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熊野古道のレイライン Part.II
大陸に由来する熊野の神々から古来の信仰を学ぶ

大陸に由来する熊野の神々とは

これまで熊野本宮大社と熊野速玉大社の地理的な位置付けを中心に、「熊野のレイライン」がどのように線引きされ、古代の聖地が相互間の繋がりを持つようになったのか、その詳細について解説をしてきました。伊弉冉尊が葬られた比婆山と大斎原(熊野本宮大社)を結ぶ線が、熊野速玉大社に直結することから、レイライン上の関連性は明らかであり、2つの熊野大社が実際に伊弉諾尊を共通のモチーフとしていることからも、深い関係にあることがわかります。

熊野信仰の普及は平安中期にあたる907年、宇多上皇(在位887-897年)の熊野御幸より始まり、貴族の中で流行するにつれて白河上皇(在位1073-1087年)や鳥羽上皇(在位1103-1123年)の時代にピークを迎え、鎌倉時代の中期まで続きます。これらの上皇は、いずれも譲位後に熊野御幸を行っています。また、白河上皇は伊勢平氏の武将として名高い平正盛(平忠盛の父)を伊勢から招集し、検非違使として諸国の賊を討伐させ、多くの手柄をたてた正盛を貴族と同様に優遇しました。その後、武家勢力の増勢を背景に平家は台頭し、源氏と平家が対立する主原因となった皇位継承問題が複雑化する最中、平清盛の時代には平家が栄華を極めたのです。その清盛自身も熊野権現を詣でるため、伊勢よりたびたび熊野へ出向いたことで知られ、平家の繁栄の背後には、熊野権現の御利生があったと噂された程でした。

熊野大社に纏わる神々の出自については、前述した通り、平安時代の末期に編纂された「長寛勘文」に含まれる「熊野権現御垂迹縁起」に綴られています。そこには神武天皇の時代、唐の霊山より王子信が、高さ三尺六寸の八角の水晶の形をもって九州の英彦山に天下ったと書かれています。「八角の水晶の形」が意味することを理解することは困難ですが、「彦山開山伝説」には摩訶陀国にいた権現が中国天台山から海を渡り、英彦山にて八角三尺六寸の水晶石を御神体として祀ったことが書かれていることから、「熊野権現御垂迹縁起」の内容も同様に解釈することができます。その後、熊野権現は伊予国の石鎚山、淡路国の諭鶴羽山を経て、熊野新宮に隣接する神倉峯に降臨しました。そして新宮の東方にある阿須加の社に近い石淵の谷にて初めて結玉家津美御子という名が証され、二字の社と呼ばれるようになったのです。これらの記述から、後世において伊弉諾尊、伊弉冉尊とも解される熊野大神、熊野権現とは、実は大陸からの渡来者であったという可能性を見出すことができます。

「熊野権現御垂迹縁起」は、インドの摩訶陀国に関連する逸話を元に書かれています。その中で、女御の出産を妬む妃たちによる殺害事件を発端とする事件が、熊野権現のルーツに絡んでいるのです。女御を亡くした摩訶陀国王は、その後、7歳になる我が子に再会します。そして上人と共に金の車に乗って5本の剣を投げ、旅の行き先が日本であることを知ります。5本の剣の内、第1の剣は紀伊国の神倉に、第2は豊前国の英彦山に、第3は陸奥国の中宮山に、第4は淡路国の和(遊鶴羽峰)に、残る1本は伯耆の大山に落ちたのです。目指す地が東の島々であったことから、一行は中天竺(インド)の摩訶陀国から中国の天台山を経由して日本列島に渡り、紀伊国の神倉に向けて旅をしたのです。

これらの縁起書や逸話の内容から、熊野権現を大陸系の外来の神と断定し、高天原から天下る伊弉諾尊、伊弉冉尊等、日本古来の神々とは別系統とした上で、後世においてそれぞれが擬せられて同一視されるようになったという説も生まれました。しかし、これまで解説してきた通り、高天原の神々とは西アジアよりインドの沿岸を経由し、海を渡って日本列島まで到来した大陸系の民族であった可能性が高いのです。古代、列島まで辿り着いた先駆者のひたむきな貢献により、日本の有史が始まったと考えるならば、熊野の神々が大陸系であるという理由を元に、一概に異質であると断定はできません。古代の神々の姿が、日本の島々を行き来する海人文化を反映していると考えられる理由も、大陸から船で到来した民が列島を行き来きし、必然的に船が多用されたという史実があったからに他なりません。

