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元伊勢と三輪山のレイライン
神宝の行方を示す古代聖地の繋がり

日本全国には8万以上の神社が存在します。その信仰対象は、記紀神話などに登場する国生みに関わる神々を中心とし、自然界、食物、大陸系の神など様々です。それら神社の中には皇大神宮とも呼ばれる伊勢神宮内宮のように、今日でも皇族をはじめ、大勢の人々が参拝に訪れる神社も少なくありません。そのような由緒ある神社の中でも、一際、目立つ存在が、奈良県の大神神社です。静粛で美しい境内と、隣接する三輪山の存在は、言葉では説明しがたい神聖な空間を演出し、訪れる人だれもが感動を覚えることでしょう。

日本書紀や古事記、古語拾遺などの史書には、三輪山
三輪山
三輪山がどのようにして神より特別に選ばれ、古代の聖地として知られるようになったのか、その経緯が記されています。それらの記述を単なる神話として受け止めるか、それとも史実に基づいた不可思議な出来事として捉えるかによって、歴史の解釈は大きく異なります。いずれにしても何かしら、とてつもなく重要な事件が生じたからこそ、今日まで三輪山は、神が宿る特別な場所として聖別され、人々から崇め祀られてきたことに違いはありません。歴史の流れの中で三輪山は、いつの日も聖なる山として、不動の位置を占めることになります。

神が選ばれた三輪山の聖地

「三諸山」とも呼ばれる三輪山は、奈良盆地の南東部に位置する標高467mの小さな山です。一見、何の変哲もない、ごく普通の小高い山にしか見えない三輪山ですが、古代より神が宿る神聖な山として、特別視されてきました。ことの発端は、国造りが完成する直前、大己貴神(大国主神)が出雲国に着かれた際、神が海を照らしながら現れて、「私は日本国の三諸山に住みたい」と語ったことにあります。そして、「自分を倭の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と語られ、神の宮が建てられることになりました。古代、神が「ミワ」と呼ばれることがあった理由は、「大三輪の神」が真の神と考えられていたからに他なりません。三輪山が聖山となる背景には、生ける神が直接、人間に語りかけ、神殿が造営されるべき場所が特定されたという重大な事件が潜んでいたのです。

大神神社 拝殿
大神神社 拝殿
神の鎮座する聖山として知られるようになった三輪山は、山そのものが御神体であると考えられたことから、古くから何人も踏み入れることのできない禁足地とされてきました。それ故、三輪山の麓には大神大物主神社が建立され、後に大神神社と呼ばれるようになります。そこでは当初から本殿は設けず、三輪山を拝してきたのです。今日でも、拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して三輪山を拝するという、原始的な礼拝のしきたりが守られています。三輪山の禁足地にも三ツ鳥居が存在し、重要文化財に指定されていますが、その形式ができた年代や由来については誰も知る由がないようです。また、三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座と呼ばれる巨石群や、山ノ神遺跡、そして狭井神社西方の新境内地遺跡などが知られています。これら磐座の名称は、宗像三宮との繋がりを示唆しているようです。

三輪山は神が選ばれた聖地として、古代より磐座を中心に祭祀活動が執り行われていたこともあり、古くから山の周辺では集落が形成されました。そして神武天皇の時代では、既に地域の有力者が三輪山周辺に拠点を有していたのです。そのため、同じ三輪山の周辺を目指した天皇は、大和を平定して橿原宮を造営するまで、地元権力者との抗争に巻き込まれることになります。三輪参道から眺める三輪山
三輪参道から眺める三輪山
神武天皇は熊野の天磐盾(神倉山)から北上した際に、まず三輪山の東方に位置する菟田や、南方の吉野を訪れます。その後、菟田の高倉山を訪ね、そこで神武天皇は神と出会うのです。そして天香山の社の土を用いて土器の皿を造り、神を祀ることが、磐余邑(いわれむら、桜井市南西部)に広がる磯城の軍勢を打ち負かす鍵であることを悟り、それを実行します。天皇家の歴史は当初から三輪山の存在と深く関わり、奈良盆地中東部一帯が、大和平定の舞台であったことがわかります。

神武天皇の御代からおよそ5世紀以上経った後、日本国は大きな危機を迎えます。前1世紀、崇神天皇55年、疫病により国の人口が半減する程の緊急事態に陥り、しかも、その直後から百姓が離散して国に背く者が急増し、統治のしようがなくなるという状況に直面したのです。そして神宝を宮中で祀り、殿社を同じくすることに不安を感じて畏れをいだいた天皇は、神宝を宮から遷すことを決断したのです。宮中では護身用の御璽として代わりに、天皇が斎部氏に命じて造らせた新しい鏡と剣を祀り、本物の神宝は豊鍬入姫命に託され、倭の笠縫邑に暫くの間、祀られることになりました。これが元伊勢の始まりです。

ちょうどその頃、三輪山に祀られていた大物主神は、崇神天皇をはじめ多くの人々の祈りに応えられ、夢を通して天皇に、「もし私を敬い祀れば、かならず国内は平穏になるであろう」と語り告げられました。そして、三輪君の始祖であり、大物主神の子孫と言われた大田田根子を神主とし、八十万の神々を祀って天社、国社、神地、神戸を定めることにより、国家に平穏が訪れたことが日本書紀に記されています。その後、崇神天皇は国として初めての戸籍調査を行い、また、船舶を建造する詔も発し、天下は大いに平穏となりました。

三輪山 入山口
三輪山 入山口
崇神天皇は神の声を聞くことができた数少ない天皇の一人であっただけでなく、信仰に富み、思慮深く、また、新規事業にも熱心であり、多くの人から崇められた偉大な天皇だったと言えます。そして聖地として不動の位置を占めた三輪山を背景に、天照大神が「宝鏡を視まさむこと、吾を視るがごとくすべし」と語った八咫鏡と草薙剣は、後世において元伊勢と呼ばれる場所を転々と遷されることになり、謎めいた歴史の展開を繰り広げるのです。果たして信心深い崇神天皇であっただけに、大切な神宝を宮中から手放すとは信じがたく、その背景には何かしら重大な理由が秘められていたと推測されます。

崇神天皇が神宝を手放した理由

崇神天皇の時代、皇位継承のシンボルであった神宝は、豊鍬入姫命に託されて宮中の正殿を離れ、当初、三輪山にほど近い笠縫邑に祀られました。古語拾遺によると、遷された神宝とは天照大神、すなわち八咫鏡だけでなく、草薙剣も含まれていました。その際、天皇の命に従って新たに鏡と剣が鋳造され、これらレプリカが本物に代わり、護身用の御璽として宮中に置かれるようになったことも記されています。それから33年間、神宝は大和国の笠縫邑を離れることはありませんでした。

その後、神宝は豊鍬入姫命により、丹波国、倭国(大和国)、紀伊国、吉備国を遷り廻った後、半世紀以上の年月をかけて再び大和国に戻ります。そして、神宝の管理は倭姫命に託され、更に30余年にも及ぶ長い年月をかけて、理想の鎮座地を探し求めるように各地を転々とし続けます。最終的には八咫鏡は伊雑宮にもたらされ、そこから伊勢の地に遷されて安置されたことが、神道五部書のひとつである「倭姫命世記」に記載されています。こうして伊勢神宮に鎮座される前に神宝が一時的に祀られた多くの場は、元伊勢と呼ばれるようになったのです。

しかしながら、何故、伊勢神宮の聖地に辿り着くまで、皇位継承の印である神宝が宮中を離れ、多くの地を巡り渡らなければならなかったのでしょうか。その理由は歴史の謎となっています。確かに、史書に記載されている倭姫命の御巡幸に伴う神宝の遷座に関する内容には、多くの不可解な点が含まれています。

まず、神宝は元来、皇位継承の印として古来より天皇がお住まいになられる宮中に安置されてきたことから、皇室の大切な御璽として、不動の位置を占めていたのです。よって、信心深いことで知られた崇神天皇が、突然のごとく神宝の神威を畏れ、それらを手放してしまうとは考えづらいのです。日本書紀によると崇神天皇は幼少の頃、「雄大な計略を好まれ」、壮年に及んでは「御心廣く慎み深く、天神地祇を崇敬され、常に天子の天つ日継の大業を治めようとする御心をお持ちであった」と記載されるほど、聡明かつ信心深い天皇でした。生まれながらに善悪正邪をよく識別され、神を崇め奉ることを常としていたのが、崇神天皇の御姿のようです。そして天皇は詔をもって、天皇の存在意義を「人と神とを統御し、天下を治めるため」と自ら語り、日本国の平定を望みながら、真摯に国の統治に取り組んだのです。そのような敬虔かつ、優れた才能に溢れた崇神天皇が、果たして神宝を宮中に保管することを畏れ、先祖代々の教えを無視して宮中から遷してしまうでしょうか。

次の疑問は、神宝の神威を畏れたはずの崇神天皇が、神宝の模造品、すなわちレプリカの製造に着手したことです。神宝が皇居の外で祀られるようになった際、天皇の指示によりレプリカが製造されましたが、それらはあくまでも模造品にしかすぎませんでした。よって、レプリカを祀ることは偽物を祀ることと同じであると考えられ、信心深い崇神天皇が、果たしてそのような決断をするか疑問が残ります。また、神宝の神威を畏れた天皇が、本物ではないレプリカをわざわざ宮中に飾り、天照大神の元来の教えから乖離するリスクを背負うということも考えづらいのです。

更なる疑問は、八咫鏡と草薙剣のレプリカを造るために、大掛かりな集団が結成されたことです。崇神天皇は斎部氏に命じて、鏡作部と金工鍛冶の遠祖である2氏族を統率し、八咫鏡と草薙剣の模造品を鋳造させたのです。鏡と剣を一つずつ鋳るために、大勢の製造者が必要になるとは考えづらいことから、複数のレプリカを造るという指示により、2氏族が任命されたのではないかと考えられます。つまり、多くの模造品を早急に造る必要があったことから、それらの製造に必要な職人が大勢集められたのです。次の垂仁天皇の御代では、垂仁天皇の皇子により、剣が1000本も製造され、石上神宮に納められたことも特筆に値します。

