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元伊勢と三輪山のレイライン Vol.IX
元伊勢の御巡幸が終焉する象徴となった瀧原宮の存在

神宝を携えながら各地を旅する元伊勢の御巡幸には1世紀近くの月日が費やされ、壮大なスケールの旅路へと発展しました。神が宿る霊峰、三輪山を中心とする倭国より始まった御巡幸は、当初、豊鍬入姫命によって導かれ、33年間、倭国に滞在した後、更に21年という年月をかけて丹波国、木乃国(紀伊国)、吉備国を回り、再び倭国に戻ってきます。そして倭姫命に御巡幸の責務が引き継がれ、御一行は倭国を再び旅立った後、今度は伊賀国、近江国、美濃国、尾張国を22年の歳月をかけて巡り渡ります。こうして伊勢国へ辿り着くまで、76年という長い年月が費やされたのです。

最終目的地である伊勢国に入った後も、桑名野代宮、奈其波志忍山宮、阿佐加藤片樋宮、飯野高宮へと御巡幸の旅は続き、12年が経過します。元伊勢の御巡幸は、およそ4年周期で近畿地方周辺の各地を巡るという傾向が見られ、伊勢国へ到達した後も、その流れは続きました。そして伊勢国の飯野高宮を出発する時点では既に、88年という長い年月が過ぎていたのです。

御巡幸が長期間になった理由

元伊勢の御巡幸が長期間にわたった理由は、少なくとも3つあるようです。まず、地理的な相互関係を検証しながら確実に御巡幸地を厳選する必要があり、そのため、各地の霊峰や聖地をレイライン上で結び付ける作業に時間を要したからと考えられます。特に四国の剣山と紐付けられる位置を特定することが重要であったことがレイラインの考察から理解でき、古代の天文学と地勢学を駆使して大変な苦労を重ねながら、ピンポイントで御巡幸地を定めようと努力したことが想定されます。

また、地域周辺の民を啓蒙するために時間を費やすことも重要でした。御一行が各地に滞在した際には、国家の安泰と平安を祈願するための神の宮が随所に造営されました。そして神を祀る重要性を庶民に示しながら様々な政策が布かれ、天皇を中心とした国家の体制を堅持することの重要さが、豊鍬入姫命や倭姫命の滞在を通じて古代の民に伝えられたことでしょう。

もうひとつの理由は、神宝の存在に絡んでいます。御一行が携えていた比類なき神宝は、外敵の略奪から守護するために細心の注意を払う必要がありました。新たなる御巡幸地に辿り着く際には神宝を安全に収蔵する場所を確保することが不可欠であり、その保管場所を厳選するためにも十分な時間を要したことでしょう。こうして各地を転々と移動する度に神宝を秘蔵する場所には工夫が凝らされ、いつしか語ることさえもタブーとされ、史書にも記されることもないまま真相は歴史のベールに包まれてしまうことになります。

これらの綿密な計画を遂行した結果、元伊勢御巡幸は長旅にならざるを得なかったと考えられます。そして伊勢国へと向かう最終段の御巡幸の旅は、川と海を船で渡ることとなり、大切な神宝は海人豪族により護衛され、最終目的地へと運ばれることになります。

御一行が五十鈴宮へと急がれた理由

伊勢国の飯野高宮を離れた後、御巡幸の旅はこれまでとは様相が一変し、そのスピードが一気に加速します。そして倭姫命の御一行は1年もかけずに、およそ6か所の御巡幸地を足早に移動し続け、最終目的地である五十鈴宮、皇大神宮へと向かったのです。飯野高宮から五十鈴宮へと何故、急がれたのでしょうか。

まず、これまでの御巡幸地がすべてレイラインによってしっかりと紐付けられ、五十鈴宮の場所もレイライン上で確認できたことから、もはやこれまでどおり、それぞれの御巡幸地においてじっくりと時間をかけて過ごす必要がなくなったことが考えられます。またレイラインの考察からは、御巡幸地の中心となる神の宮の場所が特定できるだけでなく、神宝を保管する秘蔵場所についても、その考え方や方向性においてヒントを得ることができます。それ故、御巡幸の旅を終盤で急がれた理由は、何かしら神宝に関わっていた可能性が残されています。

