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元伊勢と三輪山のレイライン Vol.VI
伊勢へと船出する倭姫命を陰で支えた船木氏の存在

伊勢への船旅の基点となる中嶋宮

倭国の笠縫邑から始まった御巡幸の旅は、美濃国の伊久良河宮から尾張国中嶋宮へと向かった時点においては、既に70余年という長い年月が流れていました。伊久良河宮の近郊には長良川や木曽川と呼ばれる一級河川が流れ、濃尾平野の中心を通り抜けて伊勢湾に注がれています。倭姫命御一行は、これらの大河を下って伊勢湾に出た後、海岸沿いを伊勢に向かうことになるため、旅路の様相が一変したのは言うまでもありません。それまでの陸路の旅とは相対して、水路が重要視されることになったのです。

伊久良河宮を旅立った倭姫命御一行は、伊勢湾の荒波に至る途中、まず、尾張国の中嶋宮にて一時を過ごしたことが倭姫命世記に記されています。日本書紀には中嶋宮の記述はなく、倭姫命御一行は美濃国を旅立った後、そのまま伊勢国に向かったと伝えられています。当時、中嶋宮の地域は美濃国造の支配下にあった可能性があり、そのため、日本書紀では記述が割愛されたのでしょう。尾張国の本神戸は中島郡にあり、太神宮諸雑事記にも皇大神が「尾張国中島郡に一宿」と記載されていることからしても、御一行は中嶋宮に滞在したと考えられます。

尾張国中嶋宮での滞在期間は短く、実際には数日程度のものだったかもしれません。しかしながら、倭姫命世記における中嶋宮に関する記述は、伊勢国を除くと元伊勢の中でも、大和国の宇多秋宮と笠縫邑に次いで3番目に長いのです。それ故、中嶋宮での出来事が重要であったことがわかります。しかもその内容は船の話に尽きています。

「時に美濃国造等、舎人市主・地口御田を進る。並びに御船一隻を進りき。同じき美濃の県主、角鏑(つのかぶら)作りて、御船二隻を進る。」

これら3隻の船が中嶋宮にて全て用意されたのか、それとも伊久良河宮から乗り出した船が、改めて正式に献上されたのか、詳細は定かではありません。いずれにしても中嶋宮から伊勢へ向けて3隻の船が出港することになったのです。

ヘブライ語で解明する倭姫命世記

倭姫命世記には献上された船に関して、「捧げて船は天の曾己立、抱船は天の御都張」と記載されています。この文面の意味は不透明であり、「天の曾己立」については船が堅牢なことを意味し、「抱船」は捧ぐる船、抱く船と解釈する説がある程度です。特に「御都張」については全く不詳であり、解説さえ見られません。

古文書には倭姫命世記に限らず、記紀なども含め、ヘブライ語が含まれていることがあります。よって難解な箇所についてはヘブライ語をあてて読むと、意味が明らかになることが意外と多いのです。

「捧げて船は天の曾己立」は、ヘブライ語で「曾己立」を解釈することにより、文の意味が理解できます。「曾己立」の語源はヘブライ語の sokhreem、ソコリ (sokhreem、ソコリ)であり、「借りる人」「借家人」、時には「雇用主」を意味します。言葉のルーツには商いをする中、エージェントや代理人、賃貸人となるようなニュアンスが含まれています。すると「天の曾己立」とは、天の神が雇用主となって借りてくださることを意味することになります。よって、「捧げて船は天の曾己立」とは、献上された船を神が雇用主として管理してくださる故、敵や自然の災難から船が守られることを象徴する意味であったと考えられます。次に理解が難しいと言われている「御都張」ですが、その原因は「ミトハリ」という日本語の読みをそのまま当てることにあります。「御都張」は「ミツバ」というヘブライ語に漢字を当てたものであると理解することにより、作者の意図が明確になります。

イスラエル人なら誰でも知っている「ミツバ」については、旧約聖書のサムエル記上巻7章に記されています。預言者サムエルの時代、敵国からの攻撃にさらされながらも、神から授かった契約の箱は大切に守られ、20年という長い年月が経ちました。そして大勢の民が神を慕い求めたことを機に、サムエルは「ミツバ」に民を結集させ、共に断食をもって神の御前にて祈りを捧げ、神の助けを叫び求めたのです。その後、イスラエルは敵国に圧勝し、平穏な日々を過ごすことができるようになりました。「ミツバ」とは、契約の箱の存在と共に、神に祈り求めて平安を得ることができる聖地の象徴だったのです。それ故、「抱船は天の御都張」とは、神宝を抱く船とその民が、「ミツバ」にて契約の箱とイスラエルの民が天の神によって守護されたように、敵から守られ平安に過ごすことができる、という祈りの言葉であったのです。