そこまでして、何故、神宝のレプリカを造る必要があったのでしょうか。また、本物の神宝を長い年月をかけて、転々と広範囲の地域を移動させた理由も不可解です。神威を畏れたとするならば、見知らぬ土地にとりあえず鎮座させるのではなく、むしろ、新しい鎮座の地が示されるまで、神が住まわれる三輪山に神宝を奉納するべきでした。それどころか、崇神天皇は神宝を豊鍬入姫命に託した後、自らは八十万の群神を祀るという理由で、国々に社や神地、神戸を定めるのです。神威を畏れるあまりに神宝を手放し、それらを祀る聖地が定まらずに転々としているというのに、天皇自らが神地、神戸を定めて八十万の群神を祀るということは、理に適いません。

神宝が宮中から遷され、元伊勢となる場所を転々とした理由は、崇神天皇が神宝を畏れる余り、恐怖感から手放してしまったからではなく、むしろ、天皇の畏れという言葉には、神威を誇る大切な神宝が盗まれてしまうことを危惧する意味が秘められていると考えられます。神宝に秘められた神威の噂は海外にも伝わっていたと考えられ、それを欲する者は国内外に複数存在したことでしょう。そして国内情勢が不安定になってきたことを機に、神宝が略奪される可能性が高まってきたのです。

皇居が攻め込まれ、神宝が強奪されるという最悪の事態までも懸念した天皇は、神宝を安全な場所に保全するため、早急に対策を講じなければなりませんでした。その結果、多くのレプリカが製造されただけでなく、神宝は転々と各地を移動することとなり、いつの間にか、本物の神宝がどこにあるのか、わからないようにしてしまったと考えられます。これらの背景には、崇神天皇の「雄大な計略」が存在し、綿密な策が練られていたと想定されます。そして、本物の神宝を上手く歴史のオブラートに包み込み、安全な場所に秘蔵することが目論まれ、豊鍬入姫命と倭姫命による御巡幸という一大計画が決行されたのです。その謎を解明するために、まず、崇神天皇の時代背景を振り返ってみましょう。

神宝が元伊勢を遷座した時代背景

天照大神と草薙剣が宮中から遷され、豊鍬入姫命、そして倭姫命へと託されたのは、崇神天皇から垂仁天皇の時代、紀元前1世紀頃の話です。その時代の日本列島を取り巻くマクロの環境が、どのように変化していたかを知ることは、神宝が宮中から遷されたきっかけや、それに伴う元伊勢誕生の背景を理解するうえで重要です。そしてレイラインの考察という、地域ごとの拠点を結ぶ線の繋がりを検証することにより、元伊勢となる地がどのように特定され、なぜ、それらの拠点を転々としながら最終的に伊勢へ到達したのか、それらの理由が少しずつ見えてきます。

神宝が宮中から遷され、元伊勢の誕生するきっかけとなった要因は、国内情勢が不安定になったことにつきます。当時、アジア大陸の政変と、民族移動による大陸からの渡来者の急増により、集落の基となる人口構成が激変したのです。その結果、国内の社会情勢が不安定になったことは、想像に難くありません。特に大和国の東方には、朝廷に従わない勢力が拡大し始めている兆しがあり、対策を考える必要が生じていました。さらに同時期、大和国の西方では、海を隔てた四国の地において、邪馬台国の芽が息吹き始めていた可能性があることも、覚えておく必要があります。

まず、アジア大陸の政変を発端とする民族移動を考えてみましょう。紀元前210年、秦の始皇帝による統治が終焉を迎え、その後、多くの難民がアジア大陸を東方に向かって移動したと考えられます。中には、朝鮮半島にまで到来し、そこから海を渡り、日本列島まで到来してきた人々も少なくありませんでした。歴史人口学の見地からしても、弥生時代後期の日本列島における人口の急増は、アジア大陸からの渡来者なくては説明することができません。その渡来者の数は、弥生後期の数世紀にかけて累計150万人、もしくはそれよりも多くの群衆が、大陸から日本まで到来したと推定されるのです。その移民の流れの原動力となったのが、秦の時代において、始皇帝の治世を陰で支えた知識層を含む大勢の民であり、その背景には西アジアから大陸を東方に向けて移住を繰り返してきたイスラエル系民族の存在が見え隠れしています。

記紀にも当時、大勢の移民が大陸より到来したことが明記されており、秦氏のように、中国の魏志倭人伝に、名前まで記された一族もあります(「秦氏の正体」参照)。渡来者の大半は朝鮮半島から海を渡ってきました。中でも秦氏は、高度な教養と優れた文化、そして多くの富や財産を携えて列島に到来し、日本文化の発展に大きく貢献したのです。秦氏らは列島の随所に拠点を設けながらも、山城国周辺(今日の京都)を最も重要視し、そこを本拠地としました。秦氏はイスラエルのユダヤ系渡来者であった可能性が高く、その前提で考えるならば、朝廷と対立するのではなく、むしろその働きを擁護する立場をとりながら、短期間で国内の政治経済に大きな影響力を与える存在になったと考えられます。

これら渡来者の流入と時代の変化を崇神天皇も察知していただけでなく、時には大陸系異国民の存在を脅威に感じることもあったことでしょう。渡来者の中には権力者も存在し、その人脈と財力を用いて短期間に拠点を列島内に設けただけでなく、中には各地で権力闘争を巻き起こし、謀反を起こすような勢力にまで発展した部族も存在しました。日本書紀には崇神10年、天皇の詔に、「然遠荒人等猶不受正朔」というメッセージが含まれています。「広雅」と呼ばれる3世紀中国の訓詁書には、「遠荒」は「荒、遠也」と記され、それは天皇が天下を治めようとすることに従わない遠方からの人々を意味します。そのような反勢力が台頭し始め、各地で謀反の兆候が見られる最中、武埴安彦の乱のように都を襲撃する群れもあり、官軍との激戦が繰り広げられたのです。

渡来者の急増による人口構成の激変により、国内情勢は不安定になったことは言うまでもありません。その後、畿内はおよそ平穏となるものの、遠方の地域では騒動が止まらず、四道将軍と呼ばれる皇族の将校が、北陸、東海、西道、丹波の地を制するために出兵しました。騒動を起こした民は、日本書紀では戎夷(ひな、じゅうい)と呼ばれ、周辺の野蛮な民族を意味していました。古代中国では異国民を蔑視する意味で用いられていた言葉であることから、戎夷とは、単に朝廷に従わずに反旗を翻した住民を指すだけではなく、大陸より渡来してきた異国民の集団の意味も含んでいたことでしょう。日本列島各地に様々な緊張を生み出す要因をもたらした戎夷は、崇神11年に平定されます。そして、「異俗多帰国内安寧」と日本書紀に記されているとおり、大勢の渡来者が朝廷に帰順して、国内にやっと平穏が訪れたのです。

四道将軍が国内を制圧するために出兵した地域は北陸以南の本州に限られ、四国と九州は含まれていないことにも注目です。同時期、邪馬台国が日本のどこかで産声を上げ、その後、2世紀もかけずに日本を統治する巨大国家となり、海外にまでその名を知らしめることになります。四道将軍が派遣されず、彼らの目が行きとどかなかった四国については、記紀にもほとんどコメントがないだけに、当時の状況は知る由もありません。それだけに、邪馬台国の前身が誰も気がつかぬうちに、そこに息吹いていた可能性があります。そして四道将軍が戎夷を平定する5年前、不穏な空気がまだ国内に漂う最中、崇神天皇は重大な決断を迫られていたのです。

神隠しを演出した古代人の知恵

前2世紀頃から急増した大陸からの渡来者の波は衰えを知らず、渡来者の中には朝廷に対抗して反旗を翻す有力者も少なくありませんでした。その結果、国内では動乱の兆しが各地で見られるようになり、さらに国民の多くが伝染病で亡くなり、人口が急減するという危機的状況に陥りました。また、宮中で祀られていた神宝は皇位継承の証であり、国を治める権利の象徴でもあったことから、それを欲する反勢力による強奪事件がいつ発生するかもしれず、内政の舵取りが極めて難しい局面を崇神天皇は迎えていたのです。

社会情勢の激変を察知し、神宝の安否を危惧した崇神天皇は、神宝が盗難されるという最悪の事態を避けるための秘策を練ったと考えられます。まず、神宝の模造品を製造することを決めました。宮中では神宝のレプリカが祀られるようになり、本物の神宝は皇居から遷された後、三輪山麓の大和国、笠縫邑で祀られました。そして33年という長い年月が過ぎ去り、その間、さらに複数のレプリカが造られた可能性があります。また、聖地として名高い三輪山でさえも、不信心な掠奪者による攻略の危機に迫られていたと考えられたことから、笠縫邑と呼ばれた三輪山の麓の地域が、初代の遷座地として選ばれたのではないでしょうか。こうして崇神天皇は、大切な神宝を守るための「計略」を即座に実行し、神宝を笠縫邑に遷すと同時に、複数のレプリカを製造することにより、本物の神宝との見分けを難しくしたのです。