移動に緊急性を要するようになったもうひとつの理由が、列島内における政治情勢の激変です。倭姫命が御巡幸に携わった時代は、垂仁天皇の御代1世紀にあたります。当時、日本列島では動乱の噂が絶えず、大陸において秦の始皇帝による統治が崩壊した直後でもあり、多くの民が日本列島を目指し、大陸より流入し始めていました。それが政治情勢を不安定にする大きな要因となったのです。渡来者の中には秦氏のように、短期間で国内において政治的権力を持つまでに至る豪族も存在しました。そして列島内の随所に拠点を設け、その優れた大陸の文化と経済力により、瞬く間に内政にも影響を及ぼすようになります。また、大陸からの渡来者の急増により、各地で紛争が生じたことは想像に難くありません。大半の民は朝鮮半島を経由して対馬、壱岐から九州に渡り、そこから本州へと向かいました。その為、従来、日本列島の西方に居住していた民は、徐々に東方へと追いやられることになったのです。

これらの列島内各地における紛争の噂や不安定な政治情勢を背景に、倭姫命の御一行は五十鈴宮へと向かうことになります。歴史を振り返ると、元伊勢の御巡幸が終了した直後から政治的な危機は現実となったことがわかります。記紀にも記載されているとおり、垂仁天皇の孫にあたる日本武尊は、父である景行天皇の命により、九州における熊襲の叛乱を封じることを命じられます。その後、日本武尊は吉備や難波の征討にも貢献し、最終的には列島東方の討伐さえも命じられ、倭姫命から草薙剣を授けられたにも関わらず、命を失うことになります。これら、列島内の内乱は突如として起きたことではなく、その一世代前にあたる元伊勢御巡幸の時代には、既にその芽が出始めていたと想定されます。

さらに重要な問題が、三輪山から携えてきた神宝の存在です。中には八咫鏡のように高天原で製造されたものや、草薙剣のように大陸から到来した海賊を退治して奪い取ったと推測されるものも含まれていました。これらの神宝は祭祀活動の中心的な存在として大切に守られ、それぞれが当初、神の宮にて大切に安置されたことが史書に記されています。しかしながら国内情勢が厳しさを増す中、その治安が問題視され、神宝の安置場所が再検討される必要性に迫られることになります。

つまるところ元伊勢の御巡幸という長期的な計画が草案された理由は国家の安泰と新しい治世を実現することにあり、そのため各地を巡り回り、地域を統治する基盤を築きながら民衆を啓蒙するだけでなく、天皇家の象徴となる神宝を携え、その権威を知らしめつつ、神宝を守護することが目論まれたのです。そして三輪山を中心として東西南北へと広範囲に移動し続けることにより、いつの間にか本物の神宝がどこに収蔵されているのか、わからなくなるように工夫したのではないかと考えられるのです。その結果、八咫鏡と草薙剣は五十鈴宮へと遷されましたが、それ以外の神宝の存在について史書には記述が殆どなく、歴史の中に埋もれてしまうことになります。また、八咫鏡についてもレプリカが複数製造されていたことから、本物がどれであり、いつどこに遷されたのか、不透明になりました。

いずれにせよ、神宝の存在とその神威は国内外で注視されたに違いなく、その結果、大陸からの攻撃対象にもなりやすかったのです。特に草薙剣は外敵より奪い取った神宝であるだけに、それを取り返しにこようとする暴徒が存在したことでしょう。こうして時代が激変する最中、倭姫命の御一行は難を逃れるためにも、最終目的地である五十鈴宮を目指し、御巡幸の速度を一気に早めたのです。

御巡幸地を完結させる霊峰と島々

剣山 山頂の宝蔵石
剣山 山頂の宝蔵石
三輪山から始まった元伊勢御巡幸の旅は、当初から常に四国剣山を意識したものであったと考えられます。御巡幸地のほぼすべてが、レイラインの指標となる霊峰や聖地と結び付き、剣山とも繋がっていることを、地図上の線引きにより確認することができます。剣山は標高1955mを誇る西日本で2番目に高い霊峰であり、淡路島や紀伊半島の山々からも、その頂上を遠くに見ることができます。また、剣山の頂上へ行くためには、断崖絶壁が続く山々が連なることから、古代の民にとってはまさに、前人未踏の聖地と考えられていたに違いないでしょう。それ故、元伊勢の御巡幸地が剣山に紐付けられたということは、そこに何かしら重要な意味が秘められていたに違いなく、神宝の行方が絡んでいる可能性が見えてくるのです。