その後、イスラエルの民は契約の箱を担ぎながら各地を移動し、最終的に神から約束された聖地であるエルサレムに神殿を建立し、そこに聖櫃を収めました。エルサレムはヘブライ語で平安の都を意味し、聖櫃が宝蔵されたその神殿にて日々、大勢の民は祈りを捧げたのです。一方、倭姫命御一行は大切な神宝を携えながら各地を巡り回り、最終地点である伊勢にて神宝を祀り、その伊勢の森にて壮大なスケールの神社を建立し、そこで日々、祈りを捧げることになったのです。伊勢とはヘブライ語で「神の救い」を意味しています。双方の史実を照らし合わせると、多くの類似点があることに気づかされます。

中嶋宮の比定地となる酒見神社

酒見神社正面にある皇大神宮御聖蹟の標識
酒見神社正面にある皇大神宮御聖蹟の標識
倭姫命御一行が滞在し、3隻の船が献上されたという伝承が残る中嶋宮の比定地の中でも、圧倒的に有力視されているのが酒見神社です。尾張国中島郡神戸郷に位置する酒見神社は、古代、北大門大明神とも呼ばれていました。その名称は、美濃国より来られた倭姫命御一行をお迎えするための大きな門が神戸郷の北側に作られたことに由来すると伝えられています。また、酒見と呼ばれる所以は、近郊で良質の米が収穫されたことから、酒造師が伊勢より来られて伊勢の祭りにて供える酒を造ったことにあると、文徳録に記されています。それが国内における清酒醸造の始まりとも言われ、酒見神社の名前が広く知れ渡った所以です。境内の中には醸造の際に使用された聖地の古泉とも言われる栄水の井(さかみのいど)があり、古くから禊のためにも大切に用いられていたことが社伝に記されています。

伊勢神宮に向って祈りを捧げる皇大神宮遥拝所
伊勢神宮に向って祈りを捧げる皇大神宮遥拝所
酒見神社の御祭神は天照大神、酒弥豆男神、酒湯弥豆姫神です。広い境内の正面、鳥居の横には「皇大神宮御聖蹟」と記された標識が立ち、境内の中には皇大神宮遥拝所があります。本殿裏には倭姫神社があり、その奥には磐船と呼ばれる一対の石が垣根の中に聖別されています。また、造酒用の石槽もあり、中嶋宮が醸造と深い関係があったことがわかります。そして本殿の東側には高さ1mほどの石があり、倭姫命の御姿石であると伝えられています。

倭姫命御一行が短期間しか滞在しなかったにも関わらず、倭姫命世記における中嶋宮の記述は、他の元伊勢と比較しても内容が長いだけでなく、船が3隻も献上されるという特異な内容が含まれていることに、今一度注目してみました。それら史実の背景には、どうやら皇族の血縁関係が潜んでいるようです。日本書紀によると、美濃国造は日子坐王の子である神大根王(かむのおおねのみこ)の子孫です。また、倭姫命の母である比婆須比売命の伯父君は神大根王であることから、倭姫命と美濃国造とは深い血縁関係によって結ばれていたことがわかります。

酒見神社の磐船
酒見神社の磐船
倭姫命が美濃国伊久良河宮を訪れた際、もしかすると御一行をお迎えしたのは神大根王御自身であったかもしれません。そして倭姫命御一行が安心して神宝を搭載し、水上の旅に出ることができるよう美濃国造に働きかけたのではないでしょうか。その結果、造船技術を極めた海人豪族の船木氏が美濃国に召集され、短期間で船が造られたのです。そして新しく手掛けられた船は、長良川、木曽川を中嶋宮まで下り、正式に献上されることになったと考えられるのです。こうして美濃国造をはじめとし、神大根王の呼びかけに応えた大勢の民が祝福する中、倭姫命御一行は伊勢に向けて旅立ったのです。

