられます。越洲の北方となる東北地方は本州の一部でありながら、大日本豊秋津洲と越洲、いずれにも含まれていなかったのです。

国生みの領域に実際に含まれた地域においては、直後から各地に氏族が住み着き、拠点となる集落が全国に広がりました。古事記にはそれら氏族の祖先となる神々について注記され、そこに記載されている国造の名称は、氏族を朝廷に組み込む際に与えられた称号であることから、神々の直系となる氏族が拠点とした地域を知ることができます。それらは出雲、武蔵、上総、下総、津島、遠江、河内、茨城、山代、陸奥、諏訪、大和等の国々であり、その基となる具体的な国名が古事記に記されています。これらの中でも最北端に位置するのが道後岐閉と記載されている陸奥です。常陸国風土記によると、「苦麻」と呼ばれた福島の大熊周辺は「苦麻」「道後」、そして「道の尻」と同一地域を指すことから、道尻岐閉、もしくは道後岐閉は福島県の太平洋側に存在したことがわかります。この地域と越洲、そして佐渡島が古事記の国生み神話に含まれる領域の最北端となります。

これらの国生みの対象となった大八島国をはじめ、記紀に記載されている殆どの島々を今日でも特定することができることは注目に値します。それらの島々と、国生みの直後から氏族が拠点とした地域をマッピングすると、何故か屋久島以南の南西諸島、及び、北海道という日本列島を代表する南北の大切な島々が含まれていないことに気が付きます。国生みの領域は、今日の福島県と鹿児島県の間に収まり、まるで無数に広がる日本の島々の中から、特定の緯度線の間に国土が選別したようにも見受けられるのです。もしかして、国土を選りすぐる為の緯度の基準が時前に定められ、日本列島の南北双方向に広がる東北地方と北海道、そして南西諸島が意図的に外され、国生みの対象となる島々は北陸道や福島界隈を北方の上限とし、九州の鹿児島を最南端とする緯度線の間のみに限定されていたとは考えられないでしょうか。その答えを、古代日本の歴史を作り上げたイスラエルからの渡来者の故郷、カナンの地理的要因から見出すことができます。

古事記が証する大八島国の領域
古事記が証する大八島国の領域
イスラエルの伝統的な行動範囲と同じ緯度間に位置する大八島国

古代イスラエル人の行動範囲

まず、イスラエルの歴史を簡単に振り返ってみましょう。出エジプトの時代、モーセに導かれてエジプトを脱出し、荒野の長旅を経てカナンへの移住を成し遂げたイスラエルの民は、当初、12部族が地中海沿いに広がる領土を分け合い、神が約束された地に定住しました。そしてダビデ王の時代では統一王国となり、ソロモン王の治世においては栄華を極めたのです。その後、国家は分裂して南北王国時代へと突入し、最終的に両国とも滅亡してしまいます。前7世紀、イスラエルの民は南北の王国を失った後、多くはアジア大陸各地へと離散し、中には日本列島へ渡来し、古代日本の礎を築き上げながら新しい国家の創設に多大な貢献をした民も存在しました。

これらの歴史的背景から、イスラエルの民は地中海に沿うカナンの地を中心として、長い年月の間、生活圏を拡大してきたことがわかります。また、カナンの地とは西側が地中海であり、東方と南方には荒野の砂漠が広がっていることから、イスラエルの民が長い歴史の中で移動することに慣れている行動範囲とは、海沿いを南北に移動するというルートに限られていたのです。そして国の最南端には、べエルシェバの町が存在しました。地図を見れば一目瞭然ですが、べエルシェバ南方の小高い山を越えた地点から砂漠が続くため、地中海沿いの地に人々が居住する集落を形成できる最南端の地点がベエルシェバだったのです。それ故、北緯31度14分に位置するこの町の存在は、南方の要として極めて重要な位置を占めています。そしてベエルシェバから北へ70kmほど向かうと、エルサレム神殿に辿り着くことができます。

イスラエルの北の国境は、カナンの時代から南北王国の時代に至るまで、レバノン山、そしてダマスコ周辺に位置していました。しかし南方のベエルシェバと違い、北の国境を越えてもダマスコから地中海沿いには緑地が更に400km以上も続くことから、古代の民の行動範囲は意外に広かったと考えられます。また、地中海沿岸を船で南北に移動することも多く、地中海の最北端に位置する港から東方へ250kmほど内陸に向けて移動すると、イスラエルの先祖であるアブラハムが長年滞在したハランの地へ到達します。ハランは地中海の最北端とほぼ同等の緯度に位置することから、古代イスラエルの民はハランの緯度線までの旅には慣れていたことでしょう。

ハランに広がる緑地の最北端は北緯37度12分です。また、イスラエル国家の南方の境目となるベエルシェバは、北緯31度14分の緯度線です。ハランとベエルシェバの地は、それぞれの町の緯度が地中海の南北の到達点とほぼ一致することからしても、重要視されたはずです。長年の歴史を経て、イスラエルの民は、その緯度間を民族特有の行動範囲として体得し、その地理的感覚は生活習慣の一部として自然と身に付いたことでしょう。そして、北はハラン、南はベエルシェバを境目として、この2つの緯度線の間において民族の歴史が作り上げられたのです。

カナンの地を中心とするイスラエルの行動範囲と国生みで見出された大八島国の領域と緯度の比定
カナンの地を中心とするイスラエルの行動範囲と
国生みで見出された大八島国の領域と緯度の比定

国生みの島々を特定する緯度の存在

古代のイスラエルからの渡来者は、国生みにおける島々を特定するにあたり、当然のことながら祖国で人々が居住した地域や、一般的な旅人の行動範囲の限界を示す緯度線を用いた可能性があります。そこで、前述したハランとベエルシェバを南北の境界として、その緯度線を日本列島に当てはめてみました。すると、南のベエルシェバを通る北緯31度14分の緯度線は鹿児島の最南端を通り、また、北のハランを通る北緯37度12分の緯度線は、能登半島から福島県を通り抜けます。この緯度線の間に国生みに登場する島々や古代の国々がぴたりと収まるのは、単なる偶然と言えるでしょうか。国土を特定する国生みを始める事前に、北の上限と南の下限となる緯度線を定め、そのルールに沿って島々や、国々の拠点が見出されたからこそ、故郷イスラエルの地における民の行動範囲と同じ緯度の位置に、日本の国土が特定されたのではないでしょうか。

北海道や東北、南西諸島が国生みに含まれていなかった理由が、イスラエル固有の地理と歴史的背景に隠されていました。古代イスラエルからの渡来者は、新しい神の国を東の島々に創生すべく、日本列島まで到来しました。そして伊弉諾尊に導かれた初代の宗教リーダーは、南西諸島方面から船で北上し、日本列島に連なる島々の中からイスラエルの民が旅慣れた行動範囲とすることができる、およそ北緯31度14分線から北緯37度12分線の間で、国生みを完結することを当初から目論んだと想定されます。その結果、国生みでは日本列島の南北端が省かれることになり、北海道や東北、そして沖縄を含む南西諸島さえも、古代の国生みのリストに名を連ねることはなかったのです。国生みの背景に、古代イスラエルの知恵が秘められていたことを、日本列島とイスラエル国の地理が証しています。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部