また、元伊勢の御巡幸に結び付けられる霊峰は剣山だけでなく、琵琶湖畔に近い伊吹山、そして御在所岳という2つの霊峰が存在することも見逃すことはできません。いずれの山も地域の頂点を極めているだけでなく、遠くを見渡すことができるという点において、剣山と同様に地の指標として古代より大切に見守られてきたのです。これらの霊峰は、相互がレイラインによっても結び付けられ、地の力を象徴する霊峰として、古代の民の間で認知されるようになりました。

伊吹山はレイライン上、列島最高峰の富士山、出雲の八雲山、そして剣山と結び付いているだけでなく、複数の御巡幸地を特定するためにも用いられた重要な霊峰でした。その伊吹山のレイラインから最終的に、伊勢神宮内宮の場所も、ピンポイントで浮かび上がってくることから、伊吹山も古代の重要な指標であったことがわかります。

御在所岳 頂上
御在所岳 頂上
御在所岳も伊吹山と同等に、霊峰として崇められるだけの存在感に満ちています。レイラインを通じて御在所岳は、剣山、諭鶴羽山、そして石鎚山や伊吹山、富士山、大台ヶ原山など、多くの霊峰を紐付ける存在として、古代から重要視されていたのです。それ故、御在所岳の頂上周辺には、人間の手によって形造られた複数の奇石が存在し、山頂周辺の貴重な目印として今日まで温存されてきました。特に、その頂上からの眺めは特筆に値し、そのほぼ真北には伊吹山、北西方向には琵琶湖、南東方向には伊勢湾、そして南西方向には鈴鹿峠を見渡すことができます。

その御在所岳から遠く、伊勢湾の向こうに見える島として古代、注目されたのが神島です。古代では防御体制がより安全な離島に神宝が隔離される傾向にあり、命をかけてでも絶対に守らなければならない神宝を確実に守るためには、陸地からのアクセスが難しい離島の存在が不可欠だったのです。それ故、例えば九州の北方に浮かぶ沖ノ島では多くの神宝が収蔵され、その結果、島自体が神聖化し、古代の海を自由に航海する海人豪族によって守られるようになりました。陸地から遠く離れているだけに海洋技術に長けた海人豪族の力を発揮して、神宝を略奪の危険から守ることができたのです。同様に神島も、陸地から10kmほどしか離れてはいないものの、太平洋に面する大海原に浮かぶ島として古代人の目に留まり、そこに多くの神宝が収蔵されることになります。

神島はレイラインの基点としても、極めて重要な位置付けを持っていました。まず、神島は元伊勢の原点となる三輪山と同じ緯度線上にあり、三輪山の真東を守護する離島として、聖地化される地理的要因を兼ね備えていました。それ故、古代より神島は三輪山に結び付く神聖な島として位置付けられ、人々が近づくことを禁じられ、そこに多くの神宝が秘蔵されることになったのです。また、神島と御在所岳を結ぶ線は、琵琶湖の西岸にある大宝寺山を一直線に通りぬけます。富士山と同緯度の線も大宝寺山にあたります。つまり神島のレイラインから台頭した大宝寺山は、富士山と御在所岳に結び付く2本のレイラインが交差する地点にあり、それ故、重要な霊峰として注目されたのです。この大宝寺山は後述するとおり、元伊勢の結末においても、指標として重要な役割を果たすことになります。

また、神島は徳島と和歌山の間の紀伊水道の真ん中に浮かぶ伊島と、神奈川の江ノ島を一直線に結んでいます。神島は古代、歌島と呼ばれ、その読みは「かじま」または「うたしま」でした。すると一直線上に「い」の島(伊島)、「う」の島(歌島)、「え」の島(江の島)が並ぶことになり、伊島の北には淡路島、江ノ島の南には大島が存在することから、不思議と「あいうえお」の順で島々が並ぶことになります。これらの島々は、すべて神宝に深く関わりを持ち、一時期、神宝を収蔵する待避所としても用いられた可能性があります。それ故、レイライン上に偶然並んでいるとうよりもむしろ、同一線上にある島々が関連づけられるべく、意図的に命名された可能性があります。

御在所岳と伊吹山のレイライン
御在所岳と伊吹山のレイライン

伊島では、平安時代に空也上人が観音堂を建立し、島の頂上にある磐座の横には奥の院が建てられ、33か所の遍路までが島内に作られました。また、江ノ島では古代、島の中心部に向けて洞窟が掘られていたことがわかっており、神宝の収蔵に一時期用いられたと考えられます。また、神島に限らず、江ノ島、伊島も古代では、極めて神がかり的な離島として一目置かれた存在であったことがわかります。こうして元伊勢の最終段においては、神宝に関連する重要な指標として霊峰だけでなく、聖なる島々までも特定され、地域の全体像がレイラインの結び付きから把握されたのです。