中嶋宮(酒見神社)のレイライン

上古皇大神宮に進貢する神酒を醸した石槽(いわふね)
上古皇大神宮に進貢する神酒を醸した石槽(いわふね)
美濃国伊久良河宮から伊勢に向かう途中の中嶋宮(酒見神社)は、地図上では一見、孤立した場所にも見えますが、他の元伊勢の例にもれず、レイラインの観点から検証すると、大変重要な位置づけにあったことがわかります。
  まず、四国剣山と諏訪大社前宮の裏山にあたる守屋山を結ぶレイラインに注目してみました。この線が酒見神社を通り抜けます。剣山は元伊勢に紐付けられた最重要拠点であり、元伊勢の御巡幸という計画に秘められた聖地です。また、守屋山は諏訪大社の御神体という説もあるほど、古代より神聖な山とみなされており、その麓には守屋神社や諏訪大社上社が建立されています。守屋山と諏訪大社に纏わる伝承を頼りに、今日ではイスラエル人が礼拝に訪れるほど有名になりつつあります。

酒見神社を通る経度線と緯度線にも注目です。酒見神社の南方には、ほぼ同経度の線上に、伊勢神宮の元宮とも言われている伊雑宮が存在します。伊雑宮は元伊勢のひとつであるだけでなく、その伊雑宮を基点として多くの聖地が見出されました。伊雑宮の存在があったからこそ、伊勢の内宮、外宮へと、歴史が展開した酒見神社本殿
酒見神社本殿
のです。
  また、富士山頂の南端と同緯度のレイラインも酒見神社を通り抜けています。これらのレイラインはみな、酒見神社で交差しています。更には九州の聖山である阿蘇山と四国石鎚山を結ぶ線が酒見神社に繋がることにも注目してみました。阿蘇山が古代のレイラインに含まれていることは稀ですが、石鎚山という西日本最高峰と結び付けることにより、酒見神社とのレイラインが形成されるように見られることから、レイラインの考察の中に取り入れられた可能性があります。
  これらの4本のレイラインだけで、日本列島最高峰なる富士山と西日本最高峰の石鎚山、四国と九州の聖山である剣山と阿蘇山という4つの日本を代表する偉大な山に、酒見神社が紐付けられていたことになります。また、列島内の最も古い集落の一つとして栄えた諏訪湖畔近くの諏訪大社前宮と、西アジアから日本に渡来した初代の神々が見出した最も古い集落のひとつとなる伊雑宮が、これらのレイラインに含まれていることも、極めて重要です。古代、中嶋宮が重要視されていた理由がレイラインの考察からわかります。

中嶋宮のレイライン
中嶋宮のレイライン

水上の御巡幸を支えた船木氏の存在

神宝を携えた御巡幸の最終段が水上の旅という画期的な出来事の背景には、その後、海人豪族として全国各地で名声を轟かせた船木氏の存在があったことも見逃せません。倭姫命が乗船された船は、中嶋宮にて献上され3隻のうちの1隻であると考えられ、これらの船はいずれも伊久良河宮の近郊で同時期に造船された可能性が高いのです。短期間で大型の船を造るためには、優れた造船技術と経験を誇る優秀な職人の存在が不可欠です。また、海人豪族の名を馳せた実権者として、神宝を携えながら旅する倭姫命御一行の船団を護衛する責務も問われたことでしょう。そのような造船技術と資金力、政治力を持つ生粋の海人豪族こそ、船木氏でした。

古代社会においては大陸経由の教養が知識層にとっては重要であり、それなくしては、高度な航海術や造船技術を身につけること自体が不可能でした。それ故、大陸系の豪族や皇族の流れを汲む部族以外に、大型の船を造ることなど到底ありえず、ごく限られた部族のみがそのノウハウを持っていました。その造船技術に抜きんでていたのが船木氏です。よって元伊勢の御巡幸という1世紀近くをかけた国家レベルの祭事が執り行われている最中、その最終段の旅路にて船が必要とされた時、突如として船木氏は歴史にその名を現したのです。

船木氏の背景については、史書には限られた情報しか残されていません。ごく一般的に船木氏は、伊久良河宮のある美濃国本巣郡船木郷より起こり、その後、伊勢国多気郡の地にて拠点を確立した後、播磨周辺へと移動し、そこから全国各地へと船木氏の拠点を拡散していったと考えられています。倭姫命による元伊勢御巡幸は第11代垂仁天皇の時代に行われたことから、船木氏が本巣郡に台頭したのは1世紀頃と推測されます。