神宝を守る次なる手段は、朝廷の権力が行き届くエリアの中で、神宝を遷し続けながら、朝廷の勢力範囲を誇示すると同時に、神宝の行方をくらましてしまうことです。今日の航空地図に、神宝が遷座されたという元伊勢の場所を落とし込むと、三輪山を中心として南北に約150km、東西には約270kmも離れた広いエリアに拡散していることが一目でわかります。そして27か所もあると言われる元伊勢の内、7か所は三輪山から半径25km以内に存在するものの、残りの大半は遠方に広がっています。また、元伊勢のほとんどは平坦地にあり、さらに半数近くは、三輪山の東方を盾で守るかのごとく、琵琶湖の東岸から濃尾平野、そして松坂、伊勢に向けて南北に並んでいます。また、吉佐宮、奈久佐浜宮、そして名方浜宮は、北方や西方の海沿いの地に孤立していることにも注視する必要があります。海岸沿いの地で、しかも都から遠く離れること自体、神宝の防御という視点から見ると極めて脆弱であり、ましてや外来の渡来者がいつ襲撃してくるかもわからないような場所に宮を建て、果たして大切な神宝を守ることができるのか疑問です。元伊勢と呼ばれる地の大半は、神宝を守護するには不向きな、無防備な平野や、小高い丘に位置しているのです。

元伊勢御巡幸地 行程地図
元伊勢御巡幸地 行程地図

そのような無防備な場所であったにも関わらず、元伊勢の聖地となるべく御巡幸の対象地となった理由は、中国にて古代より伝承されてきた四神相応の思想が影響していたのではないかと推測されます。四神相応による理想の地とは、北に山あり、南に沢あり、東に南流する水あり、西に野あり、と解釈することができます。よって、三輪山を守護するためには、まず、その四方を守ることに重きが置かれたのです。三輪山は広範囲で見るならば、北方には日本海に向けて山が連なり、真南には熊野那智大社の大滝に代表される沢が存在し、東方は伊勢湾から南方の太平洋へと注がれる海が広がり、西方は瀬戸内海の湾岸に沿って野道が続いています。よって、三輪山は四神相応に基づく地勢を有しているという前提において、その東西南北に社を築くことが求められたと推測されます。そして御巡幸という名の元に、神宝は各地に祀られ、元伊勢と呼ばれるようになったと考えられます。

元伊勢の社となる場所を特定する方法としては、レイラインの手法が用いられることが多かったと推測され、他の聖地との結び付きを検討した上で、地の力を結集できる場所が厳選されたケースが少なくないようです。その結果、北の端では日本海沿岸にある天橋立のほど近くに吉佐宮と呼ばれる籠神社の地が、そして西の端には瀬戸内海沿いの岡山に、名方浜宮の地が特定されたのです。また、伊勢湾沿岸にあたる周辺地域も、三輪山から見て東方の勢力が脅威となりつつあったことから重要視されました。崇神天皇の1世紀後、景光天皇の時代、日本武尊が東夷の反乱を抑えるために伊勢から駿河へと向かった際、天皇が日本武尊に語った言葉、「東夷は性格が横暴であり、侵犯することを常とし、集落には長も存在せず、境界を奪って略奪をする」が、当時の状況を伝えています。そのような東方の脅威が迫りつつあった時代だったからこそ、多くの元伊勢となる拠点が伊勢湾沿いに設けられたのでしょう。そして三輪山の南方は熊野の聖地と那智の大滝によって守られていたことから、奈久佐神宮と呼ばれた日前神宮を拠点とするだけに止められたのです。

元伊勢の御巡幸ルート図
元伊勢の御巡幸ルート図
三輪山の四方を聖地で守った後、崇神天皇が最終的に望んだことは、神宝を安全な場所に秘蔵することではなかったでしょうか。そのための究極の策が、豊鍬入姫命から引き継がれた倭姫命の御巡幸であったと考えられます。神宝は御巡幸と共に祀られる場所が転々とし、元伊勢となる多くは、大和国から遠く離れた無防備な場所にありました。国内では不穏な動きもあり、長期間にわたり、防犯上の問題が多い場所で本物の神宝を祀るとは到底考えられないことから、神宝が遷座された際には、レプリカが用いられた可能性があったと考えられます。つまり崇神天皇の「壮大な計略」とは、どれが本物か、わからないようにレプリカを製造することだけではなく、神宝を遷座させる場所を複数選りすぐり、頻繁に移動しているように見せかけながら、実際にはレプリカも用いて、周囲の目を眩ますことを狙ったパフォーマンスであった可能性が見えてくるのです。

では、本物の神宝は当時、どこに秘蔵されたのでしょうか。後述するレイラインの検証から、一時期、四国の山奥に移設された可能性が見えてきます。実際、元伊勢の中には、四国剣山とレイライン上で紐付けられて厳選されたと考えられる場所が複数存在します。よって、御巡幸と四国剣山との繋がりも、安易に否定できないことがわかります。四国は人が近づくことのできない急斜面の際立つ山岳地帯が多く、石鎚山や剣山のように西日本最高峰の聖山が存在するだけではなく、剣山のように淡路島や紀伊国から見える高山も存在します。そして、何故かしら四国に関する史書の記述は限定され、話題にのぼることがほとんどないことも不思議です。これは、神宝を秘蔵する場所として早くから、崇神天皇に限らず、先人も注目していたからではないでしょうか。

また、元伊勢を回る御巡幸の直後から、邪馬台国が台頭してくることにも注目です。もしかすると、そのきっかけとなったのが、四国への神宝の遷座であったかもしれません。神宝が遷された場所こそ、国家を統治する権威をもつ方が君臨する場所です。よって、本物の神宝が一時期、四国剣山周辺に遷座された結果、一気に政治力を増したのが邪馬台国であった可能性が見えてきます(「邪馬台国への道のり」参照)。

豊鍬入姫命と倭姫命の御巡幸とは、神宝と共に三輪山を始点として、朝廷の影響力が及ぶ遠隔地を巡り渡り、最終的に伊勢の地まで辿り着くことにありました。果たしてこれらの神宝は、奇跡的に守られ、伝承のとおり、伊勢神宮に鎮座されたのでしょうか。それとも、元伊勢の地が無防備であることから、どこかでレプリカとすり替わったとは考えられないでしょうか。元伊勢の場所を特定するレイラインが示唆する方向性は、後者です。元伊勢の地が特定された背景に存在するレイラインのほとんどは、神宝に関わる聖地を結び付けることにより構成されています。そして、それらレイラインの多くが剣山を通り抜けることから、神宝の重大拠点として、剣山が特別視されていたことがわかるのです。言い方を変えれば、元伊勢のレイラインとは、神宝に関わる聖地のひとつとして、四国剣山が特定されたことを後世に証しているのです。それは、本物の神宝が人里離れた地に遷されて温存されるべく、綿密な計画が練られた結果とも言えます。元伊勢は、神宝の存在が上手にオブラートに包み隠されたことの証だったのです。

神宝の行方を示す元伊勢のレイライン

古代の聖地と地の指標を結び付けるレイラインを考察することにより、豊鍬入姫命と倭姫命が御巡幸された元伊勢の聖地が、どのように見出されたのか、その選別の基準や考え方を推測することができます。国生みは元来、淡路島から始まり、古代聖地の多くは淡路島の神籬石や、伊弉諾命が葬られた伊弉諾神宮を基点としたレイライン上に見出されました。ところがその後、神を三輪山で祀るという啓示があったことから、レイラインの中心も淡路島から東方へとシフトして、三輪山に移り変わったと考えられます。日本列島の中心は、大和国の三輪山と考えられるようになったのです。

崇神天皇の御代、その三輪山を中心とする地勢観に基づき、列島各地に三輪山と結び付けることができる神宝の拠点を見出すことが目論まれました。そして表向きには朝廷の権力を誇示できる範囲を広く保つため、神宝を宮中から移設して各地を遷座させるという構想が練られ、遠隔地においても神が祀られるように仕組まれたのです。そのために、神宝に関わる重要な聖地を結び付けるレイラインが交差する場所が、ピンポイントで列島各地に見出され、そこに神の社が建立されることになりました。そして、選別された一つひとつの場所へ神宝が遷座されることになったのです。その結果、神宝は新しく特定された社の拠点を順次移動することとなり、最終的には伊勢の地まで遷されることになりました。それが元伊勢誕生の所以です。

しかし、本物の神宝が果たして、無防備な海沿いの遠隔地にまで遷座されたかどうか、今日では知る由もありません。神威に守られていた神宝だからこそ、盗難のリスクを回避できたという見解もあります。また、途中でレプリカにすり替わり、本物の神宝は元伊勢とは違う場所に隔離されたと考えることもできます。いずれにせよ、神宝のレプリカも存在する時代であっただけに、本物の神宝はどこかに安置されたに違いないのです。それ故、元伊勢を遷座している間に、神宝が秘かにレプリカと入れ替わり、本物は遠い山奥に移設されたという可能性も見えてくるのです。

崇神天皇の御代、日本列島には既に多くの聖地や、地の指標が存在していました。それらは聖山、海の岬、そして人が定めた聖地の上に建立された神社の3種に分けられます。聖山の筆頭は、列島の最高峰である富士山であり、次に、西日本最高峰の石鎚山、淡路島からも見える剣山が含まれます。そして、出雲の八雲山、熊野の神倉山、高千穂、三輪山、天香山、諭鶴羽山も古代の聖山として、重要な拠点と考えられていました。岬については佐多岬、足摺岬、室戸岬が太平洋側の指標として際立つ存在感を示し、古代の海人にとっては必要不可欠な旅の指標でした。神が祀られた聖地としては、伊弉諾神宮、花窟神社、宗像大社(沖津宮、中津宮、辺津宮)、宇佐神宮、日前神宮、伊雑ノ浦に隣接する伊雑宮、熊野本宮大社の大斎原、熊野速玉大社、鹿島神宮、諏訪大社前宮と石上布都御霊神社、海神神社などが、名を連ねます。これらの古代拠点である神社や自然の聖地は、列島内の広範囲に拡散していることから、新しい拠点を見出すためのレイラインを構成する基点として、重要な存在となっていたのです。

元伊勢と呼ばれる神宝の遷座地のほとんどは、これらの聖山や岬、神社などの地の指標をレイライン上に絡めて見出されたと断定せざるをえないほど、拠点同士が一直線上に並ぶ、きれいなレイラインを構成しています。これは単なる偶然ではなく、むしろ、何らかの意図をもって、新たなる聖地がレイライン上に特定されたことを意味しているのでしょう。よって、それら拠点の地の利や歴史的背景の関連性を検証することにより、時には古代史の流れや、歴史の謎さえも理解する糸口を、掴むことができるようになります。元伊勢の謎をレイラインで解明する時がきました!