大陸から古代の神々が到来したことを前提とするならば、例えば、熊野の神とはスサノオ、もしくはスサノオの子孫であり、インドや中国を経由して海を渡ってきたイスラエル系の渡来者であると考えることも可能です。イスラエル北王国が崩壊した前722年から、南ユダ王国が崩壊する前588年を節目に、多くのイスラエル系の民がアジア大陸を東方に移動したと推測され、その時期は、伊弉諾尊、伊弉冉尊による日本列島の探索、すなわち国生みの時代と重なっているからです。建国の始まりとなる神武天皇の即位を前660年と仮定するならば、皇紀の始まりと、その前哨となる伊弉諾尊らによる国生みの働きは、正にイスラエル国家が崩壊する時代と一致します。また、唐の霊山より王子信が彦根山に天下り、その後、長い年月を経て甲寅の年、神武43年に熊野権現が現れたという由緒の記述も、神々がアジア大陸の西方、インドの方面から渡来してきたことを証しています。

しかしながら、「熊野権現御垂迹縁起」に記載されている王子信とは、唐の徐霊府が書いた「天台山記」によると、周の霊王(前572から前545年)の子の1人であり、神武43年よりも1世紀弱、時代を後にします。また、「熊野年代記」によると、熊野速玉大社の起源となる神倉山に熊野の神が垂迹したのは前531年と記載されています。これらの年代は検証する術もなく、「天台山記」の王子信が、縁起書に記載されている人物と同一かも定かではありません。中には熊野三所権現の前世を想定するなど諸説がありますが、詳細は不明です。よって、細かい年代の整合性には注視しながらも、記紀に登場する神々が、熊野の神々と同じ大陸からの渡来者である可能性があることを考慮した上で、およその歴史の流れを掴みながら、熊野の歩みを振り返ることが重要です。

熊野那智大社が異質と言われる所以

熊野三山とは、その名前のごとく3つの大社により構成され、それぞれが御祭神を共有し、歴史の深い絆によって結び付いています。ところが、その1つである熊野那智大社は、なぜかしら熊野本宮大社を基点とするレイラインのいずれにも含まれていません。レイライン上の結び付きが無いということは、例え、熊野三山の1社とはいえ、熊野那智大社の歴史的背景や由緒が、熊野本宮大社や熊野速玉大社のものとは別格であり、異なるルーツに起因していた可能性を示唆しています。

神武天皇が神として祀ったと伝承される那智の滝
神武天皇が神として祀ったと伝承される那智の滝
熊野那智大社は、落差において日本一を誇る那智の滝に隣接します。133mも直下する見事な大自然の光景を誇る那智の滝は、天から降り注ぐ命の水として、神武天皇の時代から滝そのものが神格化され、神として崇められるようになりました。そして、いつしか国造りの神である大己貴命や夫須美神も祀られるようになり、神武天皇を導いた八咫烏も崇拝されるようになったのです。その後、4世紀、仁徳天皇の時代には現在の社地に拝殿が建立され、平安時代以降では観音信仰を主体とする神仏一体の理念に基づく聖地として、徐々に大衆の信望を集めていくことになります。
  熊野那智大社が熊野三山の中で特異な存在であることは、縁起書からも理解することができます。熊野三山にて祀られている神々は熊野権現と呼ばれ、熊野本宮大社の主祭神は家津御子、熊野速玉大社は熊野速玉男神、そして熊野那智大社は夫須美神です。熊野三山ではこれらの3神が一緒に祀られ、その他にも多くの神々が祀られています。しかしながら、熊野の神々の由縁について記載されている「熊野権現御垂迹縁起」には、熊野那智大社についての記述が見当たりません。よって、その起源は他の2社とは別格のものであり、建立された時代も異なると想定されます。歴史の流れを特定する資料が乏しいために、あくまで推測の域を出ませんが、おそらく熊野聖地の原点となる神倉峯に到達した後、熊野本宮大社の大斎原と熊野速玉大社が特定され、その後、神武天皇により那智の滝が見出されたのではないでしょうか。そして後世において、滝に隣接する場所に熊野那智大社が建立され、その主祭神である夫須美神は、熊野本宮大社、及び熊野速玉大社においても祀られるようになり、最終的に三所権現として熊野三山を代表する神々の1つになったと考えられます。