船木氏の出自は、古事記の神武記に記載されています。そこには神武天皇の第二皇子である神八井耳命を祖とする氏族のひとつとして、「伊勢の船木直」が含まれています。すなわち船木氏とは、神武天皇の皇子、神八井耳命から出た多臣族であり、皇族の流れを継ぐ豪族だったのです。神武天皇の先代、記紀に登場する神代の神々の中でも最も古い民は、アジア大陸の西方から長い年月をかけて船で海を渡り、アラビア海、ベンガル湾、シンガポール、南シナ海、台湾などを経由して、南西諸島から列島に到来したと考えられます。よって渡来者の中には航海術と造船技術に長けた部族も存在したに違いなく、先祖代々、その船造りの職務を担ってきた豪族の流れを汲む一族が船木氏だったのでしょう。そして元伊勢の御巡幸が水上の旅へと移り変わる際には、その優れた造船技術で名声を博していた船木氏は、天皇や神大根王、美濃国造らの命により本巣郡へ召集され、短期間に船を造り上げただけでなく、船旅の守護神としてその後、倭姫命御一行を護衛することにもなったと考えられるのです。

船木氏が多臣族であることは、伊久良河宮から伊勢に至るまで川を下って海沿いを航海した際、船木氏が滞在したと考えられる拠点にて建立された神社の社伝からも理解することができます。例えば四日市の耳常神社では神八井耳命が祀られています。その社伝によると、寛永の時代頃までは、伊勢国の船木直の子孫が耳常神社を守っていました。同じ四日市市の太(おおみわ)神社も神八井耳命を祭神とし、大正時代には石部神社に合祀されるも、その社伝には船木氏が奉仕をしていた記録が残されています。神八井耳命を祀る神社で船木氏が奉仕する理由は、その子孫に船木氏が名を連ねているからに他なりません。

また、住吉大社神代記によると船木氏の遠祖は大田田命であり、大物主神の子として三輪山にて大物主神を祀った三輪氏の祖、大田田根子のことであるというのが定説です。元伊勢の御巡幸が始まる直前の崇神天皇の御代、疫病や災害が続き、天皇の夢に現れた三輪山の大物主神のお告げにより、大物主神の子である大田田命が大阪の堺市・和泉市の方から召集され、大神神社の神主となったのです。船木氏の祖は、神武天皇の血統を汲む神八井耳命だけでなく、元伊勢の原点となる三輪山と深く絡む大物主神と大田田命の末裔でもあったことがわかります。それ故、前述した船木氏が管轄した神八井耳命を祀る太神社では、「太」を「おおみわ」と読み、三輪山の大神神社と船木氏との結び付きまでも示唆したのでしょう。船木氏の背景には、大物主神と三輪山、そして神武天皇の存在があったのです。

住吉大社神代記には、船木氏の祖である大田田命の子、神田田命のそのまた子、つまり大田田命の孫である背都比古命が富止比女乃命を娶って伊瀬川比古乃命(いせつひこのみこと)を生み、伊西(イセ)の船木を拠点としたことも記されています。美濃国の本巣郡を基点として始まった船木氏の流れは、その後、木曽川から伊勢湾沿いにかけて各地に拠点を設けながら、元伊勢の御巡幸が完結した時点において、伊勢の船木に集落を築いたのです。大田田命の家系に属する伊瀬川比古乃命が伊勢の船木に集落を築くことにより、元伊勢御巡幸の出発点である三輪山と、その最終地点の伊勢双方が、大田田命を祖とする船木氏とも結び付いていることがわかります。

船木氏の祖であり、大八嶋国にて日神を出し奉る大田田命、神田田命は元来、東播磨にある九万八千余町の杣山とも呼ばれる住吉・椅鹿山神領地を古くから領有し、大社の増改築のために材木を供給しただけでなく、造船用の木材を伐り出す山林としても重宝されました。そして元伊勢の時代の直後、神功皇后の時代では、船木連氏によって管理されていた杣山、住吉・椅鹿山神領地の多くは住吉大社へ寄進されました。また、神功皇后が新羅出征をされた際には、船木氏らが自ら領有する山を伐って船三艘を造り、その船に乗って皇后は新羅に遠征し、凱旋したことが、住吉大社神代記の船木等本記に記載されています。その後、第12代景行天皇の時代、武内宿禰により、その船は祀られることになりました。