倭姫命御一行が伊勢国に到達し、飯野高宮を旅立つ時点においては、既に最終目的地である五十鈴宮の場所が特定されただけでなく、時に政治情勢が急変し、大陸からの侵略の噂のみならず、国内においても動乱の兆候が見えていました。それ故、御巡幸の旅を終焉させ、神宝をかくまい、盗難の恐れのないところに秘蔵することは急務でした。その結果、伊勢国内の残りの御巡幸地を短期間で巡り渡り、五十鈴宮へと向かうことになったのです。倭姫命世記には、飯野高宮を経て「遂に五十鈴宮に向かうことを得たまえり」と記載されています。そのとおり、五十鈴宮がゴールであり、そこに向かって倭姫命は急ぎました。それでも途中の御巡幸地は無視することなく、着実に足を運び、それぞれの場所で神が祀られました。それだけに、飯野高宮の後に続く伊勢国の御巡幸地も重要であり、その理由をレイラインから検証する必要があります。

佐佐牟江宮(竹佐々夫江神社)のレイライン

住宅街の一角に佇む 竹佐々夫江神社
住宅街の一角に佇む 竹佐々夫江神社
倭姫命の御一行は、飯野高宮の比定地として知られる神山神社を出発し、次の御巡幸地である伊勢国の佐佐牟江宮へと向かいました。倭姫命世記によると御一行は伊勢湾沿いを船で旅を続け、「佐佐牟江に御船泊まり給い」と記載され、そこに佐佐牟江宮が造営されたのです。佐佐牟江宮の比定地は延喜式と神名帳によれば、海沿いに建立された竹佐々夫江神社のことです。その場所は斎宮の北東およそ5km、大淀と呼ばれる地域に位置し、周辺一帯は伊勢物語の記述の中に含まれる斎宮説話の舞台でもあります。佐佐牟江宮での滞在は短期間で終わりました。そして佐佐牟江宮を離れる際には、「風浪無くして海の塩大与度に与度美て御船をして行幸」したことを倭姫命がたいそう喜び、その浜に大与度社を建立したことが、倭姫命世記には記録されています。

佐佐牟江宮の地が何もない伊勢湾岸の地にてどのように見出されたか、また、佐佐牟江宮と斎宮の場所がどのように結び付けられたかは、レイラインを考察することにより理解することができます。まず、桑名野代宮の比定地である野志里神社に注目です。そこからほぼ真南、179度40分の方向に線を引きます。次に飯野高宮の比定地である神山神社と、元伊勢の時代では地の指標として重要視された室戸岬を結ぶレイラインを引きます。この2つの線が交差する場所に、竹佐々夫江神社が建立されています。

佐佐牟江宮と斎宮のレイライン
佐佐牟江宮と斎宮のレイライン
また、倭姫命の御一行が佐佐牟江宮に到達した時点では、御在所岳がにわかに注目を浴び、霊峰としての存在感を増していった時でもありました。御在所岳からは伊勢湾の先に神島を眺めることができ、霊峰と神島を結ぶ線は、琵琶湖西岸の大宝寺山に結び付きます。よって三輪山と同緯度に並ぶ神島も、大宝寺山と共にレイラインの指標として極めて重要な役割を果たすことになります。その大宝寺山と奈其波志忍山宮の比定地である布気皇館太神社を結ぶ線も竹佐々夫江神社に繋がっています。さらに神島と石上神宮を結ぶレイライン上に竹佐々夫江神社が存在することは、もはや偶然の域を超えているでしょう。つまり、神島という三輪山に直結する「神の島」に繋がるレイラインを通して、三輪山や石上神宮、大宝寺山、そして複数の御巡幸地が見事に繋がっていたことがわかります。