古代の聖地と地の指標 -前1世紀-
古代の聖地と地の指標 -前1世紀-

笠縫邑(檜原神社)のレイライン

  元伊勢の歴史は、笠縫邑から始まります。神宝が皇居を離れてから最初の33年間、笠縫邑が神宝の奉斎地となり、崇神朝の祭政分離体制が徐々に確立されていくことになります。その期間、神宝については様々な情報が収集され、次の遷座場所などについても協議されたことでしょう。また、鏡と剣のレプリカが斎部氏の指揮の元、鏡作部と金工鍛冶の遠祖2氏からなる大勢の職人によって鋳られ、本物に代わって宮中に祀られたのです。
  笠縫邑の比定地としては檜原神社や巻向坐若御魂神社、志貴御県坐神社など、これまで複数の候補が挙げられています。中でも檜原神社である可能性が高い理由は、まず、檜原神社の地が三輪山の麓、大神神社の北側約1kmにあたり、山頂へのアクセスが大神神社よりもよく、便利な場所であることが挙げられます。聖地詣でを日々繰り返しながら三輪山を暴徒から護衛するには、最適な地であったと言えます。次に、檜原神社は三輪山の麓でも標高120mほどの台地に建立され、その境内からは二上山や箸墓を見渡すことができることから、その良好な展望が重要視されたと考えられます。また、大神神社と同じく本殿がなく、境内に造られた三ツ鳥居の向こうに見える三輪山を御神体として拝することも、三輪山と深い関わり合いを持つ社であることの証として重要です。三輪山平等寺旧蔵の室町時代に描かれた古図には、二つの鳥居を進むと、天照大神と春日大明神を祀る社が左右にあり、その先には本殿がなく、三ツ鳥居だけが描かれ、そこから三輪山を拝していたことがわかります。しかも三輪山の頂上に鎮座されている神坐日向神社の社殿は西北の方向、ちょうど檜原神社の方角を向いていることも、檜原神社の重要性を証しています。 さらに「大和志」や「神名帳考証」には、檜原神社が巻向坐若御魂神社の旧遷座地であると記されていることも、檜原神社説を後押ししています。
  檜原神社の重要性はレイラインの検証からも確認できます。まず、古代聖地のひとつ、出雲の御神体とも言われる八雲山と三輪山を結ぶレイライン上に、檜原神社が建立されていることに注目です。つまり、三輪山の頂上から檜原神社の三ツ鳥居を介して線引きをすると、八雲山に到達するのです。スサノオ命の拠点である出雲の聖地と紐付けられるということは、スサノオ命が手にした神剣との関わりを持つことの象徴とも解釈できることから、重要なレイラインと言えます。
  さらに檜原神社の位置から二上山を越えてまっすぐにレイラインを引くと、沖ノ島を通り抜けます。沖ノ島は神宝の宝庫としても知られ、そこに建立された沖津宮は宗像大社の本宮でもあることから、このレイラインも神宝に絡んでいます。同様に、檜原神社から宗像大社の中津宮へレイラインを引くと、その線上には淡路島の神籬岩が存在し、また、檜原神社の真北には日本海沿岸に三方五湖が、真南には熊野灘に紀伊大島が浮かび、垂直のレイラインによって結び付けられています。さらに、富士山と諭鶴羽山、檜原神社を結ぶレイラインも重要です。古代レイラインの重要拠点である富士山は、宝永山がある南側が基点となっていったと考えられ、レイラインは頂上の南側を通り抜けるように線引きされています。古代では富士山の形状が異なり、今日、御殿場ルートや富士宮ルートと呼ばれるような富士山の南側から登山したと推定され、宝永山周辺に頂上の一角があったと考えられます。これら複数のレイラインの存在から、檜原神社の地は神宝に深く関わるスサノオ命の聖地である出雲や宗像だけでなく、諭鶴羽山の熊野神や、神籬石、富士山にも結び付く、重要な位置を占めていたことがわかります。
笠縫邑のレイライン
笠縫邑のレイライン

吉佐宮(真名井神社、籠神社)のレイライン

「匏宮大神宮」と刻まれた石柱が立つ境内入口
「匏宮大神宮」と刻まれた石柱が立つ境内入口
元伊勢の地を御巡幸された際に、遷座された神宝のひとつは草薙剣でした。不思議な力を持つ比類なき神剣として知られ、その扱いには細心の注意が払われたことでしょう。それ故、遷座地を特定するにあたり、剣に結び付く古代の聖地を特定し、それらとレイライン上で紐付けることは大事でした。神宝に関わる由緒を誇る古代の神社としては、八咫鏡については日前神宮、神剣については鹿島神宮、出雲大社(八雲山)、諏訪大社、石上神宮などが名を連ねます。そして、これらの神社にレイライン上で結び付く北方の遷座地が探し求められた結果、日本海に面する宮津湾の名勝、天の橋立の近郊にある籠神社と、その奥宮である真名井神社の周辺が、吉佐宮の場所として特定されたと考えられるのです。

丹後には吉佐宮の伝承が残されている場所が点在しています。しかし、「止由気宮儀式帳」には、「丹波国比治の真名井に坐す我が御饌都神」と記され、真名井神社の入口には「匏宮大神宮」と刻まれた石柱があります。真名井神社の周辺は古代から真名井原と呼ばれ、神社の南方からは真名井から湧き出た水が川となり、天の橋立に向かって流れ出ています。その天の橋立周辺では、「伊勢に参らば元伊勢詣れ、元伊勢お伊勢の故郷じゃ」と、古くから謡い継がれ、神社の裏方には古代の磐座や弥生古墳が存在することからしても、真名井神社を奥宮とする籠神社周辺の真名井原が吉佐宮の地であると考えて間違いないでしょう。

真名井神社内にある「天の真名井の水」
真名井神社内にある「天の真名井の水」
では、三輪山から130km以上も離れた日本海沿岸の真名井神社、籠神社の場所が、どのようにして見出されたのでしょうか。レイラインを地図上で検証することにより、その手法が見えてきます。まず、神宝の遷座地を探し求めるにあたり、レイラインの基点が八咫鏡の由緒に富む日前神宮に定められたと推測されます。三輪山からおよそ70km離れている日前神宮は、宗像大社の沖津宮(沖ノ島)、及び諭鶴羽山とほぼ同緯度にあり、神宝のレイラインと呼ばれるに相応しいきれいなレイラインを構成しています。諭鶴羽山は熊野神が石鎚山から熊野の神倉山へ渡られる途中に登られた山であることから、日前神宮は熊野とも結び付いていることになります。さらに日前神宮を通り抜けるレイラインの中には、富士山と剣山、高千穂という重要な聖地を結ぶ線も存在します。列島最高峰と剣山、天孫降臨の由緒深い高千穂、そして沖津宮と熊野など、多くの由緒ある聖地に繋がる位置付けを持つ日前神宮が、古代社会において重要視されたことは、言うまでもありません。

その日前神宮の地の力を継承するため、真北にあたる日本海側に、北の拠点を設けることが目論まれたのではないでしょうか。その線上に吉佐宮が見出されることになります。そのためには、線上の緯度を決めなければなりません。そこで、神剣の由緒を持つ諏訪大社と、大陸への西の玄関である海神神社を結ぶレイラインが選定され、日前神宮の南北線と交差する場所に、吉佐宮が造られたと考えられるのです。

真名井神社の本殿
真名井神社の本殿
ちょうどそこは天橋立にあたり、隣接する海辺が真名井原と呼ばれる場所でした。そこに建立されたのが真名井神社であり、籠神社の奥宮としてその存在を知らしめるようになります。
  何故、遠く北に離れた真名井神社、籠神社が遷座の地として選ばれたのでしょうか。前述したとおり、四神相応に基づき、三輪山の北方を守る日本海沿岸の拠点として、真名井原の地が定められたことに違いはないでしょう。しかしながら、レイラインの繋がりを検証すると、背景には更に深い意味が込められていた可能性が見えてきます。まず、レイラインの基点となった日前神宮に絡むレイラインに三輪山と高千穂を結ぶ線も含まれ、その中間に剣山が存在することに注目です。これは吉佐宮、すなわち真名井原の地が元伊勢の原点となる三輪山や、天孫降臨の地である高千穂だけでなく、四国の聖山として名高い剣山が新たに大切な指標としてレイラインの考察に加えられたことを意味しています。神宝の遷座という重大な神事に関わるレイラインの構成だけに、これらレイライン上に見出される聖地には、何かしら大切なメッセージが秘められていたと考えられます。

籠神社本殿
籠神社本殿
その剣山と伊弉諾尊が葬られた古代の聖地、淡路島の伊弉諾神宮を結んで北東方向に線を引くと、日前神宮を通る南北のレイラインと、ちょうど摩耶山で交差した後、六甲山を通り抜けます。また、三輪山と出雲の八雲山を結ぶレイラインは、檜原神社だけでなく、同じく摩耶山を通り抜けています。つまり、日前神宮を基点として定められた真名井神社と籠神社の背景には剣山だけでなく、それらレイラインの隠れた中心点となる摩耶山も存在し、三輪山と八雲山、そして剣山などの聖山を紐付けていたのです。

摩耶山を中心とするレイラインには、日前神宮や籠神社だけでなく、神宝と関わる聖地である三輪山をはじめ、八雲山(出雲)、諏訪大社、伊弉諾神宮、剣山、高千穂などの由緒ある聖地が名を連ねます。極めて重要な聖地に結び付く複数のレイラインが交差する中心点にあるだけに、元伊勢の御巡幸にあたり、神宝の行方を決める大切な指標として摩耶山の存在は極めて重要視されたに違いありません。当初、笠縫邑に滞在した期間が33年という長期間に及んだのは、摩耶山を基点とする新しい神宝の秘蔵場所について、検討が重ねられていたと考えられます。摩耶山を通過するレイラインは、その後の神宝の行方を占う上で、大切なヒントを演出しているのです。