更に、熊野那智大社の社伝からも、熊野那智大社が建立された背景が他の2社と異なることがわかります。そこには、神武天皇が「にしきうら」と呼ばれる那智の海岸に来られた際、那智の方向に光を見出し、山の中に那智の大滝を発見したとされています。その後、神武天皇は八咫烏に導かれて大和へと向かいました。つまり、熊野本宮大社と熊野速玉大社は、大陸の神々が列島を横断して最終的に熊野に降臨し、神々が鎮座したことがその起源であるのに対し、熊野那智大社は神武天皇が熊野の大自然の中に那智の滝を発見したことを発端としているのです。「熊野年代記」によれば、熊野那智大社は仁徳天皇の時代、317年に現在の社地に創建されました。また、「熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」によると、孝昭天皇の時代、前423年には裸形上人により創祀されたことも記載されていますが、詳細は定かではありません。いずれにしても、大滝が神として崇められてから長い月日を経て、熊野那智大社が創建されたことに違いはなく、熊野那智大社の創設時期は、他の2社よりも後の時代であったと考えられます。

熊野那智大社のレイライン

熊野那智大社のレイライン
熊野那智大社のレイライン

熊野那智大社に背景に潜む歴史の流れは、熊野に絡むレイラインの位置付けからも垣間見ることができます。前述した熊野のレイラインでは、熊野の中心に位置する大斎原を基点として、そこを通り抜けるレイライン上の聖地が綺麗に結び付くことから、相互に密接な関係がある可能性を指摘しました。例えば熊野速玉大社も、大斎原と結び付くレイライン上に位置し、歴史の流れの中で相互が結び付いていることを地図上でも察することができます。ところが、熊野那智大社に限っては、大斎原と結び付く接点を、それらレイラインに見出すことができません。そこに、熊野那智大社の時代背景の違いがあることを感じないではいられません。

それでも、熊野那智大社には固有のレイラインが存在していたのです。熊野那智大社のレイラインは、基本的に1本のみとなります。それは、富士山の頂上と神倉山を結ぶ線であり、そのレイライン上に熊野那智大社があります。富士山は日本列島の最高峰として、レイラインの指標としては最も重要な場所です。その富士山と、熊野の基点であり、熊野の神が大陸より降臨したとされる神倉山を結ぶ線上に、熊野那智大社が創立されることが重要な意味を持つことは、言うまでもありません。神倉山は聖なる磐座として古代から認知され、ごとびき山と呼ばれる聖地も存在します。不動の存在である富士山と、神倉山という2つの偉大な聖地の「地の力」を得るべく、熊野那智大社はこれら聖地の延長線上に見出されたのです。

しかしながら、聖地の場所を特定するためには通常、少なくとも、もう1つのレイラインを必要とします。複数のレイラインが存在することにより、その交差点上に拠点を見出し、そこを聖地化されるというのが、ごく一般的なレイラインの手法です。ところが、熊野那智大社に限ってはレイラインは最初の1本しか存在しなかったのです。その理由が、那智の滝の存在です。那智の滝そのものが不思議にも、富士山と神倉山を結ぶ線上にあることから、2本目のレイラインが無くとも、熊野那智大社の場所を特定することができたのです。よって、熊野那智大社は他の2つの大社とは別の時代に、単独で建立されたという歴史の流れを、レイラインからも理解することができるのです。

熊野三山の歴史については、古文書などの史料からだけでは、その流れを察することは難しく、限定的な理解に止まります。しかしながら、レイラインの存在に気付くことにより、一見、わかりづらい歴史の流れも、時折、全体像が見えてくることがあります。熊野の歴史を振り返る際、レイラインの存在に気付くことにより、歴史の理解をより一層、深めることができます。

レイラインから察する熊野の歴史の流れは、大陸から渡来した民により、まず神倉山を基点として始まりました。古代の民は船を用いて海から渡ってきたことから、紀伊半島の海辺から見ることができたと考えられる神倉山は、格好の指標として認識されたことでしょう。そして、神倉山と出雲の八雲山を結ぶ線上に大斎原が本宮の聖地としてまず見出され、その次に熊野速玉大社の地が、出雲の比婆山と大斎原を結ぶ線上に特定されたのです。これら2つの聖地にて神々が祀られた後、神武天皇の時代、天皇自らが熊野那智大社の元となる那智の滝を見出し、大滝を神として崇め祀ったのです。その場所は富士山と神倉山を結ぶ線上にあり、滝に隣接する場所には、最終的に熊野那智大社が建立されたのです。そして他の2社と合わせて、創始に貢献した大陸からの渡来者を神々として合祀しながら、いつしか、熊野にある3つの大社が、熊野三山と呼ばれるようになったと考えられます。

熊野のレイライン(総合図)
熊野のレイライン(総合図)

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部