佐佐牟江宮の地は斎宮の中心舞台となったエリアです。その斎宮が造成された場所も、竹佐々夫江神社を指標として特定された可能性があります。まず、三輪山と同緯度にある神島を結ぶレイライン上に長谷寺、与喜天満神社、そして斎宮が並んでいることは、驚きに値します。次に熊野本宮大社の大斎原と竹佐々夫江神社を結ぶ線も斎宮に繋がり、このレイラインから500mほど離れた場所には瀧原宮も存在します。さらに四国の剣山と御巡幸地のひとつである和歌山の濱宮を通るレイラインも斎宮に繋がっています。そして斎宮と伊雑宮を結ぶレイライン上には伊勢神宮内宮が並んでいます。これらの聖地がレイライン上に綺麗に並び、その交差点に斎宮が存在することからしても、レイラインの構築から佐佐牟江宮の立地条件が特定されたと考えられます。

伊蘇宮(磯神社)のレイライン

磯神社 参道
磯神社 参道
倭姫命世記によると、倭姫命御一行は飯野高宮より伊蘇宮に遷幸されたと記載され、その途中にある佐佐牟江宮と伊蘇宮での滞在は大変短かったことがわかります。伊蘇宮の比定地とされる伊勢市磯町にある磯神社は、佐佐牟江宮の比定地である竹佐々夫江神社から伊勢湾岸沿いを南東方向におよそ7km下る宮川の河口付近にあります。その由緒書によると、宮川の氾濫により旧地は流されてしまい、元来の社地を特定することは困難であるものの、「年月不詳移遷し古跡を宝殿の脇又本殿の脇と号す」と記され、倭姫命の御一行が到来して皇太神を奉じられた磯神社 本殿
磯神社 本殿
という伝承が地域に残されていることからしても、今日の磯神社周辺のどこかに伊蘇宮が存在したと考えられます。
  しかしながら、前述したとおり、伊蘇宮の比定地を特定する術はなく、一級河川である宮川の河口は今日でも2km以上の距離に及ぶことから、本来の場所が想定よりも大きく異なる可能性があります。また、伊蘇宮の比定地は磯神社の他に、松坂市の神服織機殿神社や、式内社の相鹿上神社等が名を連ねます。それ故、レイラインの検証による比定地の特定は困難です。

元伊勢の集大成となる瀧原宮のレイライン

荘厳な雰囲気に包まれた瀧原宮の参道
荘厳な雰囲気に包まれた瀧原宮の参道
伊勢湾に面した沿岸を南下し、船で行き巡る御巡幸の旅は、伊蘇宮を離れたあと、なぜかしら川を上って紀伊半島の内陸にある瀧原宮へと向かうことになります。瀧原宮は伊勢神宮内宮の遙宮として知られ、伊勢湾より宮川を上り、その中流となる三瀬谷の支流を更に上った所に建立されました。瀧原宮を訪れる人は、伊勢神宮よりも規模は小さいものの、その荘厳な雰囲気の漂う境内の美しさに心を打たれることでしょう。古くから瀧原神宮と呼ばれ、他の式内社とは一線引かれて神宮号が付されたのは、何かしら古代から特別視される理由があったからに違いありません。

ある学者は瀧原宮が重要視される理由を、「東方鎮撫の為の、重要な拠点」であるとか、紀州や熊野へ通じる交通の要所であったからと説明しています。しかしながら、どう見ても交通の要所には見えず、ましてや紀伊の山奥にありながら、どうして東方征伐の拠点となることができるでしょう。ところがそのような山奥の僻地に、倭国の将来を担う倭姫命が神宝を携えて、わざわざ到来したのです。前人未踏の山奥に皇族の姫君が出向かれるということは、それなりの重大な理由があり、交通の要所とか征伐の拠点というような、ごくありきたりの理由ではないことがわかります。

瀧原宮の素朴で美しい境内
瀧原宮の素朴で美しい境内
倭姫命にとっては当時、五十鈴宮という最終目的地がもう定まっていたはずであり、およそ1世紀近くにわたる周辺の地勢調査の結果により、あらゆる場所がくまなく調べあげられていたはずです。そして、磯神社から伊勢湾沿いに3kmほど航海すれば五十鈴川の河口に着き、そこから川を8kmほど上れば五十鈴宮、すなわち伊勢神宮内宮に到達できたのです。ではなぜ、最終地点を目前にしてわざわざ迂回し、海岸から30km以上も遠く離れた紀伊半島の内地にある瀧原宮へと赴いたのでしょうか。元伊勢の御巡幸からおよそ2000年を経た今日、真相を究明することは困難です。しかしながら、はっきりとわかることは、瀧原宮には何かとてつもない重要性が秘められており、その真実を見出した倭姫命は、五十鈴宮に向かう前に是が非でもそこに宮を建立し、神を崇めたてまつらなければならないと確信したということです。