伊勢から播磨へと移動する船木氏

御巡幸地の最終地点である伊勢国に拠点を構え、伊勢国に根付くと思いきや、船木氏も自らの本拠地を伊勢から西方への播磨へと移動することになります。倭姫命御一行を伊勢まで送迎した後、時を経て船木氏は、住吉大社のある摂津から更に足を伸ばし、播磨の加茂郡や明石、今日の兵庫県へと本拠地を移したのです。東播磨の地は、古くから船木氏の祖、大田田命らが高質な山林を誇る杣山を保有していたこともあり、船木氏にとっては縁の深い地でもありました。

播磨の加茂郡はその後、加東郡となり、今日では兵庫県の加東市・小野市に分けられています。地域を流れる加古川の支流となる東条川の上流には「椅鹿谷」という地名が存在し、その近郊の小野市には船木町の地名も見られ、船木氏が根拠地とした形跡を垣間見ることができます。周辺の山々には良質の材木が多く、伐採に適していただけでなく、それらを運搬するための水路についても、加古川水系の舟運を活用することができたのです。

船木氏の活動拠点は古代の加茂郡に限らず、神代記によると、瀬戸内により近い明石郡でも船木村が存在しました。その明石郡からも封戸として住吉大社へ寄進され、大社に仕えていました。明石郡の垂水郷ある式内社の「海神社」は、その名残と考えられます。 船木氏が明石郡の地を選別した理由は、既に船木氏の一大拠点となっていた播磨の東条川上流に近いだけでなく、船の建造に必要な鉄資材と丹沙の確保に適した地であったからと考えられています。明石川の上流や、その北方の志染川流域一帯は、渡来系の鉄器加工集団が古代、拠点を設けた地域です。その重要性故に、第22代清寧天皇の時代では、近隣に縮見屯倉(しじみみやけ)と呼ばれる朝廷が直接管理した倉庫が作られたほどです。船木氏はこの地域で得られる鉄の重要性に早くから着眼し、それを加工して木造船の船材の一部として役立てることを視野に、地域の覇権を拡大することに早くから着手したのです。

船木氏が注目したもう一つの資源は、木製の船体に塗る朱色塗料の素材として不可欠であった辰砂です。弥生時代から産出されたことが知られている辰砂は、古墳や石棺の彩色に使われただけでなく、朱墨の原料としても重宝され、造船する際に船底を塗装するためにも用いられたのです。また、辰砂は加熱することで水銀蒸気から水銀を精製することもできます。播磨国風土記の逸文によると、明石郡と紀伊国伊都郡の式内社である丹生都比女神社では、ニホツヒメが祭神として祀られ、古くから鉱山の採掘者たちが奉じた神といわれています。船木氏は明石地域だけでなく、その後、海を渡り紀ノ川流域の伊都郡にも進出し、辰砂の確保に努めたのです。古代、辰砂は伊勢国、今日の三重県多気町や和歌山県の吉野川上流が特産地として知られていましたが、そのどちらもが船木氏の拠点であることは偶然ではなかったのです。

こうして船木氏は元伊勢御巡幸の最終地であり、天照大神が祀られた由緒ある聖地、伊勢を後にし、早々と播磨の地へと向かい、そこに一大拠点を作ったのです。前述した鉄や辰砂などの資源は播磨に限らず、他の地域からも掘削することは可能だったでしょう。しかしながら、船木氏にはどうしても、淡路島に近い播磨の地へと向かわなければならない理由があったようです。そして海人豪族でありながら、新天地においては海辺を離れて内陸へと向かい、山地の中に拠点を設けることが少なくなかったのです。

播磨に存在する船木氏の拠点の南方には淡路島が目に入り、その先には四国の剣山を遠くに眺めることもできました。辰砂を掘削するために向かった紀伊国伊都郡、吉野川の上流からも同様に淡路島と剣山を見渡すことができます。もしかすると船木氏は、淡路島と剣山に結び付けられた重大な責務を担っていたのかもしれません。元伊勢の御巡幸にはまだ、謎が残されているようです。

船木氏はイスラエルの出自か?