天橋立から見る宮津湾の夕暮れ
天橋立から見る宮津湾の夕暮れ
吉佐宮のレイライン上には、真名井神社(籠神社)が新たなるクロスポイントとして歴史に姿を現しただけでなく、そこを通り抜けるレイラインの南方には摩耶山だけでなく、同一線上に絡む聖山として、新たに剣山が視野に入ってきたのです。これらレイラインの実態から察するに、元伊勢の場所が厳選された背景には摩耶山と剣山という2つの重要な聖山が存在し、それらが神宝に何かしら絡むようになった可能性を見出すことができます。その大切なメッセージを証するために、三輪山の北方に真名井神社が建立されたのではないでしょうか。レイラインが交差する摩耶山の存在は極めて重要であり、そのレイラインに直結する剣山こそ、人の手が届かない神宝の秘蔵場所として厳選された聖地であった可能性が浮上してきました。そして、その後の元伊勢御巡幸の流れは、剣山の重要性を決定づけることとなります。古代のレイラインは、暗黙のうちに神宝の行方を語りかけているように思えてなりません。

吉佐宮のレイライン
吉佐宮のレイライン

伊豆加志本宮(長谷寺、与喜天満神社)のレイライン

伊豆加志本宮の近隣にあったと伝承される鳥居跡
伊豆加志本宮の近隣にあったと伝承される鳥居跡
吉佐宮に御巡幸されて4年を経過した後、北方への長い御巡幸の旅を経て、神宝は再び大和国の伊豆加志本宮に戻ってきます。倭姫命世記には崇神天皇43年、「倭国に遷りたまい」と記載されています。伊豆加志本宮の比定地については笠縫とする説もありますが、長谷寺周辺の初瀬である可能性が高いようです。初瀬は三方を山に囲まれ、初瀬川も流れる景勝地であり、東西の交通の要所でもあります。また、神の籠る聖地として名高く、古代より長谷寺を筆頭に、与喜天満神社、滝蔵神社、長谷山口坐神社などの著名な神社が存在します。さらに後述するレイラインが、初瀬の長谷寺に隣接する与喜天満神社の真裏を三輪山と同緯度で通り抜けることなども、初瀬を有力視する根拠のひとつです。

「御巡幸図説」には、長谷寺の近郊に伊豆加志本宮があったことが窺え、長谷寺へ向かう参道と県道の交差点には大小二つの鳥居の礎石が並んでいます。鳥居の前後に長い階段が続く与喜天満神社
鳥居の前後に長い階段が続く与喜天満神社
この鳥居跡の周辺に伊豆加志本宮があったという言い伝えが残されていることに注目です。長谷勘奏記裏書には、天照大神が最初に降臨した地が初瀬の山であると伝えられていることから、この鳥居跡から山へと向かう参道が、古代でも存在していたのでしょう。聖なる三輪山を守護するために笠縫邑から始まった御巡幸は、その東西南北を守り固めるという主旨に則り、三輪山の真東にあたる初瀬周辺を御巡幸の地と定め、そこを伊豆加志本宮と呼ぶようになったと考えられます。

三輪山の北方は既に吉佐宮によって守られていることから、次は東方の伊豆加志本宮を守護することにありました。その後、南方の紀伊国、そして西方の名方浜宮(岡山)に向かうことになります。よって、まず三輪山東方の御巡幸地が探し求められ、その拠点として初瀬川の渓流沿いにある長谷寺周辺の山が特定されたのではないでしょうか。古代、大和国から東方へ向かう際には、初瀬の伊勢辻と呼ばれる通りを抜けて、伊勢や東海道へと向かっていたことから、初瀬は大事な旅の拠点でした。しかも初瀬川沿いの山は、三輪山と同緯度にあたることから、レイラインの視点からもわかりやすい位置にあったのです。

長谷寺の東400mほどの所には、神山として守られてきた与喜山の中腹に与喜天満神社が建立されています。長谷寺へ向かう参道のつきあたりに見える与喜天満神社の鳥居をくぐると長い階段が続き、左手に境内が見えてきます。与喜天満神社の境内へ上る長い階段
与喜天満神社の境内へ上る長い階段
そして境内の奥には鵞形石(がぎょういし)、沓形石(くつがたいし)、掌石(たなごころいし)と呼ばれる三つの磐座があります。平安末期に書かれた「長谷寺縁起文」には、この鵞形石に天照大神が降臨されたことが記載されています。それ故、古くから山そのものが天照大神の御神体として拝され、与喜天満神社は長谷寺の管轄下に置かれてきました。これらの背景から、与喜天満神社の周辺こそ、伊豆加志本宮の比定地である可能性が高いと考えられるのです。

伊豆加志本宮の遷座地が見出された際に用いられたと考えられるレイラインは、3本の線によって構成されています。まず、三輪山を通り抜ける同緯度の線を引きます。その線は東方に向かって伊勢湾では神島に至り、西方は二上山を指していきます。聖なる神山として不動の位置を占めていた三輪山と同緯度にあるということ自体、今昔もって重大な意味を持っています。その緯度線は、三輪山から東方に向かうと、最初の水源である初瀬川を越え、川沿いの与喜山に建立された与喜天満神社境内の真裏を通り抜けていきます。与喜天満神社は、三輪山のレイライン上にあったのです。

伊豆加志本宮の拠点を定めるためには、その緯度線上に東西の経度を特定する必要がありました。指標として用いられたのが、まず、琵琶湖ではなかったかと推測されます。古代の琵琶湖岸を特定することは難しいですが、瀬田川が流れ出る地点周辺が、最南端に該当するのではないでしょうか。そのほど近くには今日、石山寺が建立されています。琵琶湖最南端から真南に向かって線を引くと、ちょうど与喜天満神社にあたります。つまり、三輪山の緯度線と琵琶湖の最南端を通る経度線が交差する地点に、伊豆加志本宮が建立されたと考えられるのです。

与喜天満神社の美しい境内
与喜天満神社の美しい境内
更にもう1本のレイラインが存在します。天孫降臨の聖地として名高い高千穂神社と剣山を結ぶ線が、与喜天満神社境内の北側において、ちょうど三輪山の緯度線と交差しているのです。伊豆加志本宮に至る直前の遷座地は籠神社と真名井神社に比定される吉佐宮であり、剣山が重要な指標として用いられた可能性が高いことは前述したとおりです。その吉佐宮に結び付けられていた剣山が、次の遷座地である伊豆加志本宮の地を特定する際にもレイラインの指標として用いられていたことに注視する必要があります。剣山が当時、突如として重要な存在になってきたことの証と言えるでしょう。

もし、初瀬の地、与喜天満神社周辺に伊豆加志本宮があったという推測が正しいと仮定するならば、その場所は三輪山に直結する聖地であり、様々な神宝が埋蔵されていることで知られる神島と、聖山として崇められている二上山、日本最大の水源である琵琶湖だけでなく、四国の聖山である剣山と天孫降臨の地、高千穂にも紐付けられていたことになります。与喜天満神社境内の磐座 鵞形石
与喜天満神社境内の磐座 鵞形石
特に、吉佐宮のレイラインで初めて浮上した剣山が、与喜天満神社のレイラインでも同じく名を連ねていることには大切な意味が隠されていると考えられます。また、神島が三輪山と与喜天満神社を結ぶレイライン上に存在することも重要です。何故なら、沖ノ島と同様に、人々が近づきづらい離島に神宝を秘蔵することは古代の常道手段であったからです。よって、神島と同様に与喜天満神社と紐付いている摩耶山や剣山にも、神宝が隠された可能性が見えてきます。レイラインの考察から、伊豆加志本宮も神宝に関わる重要な拠点のひとつであったことがわかります。

伊豆加志本宮のレイライン
伊豆加志本宮のレイライン

奈久佐浜宮(浜宮、日前神宮)のレイライン

本殿横に隣接する豊鋤入姫神社を含む6つの摂社殿
本殿横に隣接する豊鋤入姫神社を含む6つの摂社
奈久佐神宮の比定地は、日前神宮の旧鎮座地として知られる紀伊国奈久佐郡、今日の和歌山県名草の浜宮であるというのが定説です。豊鋤入姫命は崇神天皇51年、名草郡毛見の海辺、現在の浜宮神社の地に奈久佐浜宮を造営し、そこで神宝を3年間斎き祀りました。その時、神武天皇の東征の際に天道根命によって海中の岩上に奉安された日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)も奈久佐浜宮に遷され、一緒に祀られることになりました。浜宮神社では結果として一時期、天照大神と一緒に日前国懸両宮の御神体となった鏡が共に奉祀されることになったのです。そして崇神天皇54年、天照大神が次の遷座地である名方浜宮に遷座された後も、日像鏡と日矛鏡は浜宮神社に鎮座し続け、海中の岩上から遷されてから30余年を経た垂仁天皇16年、現在の日前国懸両宮の地に遷座したのです。日前神宮と国懸神宮の御神体は浜宮神社に由来し、天照大神との深い歴史的繋がりがあったことがわかります。