瀧原宮の地がそこまで重要視された理由は、レイラインの考察から理解することができます。便利な交通手段のない古代、宮川の上流で急斜面の多い山地は、何ら特筆すべき地勢や指標となるような目印など存在しませんでした。ところがそんな山奥の一地点が注目され、その場所が重要視されるあまり、荘厳な雰囲気に包まれた瀧原宮が造営され、そこで神が祀られたのです。瀧原宮の場所が大事であった理由は、その場所が元伊勢の御巡幸において重要視された2つの霊峰、伊吹山と御在所岳を結ぶレイライン上に位置していたからに他なりません。これらの霊峰と一直線上に結ばれる場所がピンポイントで特定され、そこに神の宮が建てられたのです。こうして瀧原宮を基点とする新しいレイラインを構築することにより、改めて御在所岳と伊吹山の重要性が強調されるように目論まれたのです。
  瀧原宮を基点とするレイラインは他にも複数存在し、中でも三輪山と摩耶山を結ぶ線は極めて重要です。三輪山は元伊勢御巡幸の基点であり、これまであまり名を連ねることのなかった摩耶山と繋がり、瀧原宮ともレイライン上で一直線に結び付けられたということは、伊吹山や御在所岳と同様に、摩耶山も神宝の行方を占う上で重大な意味を持つ霊峰として認識された可能性を示唆しています。また、摩耶山は丹波国吉佐宮の比定地である真名井神社と同経度にあり、元伊勢の御巡幸地とも繋がっています。さらに摩耶山は、剣山と大宝寺山を結ぶレイラインも形成しています。それ故、瀧原宮のレイラインを通じて、御在所岳、伊吹山、三輪山、摩耶山、大宝寺山、そして剣山までもが、神宝の行方に絡む霊峰である可能性があることが示されたのです。

瀧原宮のレイライン
瀧原宮のレイライン

さらに瀧原宮は霊峰だけでなく、神の島として名高く、多くの神宝が秘蔵された沖ノ島にも紐付けられています。伊吹山と御在所岳と結ぶ南北の線と、沖ノ島と同緯度、北緯34度21分の東西の線が交差する場所に瀧原宮が造営されたということは、沖ノ島と同様に、瀧原宮が神宝の行く末を示唆する重大な鍵を担う場所と考えられたからではないでしょうか。だからこそ、後に熱田神宮が造営される際は、古代の地の指標として多用された紀伊大島と、神宝と絡む重要な基点と位置付けられた瀧原宮を結ぶレイラインが重要視され、瀧原宮に紐付けられるべく、その熱田神宮に草薙剣が祀られたのです。

瀧原宮のレイラインには、元伊勢の御巡幸地に紐付けられた線が、さらに3本存在します。まず、伊久良河宮の比定地である宇波刀神社と、阿佐加乃藤方片樋宮の比定地、加良比乃神社を結ぶレイラインが存在します。次に、坂田宮と甲可日雲宮の比定地のひとつである若宮神社を結ぶ線もあり、いずれも瀧原宮を通り抜けています。瀧原宮の境内には所管社として若宮神社が建立され、そこには御船代を収蔵する御船倉も併設されていることから、瀧原宮と若宮神社が神宝を運搬する船と深く関係を持っていたことがわかります。

3本目の線は奈其波志忍山宮の比定地となる布気皇館太神社と同経度の南北線です。その線上に瀧原宮が存在することも偶然ではなく、綿密に計算された結果といえます。

倭姫命の御一行が伊勢国五十鈴宮へ向かう直前、遠くに迂回することさえ苦にせず、何としてでも瀧原宮の場所を御巡幸地のひとつとして定め、そこで神を祀ることを大切に考えられた理由が見えてきました。瀧原宮は、神宝に纏わる重要な聖地をレイラインによって結び付けることができる特別な場所だったのです。皇大神宮別宮 瀧原宮
皇大神宮別宮 瀧原宮
元伊勢御巡幸の主目的は神宝を守護し、それらを保管する場所を厳選することでした。その為、複数の霊峰や島々が瀧原宮のレイライン上において紐付けられただけでなく、それらの延長線上に新たなる聖地を見出し、そこで神宝を秘蔵することが目論まれたのではないでしょうか。瀧原宮こそ、神宝を守護する秘策が整ったことを伝える象徴的な存在であり、その結果、元伊勢御巡幸の旅は、最終目的地である五十鈴宮へと向かうだけとなったのです。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部