古事記の記述から、船木氏の祖先は神武天皇の家系に直結し、皇族の流れを汲む一族であることがわかります。神武天皇の先代は、預言者イザヤに導かれてきたイスラエルからの渡来者であり、ダビデ王の血統を継ぐ王族であった可能性が高いのです。よって、その血統を継ぐ船木氏は多臣族とは言え極めて重要な存在であり、大陸で培われた高度な教養と学問に代表される航海術と造船技術を持っていたと考えられます。ここでは、伊弉諾命や、他の日本建国に関わった神々がイスラエル、そしてユダヤの王系に関わった人物であることが名前や歴史的背景からわかるように、船木氏もイスラエル系渡来者の血統を継ぐ家系であったことを、その名前の由来から検証してみたいと思います。

船木、「ふなき」は、舟木、布奈木、など様々な書き方がありますが、なぜ「ふなき」と呼ぶのか、その名称がどこからきたのか、言葉のルーツには定説がありません。「船」「舟」という漢字があてられていることから、単に海人豪族のひとつである、と語り継がれているだけであり、古事記や住吉大社神代記の記述についても、家系の繋がりを記しているにすぎません。

「ふなき」という名前のルーツは、ヘブライ語で理解すると、その意味が明瞭になります。ヘブライ語には hunak、フナッ(ク) (hunak、フナッ(ク))という言葉があり、「与えられた」「授けられた」という意味があります。古代の民にとって、人間が海を渡る、ということは神の恵みがなければできないことであり、ちょっとした判断のミスからでも、海流の難所や荒れた海で船が難破したり座礁し、命を落とすことが多かったのです。よって、船は自然を司る神から守護されるという象徴でもあり、命が守られ、天与の恵みが授けられる象徴となったことでしょう。

その意味を含めたうえで「ふね」という名称は、洪水神話で有名なノアの箱舟のストーリーにも由来していたと考えられるのです。古代、日本へ渡来したイスラエル系の民族は、様々な状況下においてヘブライ語を用いて日本列島という新天地での生活に順応し、同化していきました。その際、ヘブライ語そのものを用いることが多々あり、それらの文字は後世においてカナ文字やひらがなのベースになっただけでなく、様々な名称や日本語そのものの語源にもなったのです。また、ヘブライ語では文字を右から左に書きますが、ヘブライ語自体、子音と母音に分かれているだけでなく、往々にして子音のみで記述されることが多く、左から右に読むこともできるのです。よって日本に到来した古代のイスラエル系民族は、様々な名称を検討する際に、時には左から右、という逆さ読みをすることがありました。

そこで、海上交通に不可欠な乗り物の名称を定める際に、天与の恵みに関連する言葉として、何らかの形でノアの箱舟と結び付ける工夫がされたと推測されるのです。箱舟は命と恵みの象徴であり、海上に浮かび続け、最後には再び陸地に足を踏むことができるという証でもあります。それ故、海に浮かぶ乗り物の名称を、ノアの箱舟に関連付けたと考えられるのです。その結果、その乗り物の名前を「ノア」という名前そのもので呼ぶことにしたのです。「ノア」という名前はヘブライ語では、安息、平穏、平静を意味し、 noah、ノア (noah、ノア)、または noah、ノア (noah、ノア)と書きます。このヘブライ語を左から右に読むと子音だけでは、HUN、HNとなり、その読みは「フナ」とも、「フネ」ともなります。

船木氏は海人豪族として最高峰の航海技術と造船技術を持つ、古代の優れた民族でした。そして日本に渡来した暁には、自らの部族をその象徴となる「船」「舟」という漢字に結び付け、その読みをノアの箱舟という古典的な神の救いに繋がる聖書の話に紐付けたと考えられます。そのために、「ノア」とい名前そのものを用い、それを逆さ読みにして、なおかつ、「フナッ(ク)」という天与の恵みが授けられる意味を持つ言葉に関連づけて、自らを「フナク」「フナキ」と称し、そこに「船木」「舟木」という漢字をあてたのではないでしょうか。船木氏の存在はイスラエル人が古代、日本列島に到来した証でもあり、それはまた、箱舟に乗って大陸から逃れ、日本という新天地において大地に足を踏み入れ、生き延びるという、神の恵みに授かる証でもあったのです。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部