奈久佐浜宮のレイラインは浜宮神社と日前神宮、双方の聖地を通り抜ける複数のレイラインを考察することになります。まず、奈久佐浜宮元来の遷座地である浜宮神社のレイラインを検証してみましょう。浜宮神社を通り抜ける1本目のレイラインは、神倉山と熊野本宮大社を結ぶ線です。神倉山は熊野における海岸沿いの聖地として極めて重要な位置付けを持ち、天照皇大神を祀る浜宮神社の本殿
天照皇大神を祀る浜宮神社の本殿
数多くのレイラインの指標として重要視されていただけでなく、その名称が示唆するとおり、神の蔵として神宝の行方と秘蔵場所を占う重要な存在であったと考えられます。神倉山から熊野本宮大社に向かって線を引くと、そのレイラインはちょうど和歌浦湾の沿岸にて浜宮神社を通り抜け、最終的に日本海の八雲山の東側に至ります。これは、浜宮神社が神倉山という熊野の原点に存在する聖地、並びに熊野権現と関わっていただけでなく、神宝の聖地である出雲の地とも結び付いていることを意味します。

剣山と浜宮神社を結ぶ線が2本目のレイラインです。この線の延長上に斎宮が存在します。歴史の流れから察するに、斎宮の場所が特定されたのは、神宝が浜宮神社へ遷座された後の時代です。それ故、斎宮の地を特定する際に、この剣山と浜宮神社を結ぶレイラインが用いられ、三輪山を通り抜ける緯度線と交差する場所に、斎宮が造営されたと推定されます。浜宮神社は海岸沿いに存在することから、神倉山と熊野本宮大社を結ぶ1本のレイラインのみで、海岸線と交差する場所を特定することができたのです。また、浜宮神社と三輪山の麓にある檜原神社を結ぶと、そのレイラインは熱田神宮を通り抜けことにも注目です。斎宮と同様に、後世において熱田神宮の地が特定される際に、浜宮神社と檜原神社を結ぶレイラインが検討された可能性があります。

日前神宮の社殿
日前神宮の社殿
日前神宮を通る複数のレイラインにおいては、これらの線引きにより元伊勢の御巡幸に絡む場所が複数見出されただけでなく、元伊勢御巡幸の意味を理解するためのヒントさえも秘められているようです。まず、真名井神社(籠神社奥宮)と日前神宮を南北に結ぶ経度線があります。真名井神社の真南に日前神宮が存在することから、同一経度線上に並ぶように日前神宮の場所が特定されたことがわかります。また、摩耶山も、そのレイライン上にあり、そこが出雲の八雲山と三輪山を結ぶレイラインとの交差点であることも、重要な着眼点です。これら2本のレイラインは、神剣に纏わる伝承に富む出雲と、八咫鏡に絡む歴史的背景を持つ日前神宮2社を三輪山と結び付けるだけでなく、摩耶山と共に、その延長線上に聳え立つ剣山を、新たなる聖山の指標として暗黙のうちに示していたのです。さらに富士山、剣山、そして高千穂神社を結ぶレイライン上に日前神宮の地が存在することも極めて重要です。何故なら、天孫降臨の地である高千穂と、聖山として名高い剣山、そして列島最高峰富士山を紐付ける地として、意図的に日前神宮の地が特定されたと考えられるからです。最後に、日前神宮を通る同緯度線上に沖ノ島があることに注目です。沖ノ島には多くの神宝が埋蔵されおり、神宝の島として知られています。

奈久佐浜宮のレイラインとは、浜宮神社と日前神宮からなるレイラインの結晶です。それは正に、地の力と祖先の力だけでなく、そこに神宝の存在までも結び付けたレイラインの代表格と言えます。奈久佐浜宮のレイラインを通して、真名井神社、籠神社、摩耶山だけでなく、剣山という新たな聖地の存在も浮かび上がってきました。奈久佐浜宮に絡むレイラインは、元伊勢の御巡幸と、神宝の行方に絡む何らかのヒントを後世に語りかけているように思えてなりません。

奈久佐浜宮のレイライン
奈久佐浜宮のレイライン

名方浜宮(伊勢神社)のレイライン

名方浜宮 (伊勢神社)
名方浜宮 (伊勢神社)
名方浜宮の比定地には多くの伝承地が存在します。中でも岡山市番町の伊勢神社は、岡山の北方から児島湾に流れる旭川沿いにあり、「吉備名方浜宮通称伊勢宮」の社号を持つだけでなく、明確なレイラインを構成して、神宝に関連する聖地を結び付ける元伊勢の重要な拠点となっていることから、名方浜宮の比定地である可能性が最も高いと考えられます。広島県の今伊勢内宮外宮神社の社伝にも名方浜宮の伝承が記載され、伊勢神宮内宮と同緯度上に結ばれていることから有力視する向きもあります。しかしながら伊勢神宮内宮は、元伊勢御巡幸の中でも、その最終段に見出され、名方浜宮の後に特定された聖地です。それ故、名方浜宮の場所を見出した時点では伊勢神宮内宮の地は定まっておらず、指標として用いることはできなかったはずです。よって、歴史の流れとしては、伊勢神宮が特定された後、後世において同緯度線上に、今伊勢内宮外宮神社の地が見出されたと想定するべきでしょう。

名方浜宮の最有力候補である伊勢神社の場所は、三輪山の西方を守る瀬戸内の拠点として重要な役割を果たしています。列島の地の力を受け継ぎ、神宝にも結び付く西方の拠点となるためには、他の元伊勢と同様に古代の聖地とレイライン上で紐付けられることが重要でした。そのためまず、神宝に絡む複数の聖地が厳選され、既に御巡幸された元伊勢の真名井神社(籠神社)も指標の一つとして用いられたのです。そして複数のレイラインが見事に交差する地点が特定され、そこに伊勢神社が建立されたのです。

伊勢神社の重要な地理的位置付けは、5本のレイラインが中心点を交差するという極めて珍しい現象を地図上で確認することにより、理解することができます。まず、既に豊鍬入姫命が御巡幸された元伊勢の地として名高い真名井神社(籠神社)と天孫降臨の聖地、高千穂を結びます。次に、神剣と絡む古代聖地である鹿島神宮と、遠く西に離れた神宝の宝庫、宗像大社の辺津宮を結びます。さらに四国南岸の指標である室戸岬と、それまでの御巡幸地を見出すための指標として重視された剣山の頂上を結ぶ線を北方に延ばします。これら3本のレイラインが交差する地点に、伊勢神社は建立されています。他の元伊勢と同様に、鹿島神宮や宗像大社という神宝に深く関わる古代聖地が指標となっているだけでなく、神宝の行方を占う剣山と籠神社(真名井神社)もレイライン上に含まれていることが、伊勢神社が神宝の存在と潜在的に関わっていることの証です。

また、倭姫命の御巡幸の最終段において、伊勢神宮の地を特定する際にも、この伊勢神社の地が、新たなる指標として用いられた可能性があります。吉備の伊勢神社と三輪山を結ぶと、そのレイラインが伊勢神宮の内宮を見事に通り抜けるからです。つまり、伊勢神社と三輪山を結ぶレイライン上に内宮の地が特定されたと推測できるのです。さらに、伊勢神社と富士山を結ぶもう1本の重要なレイラインが存在します。その線上には熱田神宮が登場します。これは後世において草薙剣を宝蔵する場所を探し求めた際に、熱田神宮の地を特定するための指標として、伊勢神社が用いられた可能性を示唆しています。

伊勢神社はレイライン上の繋がりから、天孫降臨の聖地と神宝に絡み、剣山や富士山、籠神社、鹿島神宮、宗像大社とも結び付く、重要な拠点であったことがわかります。そして、それら聖地の地の力を受け継ぎながら、稀にみる5本のレイラインの交差点として不動の位置を占めることになります。そして最終的には、伊勢神宮と熱田神宮、すなわち、天照大神と草薙剣の神宝が秘蔵された聖地を、伊勢神社はレイライン上にピンポイントで示すことになります。

名方浜宮のレイライン
名方浜宮のレイライン

宇多秋宮(阿紀神社)のレイライン

阿紀神社 鳥居
阿紀神社 鳥居
倭姫命が倭国にて豊鍬入姫命より御巡幸を引き継がれた後、満を持して御室嶺上宮(大神神社)を離れ、最初に到達した東方の遷座地が、宇多秋宮に比定される阿紀神社です。奈良県の大宇陀町にある神社の周辺一帯は阿紀とも呼ばれ、古代宇陀の中心地でした。JR榛原駅から南へ7kmほどの場所に阿紀神社は建立されています。榛原からタクシーに乗って阿紀神社へ向かうと、途中、道路に沿って本郷川が流れる美しい光景が目に入り、阿紀神社が水源の豊かな地に建立されたことがわかります。また、宇陀は万葉集に、その地名が記されていることでも有名です。タクシーの運転手が自慢げに、「軽皇子安騎野に宿りたまひし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」と口ずさんでいたほどです。

阿紀神社では天照大神が本殿に、相殿には秋姫命、八重思兼命、天手刀男命が祀られています。天照大神社殿は神明造りであり、堅魚木を10本用いて伊勢神宮と同じ建て方を踏襲しています。阿紀神社が古くから重要視されたのは、単にその場所が三輪山に近く、交通の要所であったからだけでなく、倭姫命が到来する以前、そこに神武天皇も訪れ、宇陀の一角に瓊瓊杵尊の母にあたる秋津姫命と天照大神を祀ったからではないでしょうか。阿紀神社の裏を流れる本郷川の支流
阿紀神社の裏を流れる本郷川の支流
「阿紀神社御鎮座口訣之事」には、神武天皇が天の香山の土を用いて器を作らせ、酒を注いで供え、天神地祇を祀ったことが記載されています。また、「皇大神宮はじめて天降り坐す本所なり」と明記されていることからしても、阿紀神社は伊勢神宮と同様に、天照大神と秋津姫命を祀る重要な場所として古代から認知されたいたことがわかります。
  阿紀神社の周辺は、元来、宇陀の中心であり、そこは皇大神宮の神戸でもありました。太神宮緒雑事記には、「時に国造り、神戸等を進る」とも記され、境内の石燈籠には「神戸大神宮」と刻まれています。1,000戸以上にも及ぶ神宮の神戸は、そのほとんどが伊勢周辺に散在し、畿内の大和国においては「宇陀神戸」の15戸が、唯一の神戸だったのです。それ故、宇陀の地が重要な役割を果たしていたことに、違いはありません。では何故、宇陀の阿紀神社周辺に古代の民が目を留めたのでしょうか。もし、神武天皇が本当に天神地祇を祀るために宇陀の地に目を留めたとするならば、それなりの特別な理由や根拠があるはずです。

阿紀神社の優雅な境内
阿紀神社の優雅な境内
阿紀神社の地が極めて重要であった理由は、その場所を通り抜けるレイラインを検証することによって理解することができます。特筆すべきは、富士山頂と剣山を結ぶレイラインです。このレイライン上に阿紀神社が建立され、東の太平洋側では香取神宮にあたります。香取神宮では主祭神として経津主大神が祀られており、鹿島神宮と同様に、神剣の由緒に富む古代聖地の代表格です。その香取神宮を結ぶレイラインの西側には、富士山をはじめ、阿紀神社と剣山が並んでいます。つまり、阿紀神社は日本最高峰の地の力だけでなく、神宝の由緒とも紐付けられ、それがレイライン上に並ぶ剣山という山の名称にも象徴されていたのです。神武天皇の時代では既に、西日本で2番目の標高を誇る剣山が聖なる山として認知され、山の周辺に集落が築かれ始めていたのかもしれません。いずれにしても、富士山と剣山を結ぶレイラインは、阿紀神社が重要な存在であったことを証しています。

阿紀神社を通るレイラインは、その他にも複数存在します。まず、岡山の伊勢神社と伊雑宮を結ぶ線に注目してみました。伊雑ノ浦に面した伊雑宮は熊野の神倉山と共に太平洋に面した古代のランドマークであり、海を渡って渡来してきた古代の旅人は、そこから紀伊半島に足を踏み入れたと考えられます。国生みの原点にまでも遡る可能性がある伊雑宮であるだけに、古代の重要な拠点の多くは、そこを指標として特定されました。その伊雑宮と、元伊勢の最西端遷座地として豊鍬入姫命が御巡幸された伊勢神社を結ぶと、その線上に阿紀神社が存在します。すると剣山と富士山、そして伊勢神社と伊雑宮を結ぶ2本のレイラインのみで、その交差点に阿紀神社を特定できることがわかります。

阿紀神社 本殿
阿紀神社 本殿
次に宗像大社と斎宮を結ぶレイラインを検証すると、この線も、阿紀神社と並んで1本の直線になっていることがわかります。斎宮の場所を最終的に特定する際に、阿紀神社を基点として宗像大社に紐付け、そのレイライン上に斎宮が見出されたと想定されます。また、室戸岬と熱田神宮を結ぶレイラインは阿紀神社の東に1kmほど離れた箇所を通り抜けることから、レイラインの誤差の範疇であるとも考えられます。すると、熱田神宮の地を特定した際に、阿紀神社と室戸岬を結ぶ線がレイラインの参考として用いられた可能性があります。最後に、真名井神社と石上神宮も検討の余地があります。真名井神社は既に、籠神社の奥宮として御巡幸地の一つとなっています。そこから阿紀神社に線を引くと、そのレイラインは神宝の宝庫とも言われる石上神宮から500mほど離れた地点を通り抜けることからレイラインとして認知されていた可能性があります。

いずれにしても、剣山と富士山、そして伊雑宮と伊勢神社を結ぶ2本のレイラインが交差する地点は地の力を継承する重要な場所となる故、神武天皇はそこで祭祀活動を行い、後世においては阿紀神社が建立されるに至ったと考えられるのです。

宇多秋宮のレイライン
宇多秋宮のレイライン

宇多佐佐波多宮(篠畑神社)のレイライン

篠畑神社の真新しい鳥居
篠畑神社の真新しい鳥居
阿紀神社から北に進み榛原駅を越えた後、更に4kmほど北東方向へ進むと、左側に小高い杜が見えてきます。近年建てられた白色の鳥居をくぐり、長い階段を上っていくと、すぐ左側には、神明造りが際立つ本殿が目に入ってきます。奥まで30m少々しかないような小ぶりな境内ですが、檜皮葺きの末社も建立され、荘厳な雰囲気を漂わせています。佐佐波多宮の祭神は天照大神です。そして宇陀秋宮(阿紀神社)と同様に大倭国造が神田と神戸を奉ったことが皇大神宮儀式帳に記されており、宇陀では古代、神戸村があった阿紀神社の周辺と共に地域一帯が伊勢との深い関わり合いを持っていたのです。

篠畑神社の場所が宇陀の小山に特定された最も大きな要因は、熊野の聖地、神倉山にありました。神倉山と同じ経度線上、すなわち、南北一直線に並ぶ場所に篠畑神社は建立されています。それは、篠畑神社の真南に神倉山があり、その地の力をしっかりと受け継ぐことの象徴となることから古代では重要視されたことでしょう。また、その後、倭姫命の御巡幸は神倉山の経度線を超えて東方に向かうことになることから、その分岐点の目印となる拠点を設けることも重要であったと考えられます。つまり、宇陀の地、倭国を離れて、東方への長旅に出る基点となる場所でもあったのです。

神明造りが美しい篠畑神社の本殿
神明造りが美しい篠畑神社の本殿
南北5kmほどしかない宇陀の盆地において、神倉山と同経度線に並ぶ場所を見出し、新しい社の場所を見つけることは、天文学の知識に豊富であった古代の学者にとってはさほど難しいことではなかったのかもしれません。宇陀から名張にかけては北東方向に川が流れ、古代から人々が行き来できる野道があったことでしょう。そして、川に沿う道沿いの途中に、篠畑神社の地が選別されたのです。
  その場所を特定するためには、レイラインの助けも得たのではないかと推測されます。これまで御巡幸されてきた遷座地を特定する際にも指標として用いられた室戸岬が、篠畑神社のレイラインでも再び姿を見せます。室戸岬と、剣の由緒に富む古代聖地、諏訪大社(上社本宮)を結ぶと、その線上に篠畑神社が存在することがわかります。このレイラインと、神倉山の経度線が交差する地点が、篠畑神社の場所です。また、後述するとおり、国生みの原点にはオノゴロ島の存在が記紀に記されています。その比定地を特定することは極めて難しいことですが、場所が徳島県小松島の日峰神社である可能性があります。すると、天孫降臨の地として名高い高千穂と日の峰山を結ぶレイラインがぴたりと篠畑神社と繋がることがわかります。

宇多佐佐波多宮のレイライン
宇多佐佐波多宮のレイライン

市守宮(蛭子神社)のレイライン

倭国から始まった豊鍬入姫命による御巡幸は、当初、北方の丹波国、吉佐宮(真名井神社)に向かい、一旦倭国の伊豆加志本宮に戻った後、南方の紀伊国奈久佐浜国(日前神宮)を目指します。その後、神宝は西方の吉備国名方浜宮(伊勢神社)に遷座されます。これは、三輪山の聖地を中心として、北、南、西の3方向に、天皇の実権と神宝の存在と神威が流布されることを目論んだ結果とも考えられ、残るは東方へ向けての御巡幸のみとなりました。

その後、豊鍬入姫命の御一行は再び三輪山の麓に戻り、倭国の御室嶺上宮(大神神社)に神宝を遷座して、半世紀以上に及ぶ御巡幸の旅を終えられます。そして高齢を迎えられた豊鍬入姫命は、「吾日足りぬ」と語られ、その時点から神宝の行く末の鍵を握る東方への御巡幸は、妹の倭姫命に委ねられたのです。倭姫命に託された神宝は6年の年月をかけて、過御室嶺上宮、宇多秋宮、佐佐波多宮の3か所に遷座され、倭国に留まりました。そして満を持して神宝は再び倭国を離れ、残された三輪山の東方へと向かいます。

蛭子神社の鳥居
蛭子神社の鳥居
最初の拠点が伊賀国、今日の三重県名張市にある市守宮でした。市守宮の比定地は幾つかあるものの、「隠市守宮」と刻まれた真新しい石柱が建てられている蛭子神社の周辺である可能性が一番高いようです。大型台風の際には名張市が一面、湖沼化し、川が氾濫することも頻繁にあり、蛭子神社の場所もかつては1kmほど離れた宮ノ木にあったという伝承も残されていることから、御遷幸地を特定することは難しいでしょう。しかしながら、そのような災害の歴史を繰り返したが故に、市守という名があてられるようになったのかもしれません。社伝には皇大御神が遷られた際に、一ノ瀬の鮎が神饌として祀られたことも記載されています。そして蛭子神社の祭礼エビス市が盛んになるにつれて、蛭子神社周辺は栄えたのです。

市守宮は、倭姫命の御一行が東方へと旅立った後の最初の拠点であることから、その位置決めについては事前に、十分な協議がなされていたはずです。そしてレイラインの検証が綿密に行われた結果、市守宮がレイラインの交差点に特定されたのです。その場所に建立された蛭子神社は、複数の線が神宝に関わる拠点を結ぶレイライン上に存在するだけでなく、元伊勢の御巡幸となる次の遷座地、穴穂宮とも結び付く要因を秘めていたのです。

蛭子神社 本殿
蛭子神社 本殿
市守宮(蛭子神社)のレイラインにおける中心線は、剣山と三輪山を結ぶ線です。この一直線上に蛭子神社も見事に並んでいます。そのレイライン上に神宝の遷座地が求められたということは、聖地三輪山に関わる神宝の拠点として、古代の民は剣山を重要視していたことがわかります。もう一つのレイラインは、剣の由緒を持つ諏訪大社前宮と室戸岬を結ぶ線です。この2本のレイラインの交差点に蛭子神社が建立されています。また、その場所は、出雲の八雲山と伊勢神宮を結ぶレイラインにも重なっています。それは、伊勢神宮の地を最終的に特定する際に、八雲山と市守宮を通り抜けるレイラインも検討され、その線上に伊勢神宮内宮が見出された可能性を示唆しています。こうして、倭国を離れた後、東方に向かう最初の遷座地となった市守宮は、レイラインを介して三輪山や神宝に絡む大事な聖地である諏訪大社と結び付いていただけでなく、それまで遷座地と同様に、再び剣山に紐付けられることになりました。

これだけの由緒ある聖地が見事に結び付けられたレイラインの交差地点に蛭子神社が建立されたということは、古代の識者がレイラインの原則に則り、熟考を重ねた上で、その場所を見出したという背景があったことに他なりません。蛭子神社が発行する案内書には、蛭子神社が古来より「市守宮(いちきのみや)」という別称で呼ばれていたことが記されてはいるものの、残念なことに、「倭姫命世紀」を伊勢遷宮伝説と称し、「架空の物語」としています。しかしながら、古代の英知は計り知れず、蛭子神社の創始と御鎮座の由来についても、レイラインの考察なくしては説明がつきません。そして「倭姫命世紀」の記述が史実であるという前提において、元伊勢の遷宮地に関わるレイラインを全て検証すると、後述するとおり、意外な真実が浮かび上がってくるのです。「倭姫命世紀」には、辺境の各地を巡歴された倭姫命の功績が記載されていますが、その背景には多大な苦労の積み重ねがあったことを市守宮のレイラインからも垣間見ることができます。

市守宮のレイライン
市守宮のレイライン

穴穂宮(神戸神社)のレイライン

神戸神社の鳥居
神戸神社の鳥居
倭姫命が6年間、伊賀国を御巡幸した際、2つ目の遷座地となったのが穴穂宮です。そこでは他の遷座地よりも長い4年という期間、神宝が斎祀られました。「倭姫命世記」には、穴穂宮の伊賀国造奉進地に関する記述が含まれ、記載内容も他の御遷幸地と比較すると多いことから、重要な拠点として考えられていたことがわかります。穴穂宮では元来、天照大日孁貴命(天照大神)と天児屋命、倭姫命、そして祭祀を司る神として知られる天太玉命が、祭神として祀られていました。

穴穂宮の比定地は神戸神社というのが通説です。神戸神社は明治時代に合祀される以前は穴穂宮と呼ばれ、伊勢神宮とも深い関わりを持っています。神戸神社の由緒によると、式年遷宮の翌年には神宮古材を拝領賜わり、本殿の造営を二十年毎に行っているだけでなく、神嘗祭には懸税として伊勢神宮内宮、外宮それぞれに米三俵ずつ奉納するそうです。さらに神宮神田での御田植祭や秋の抜穂の御奉仕も含め、古来より伊勢神宮に結び付く神事が継承されていることでも知られています。

穴穂宮のレイラインは、元伊勢に絡む数多くのレイラインの中でも特筆に値するほど、複数の聖地を一直線に結び付ける重要な三輪山のレイラインが含まれています。その線上には紀伊半島の西方沿岸から東に向かって、金剛山、橿原神宮、三輪山、穴穂宮、そして熱田神宮が並びます。三輪山を中心とするレイラインで、これだけ著名な聖地が一直線に並ぶことは珍しく、それだけ穴穂宮の位置付が重要視されていたことになります。金剛山は葛木岳、または高天原山とも呼ばれ、その山頂は神域として禁足地になっているだけでなく、高天原伝承地のひとつにも数えられている聖地です。シンプルで美しい神戸神社の境内
シンプルで美しい神戸神社の境内

  このレイラインの東端に存在し、草薙剣が宝蔵されることとなる熱田神宮は、穴穂宮の地を特定するにあたり、レイラインの指標のひとつとして用いられた可能性があります。しかしながら、熱田神宮の地が史書において話題に上るのは、日本武尊の時代になってからのことです。よって、穴穂宮の場所が金剛山、橿原神宮と三輪山を結ぶレイライン上に特定された後、同一レイライン上に熱田神宮の地が見出されたと考える方が、歴史の流れから察するに、よりわかりやすい解釈と言えます。いずれにしても、同一線上に置かれたこれらの聖地は、何かしら潜在的に熱田神宮の草薙剣と絡んでいると考えられ、それをレイラインが象徴しているのです。

この三輪山を通り抜けるレイラインと交差するレイラインが、さらに2本存在します。まず、元伊勢の御巡幸が始まった際、第3番目の遷座地となった伊豆加志本宮(与喜天満神社)と、諏訪大社前宮を結ぶレイラインに注目です。その線上に穴穂宮が存在することから、そのレイラインと三輪山のレイラインが交差する地点が特定され、そこが穴穂宮の建立地になった可能性があります。もうひとつのレイラインは、諭鶴羽山と二上山を結ぶ線です。このレイラインは奈良の石上神社近郊を過ぎると、穴穂宮の地をぴたりと通り抜けることから、このレイラインも穴穂宮の地を特定する為に用いられたのではないでしょうか。

これら3本のレイラインが交差する中心点に穴穂宮が存在するという事実は、その場所がレイライン上で繋がる拠点をベースに見出されたことを示唆しています。金剛山は高天原の伝承を残す聖地でもあることから、高天原で造られた八咫鏡などの神宝が思い起こされます。諭鶴羽山は、大陸から到来した外来の神と熊野権現の象徴です。二上山は古来より雄岳と雌岳の頂上周辺に太陽が沈む様子から聖山として崇められ、そのそばに聳え立つ三輪山は、神御自身が示された倭国の聖地であり、元伊勢の御巡幸が発祥した大本の地でもあります。また、橿原神宮は建国の始祖となられた神武天皇の皇居であり、そして諏訪大社と熱田神宮では神剣の由緒が語り伝えられてきています。

これらの由緒を総合すると、大和国を代表する重要な聖地の数々と穴穂宮は、レイラインを介して結び付いているだけなく、それらの背景には草薙剣を含む神宝も存在していたことがわかります。穴穂宮のレイラインとは、神宝に絡む由緒ある社と、古代の聖地を結びつけて構成された線引きの集合だったのです。それ故、穴穂宮は、そこから東方へと続く元伊勢御巡幸の行く末に大きな影響を与える大切な拠点となったのです。穴穂宮のレイラインは、その線上に存在する聖地の結び付きから、今日でも変わらず大切なメッセージを発信しています。

穴穂宮(神戸神社)のレイライン
穴穂宮(神戸神社)のレイライン

敢都美恵宮(都美恵神社)のレイライン

神社近隣に建てられた「敢都美恵宮遺跡」の石碑
神社近隣に建てられた「敢都美恵宮遺跡」の石碑
敢都美恵宮が位置する伊賀郡の柘植周辺は、その北方へは甲賀を経て山城国に、西方へは伊賀の国府を経由して大和国に向かうことができます。また、東方へは伊勢国を抜けて東海道に向かうこともできる、つまり交通の要所でした。そのような地の利を有する場所に、皇大神宮儀式帳には「阿閉拓殖宮」とも記載されている敢都美恵宮が建立されたのです。
  敢都美恵宮の比定地は、都美恵神社と考えられています。JR柘植駅から1km程歩くと、「敢都美恵宮遺跡」と記された石碑があり、その真横に記載されている由緒によると、倭姫命が垂仁天皇2年に御巡幸され、それから穴石社殿に遷られたとされています。その穴石神社が改称されて、都美恵神社になったのです。都美恵神社の名前は、「敢都美恵宮」から「敢」の文字をとったと考えられています。
  都美恵神社の祭神は、国生みに登場する高皇産霊神の娘である栲幡千千比賣命と、経津主命、そして布都御魂命であり、相殿には倭姫命が祀られています。経津主命と布都御魂命という祭神の存在から、都美恵神社の創始には、神剣が関わっていたことがわかります。そして、レイラインを検証することにより、その史実がさらに明らかになります。
  荘厳で広々とした都美恵神社
荘厳で広々とした都美恵神社
敢都美恵宮の比定地である都美恵神社を通るレイラインは、神宝の剣に纏わる聖地に直結しています。まず、倭姫命が御巡幸された穴穂宮に続き、熱田神宮がレイラインの指標として用いられていることに注目です。そして、熱田神宮と剣山の頂上を一直線で結ぶ線上に、敢都美恵宮が建立されています。熱田神宮の地は、後世においては草薙剣が秘蔵されることとなる比類なき聖地であり、神宝そのものである剣の名称で親しまれてきた剣山と、レイライン上で結び付けられることには重要な意味があります。これは正に、敢都美恵宮が、神宝である剣に関連する重要な拠点となったことを意味するだけでなく、剣山も、草薙剣の行方を占う大切な聖地として、その存在を知らしめることになるのです。

熱田神宮と剣山を結ぶ線と交差するもうひとつのレイラインが、足摺岬と守屋山を結ぶレイラインです。この2本目の線により敢都美恵宮の場所が、レイライン上に特定されることになります。足摺岬は古代有数の旅の指標であり、多くの拠点が見出されてきました。また、足摺岬と結び付けられた守屋山は諏訪大社前宮の裏に聳え立ち、諏訪大社の御神体ではないかとも語り継がれ、諏訪大社にも剣に関連する伝承が残されています。伊勢神宮に向かって拝む神宮遙拝所
伊勢神宮に向かって拝む神宮遙拝所
さらに守屋山の中腹にある守屋神社でも、剣が奉納されていたという謂れがあります。その足摺岬と守屋山を結ぶレイラインと交差する場所に、敢都美恵宮が建立されたのです。
  敢都美恵宮の聖地は、剣山、熱田神宮、そして諏訪大社の守屋山という、剣に纏わる由緒を持つ場所に結び付く象徴となるべく、元伊勢の聖地のひとつとして、その場所が特定されたのです。敢都美恵宮こそ、神宝の剣を大切に祀るべく建立された、古代の大切な神社であったのです。

敢都美恵宮(都美恵神社)のレイライン
敢都美恵宮(都美恵神社)のレイライン

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部