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改訂版「かごめかごめ」の真相にせまる

ヘブライ語で古代日本の文献を解読していくにあたり、読者からのリクエストで一番多く見受けられるのが、「カゴメの歌」もしくは「かごめかごめ」と呼ばれる歌です。この童謡に纏わる逸話は枚挙に暇がなく、テレビなどでもその不思議な背景が話題として取り上げられています。確かに「かごめかごめ」の歌詞は不可解であり、「夜明けの晩」「鶴と亀」「後ろの正面」など、奇妙な表現が含まれています。しかし言葉の意味が不透明であるにも関わらず、「かごめかごめ」は昔から日本の学校教育にも取り入れられ、大勢の人に親しまれてきました。このような不可解な歌詞が、長い歴史の中で何ら問題視されずに歌われ続けてきたことに、驚きを隠せません。

子供の頃、「かごめかごめ」と手をつないで歌いながら、目を塞いでしゃがんでいる友達の周りを歩きまわり、最後に「後ろの正面、だーれ?」と歌って、後ろにいる人の名前を言い当てる遊びをしたことを覚えているでしょうか。鬼に選ばれた友達を囲むというこの遊びから、「カゴメ」の語源は、「囲む」ではないかという説も生まれました。「囲む」の命令形にあたる「かこめ」は中世の時代、「かごむ」と濁音を入れて記載されることもあったことから、後に「カゴメ」と発音されるようになったとも考えられます。

カゴメ株式会社の商標
カゴメ株式会社の商標
「カゴメ」とは漢字で「籠目」とも書き、その言葉から三角形を二重に重ねた形をしたカゴメ印を想像する方も少なくありません。カゴメ印の由来には定説はなく、一説には竹で編んだ籠に見られる格子状の籠目の形や、六角形をした亀(カメ)の甲羅模様から、これらが原型となり、最終的に六芒星の形になったのではないかと言われています。そのカゴメ印は江戸時代、籠目紋として家紋にも使われました。さらに大正時代ではケチャップで有名なカゴメ株式会社の商標としても登録され、カゴメ印は大衆に広く知れ渡ることとなりました。

一方、カゴメ印とイスラエルを関連付けた話題にも注視する必要があります。イスラエル国旗に描かれているダビデの紋は、カゴメ印と同じ三角形を2重に重ねた六芒星です。この特異な形状の印をダビデの紋と共有するだけに、イスラエルにそのルーツがあるという説を支持する人も少なくないようです。イスラエル国旗に含まれるダビデの星
イスラエル国旗に含まれるダビデの星
さらに「籠の中の鳥」という表現が、モーセの時代に作られた「契約の箱」、聖櫃を意味しているという説もあります。旧約聖書には、その箱の中に神の息吹によって書かれた聖なる十戒の板が保管され、箱の上にはケルビムと呼ばれる鳥の形をした2体の護り神が向き合って、聖なる箱を守護したことが記載されています。そこに「かごめかごめ」との類似点を見出すことができるというのです。

ところが、これだけカゴメ印とイスラエルとの関連説が囁かれ、ダビデの紋との共通点が指摘されているにも関わらず、カゴメ印に結び付く歌の中でも有名な「かごめかごめ」のヘブライ語ルーツ説については、これまで検証されることがなかったようです。もし、カゴメ印のルーツがダビデの紋にあるならば、「かごめかごめ」の歌詞もヘブライ語で書かれ、日本語とは異なる意味が、原語に含まれている可能性があるのではないでしょうか。

そこで、ヘブライ語の辞書を片手に「かごめかごめ」に含まれる日本語の発音に類似したヘブライ語の存在を確かめ、それらの言葉の繋がりから意味のある文脈を見出すことができるか、検証することにしました。すると、これまで日本語の歌として考えられていた「かごめかごめ」が、ヘブライ語でも読めるだけでなく、そこには、衝撃のメッセージが含まれていたことがわかりました。

カゴメとは「囲む」のヘブライ語

「かごめかごめ」の歌詞に含まれるヘブライ語は「カゴメ」だけにとどまらず、歌全体をヘブライ語で読むことができます。しかもヘブライ語で読む「かごめかごめ」には一貫したメッセージが込められており、歌全体のモチーフが自然に読み取れることからしても、ヘブライ語説の信憑性はもはや、簡単に否定できません。早速、ヘブライ語で「かごめかごめ」を読んでみましょう。

まず、「かごめ」という言葉に注目です。「カゴメ」という言葉は、「囲む」「護衛する」を意味するkhagor、カゴ(khagor、カゴー)と、「誰」「何」を意味するmi、ミー(mi、ミー)という、二つのヘブライ語から成り立っていると考えられます。発音は合わせて「カゴ-ミー」となり、「カゴメ」と類似した発音になります。すると、ヘブライ語で「カゴメ」の意味は、「何を囲むのか?」「何が守られているのか?」「誰を守るのか?」となります。「カゴメ」という言葉には、何か大切なものを護衛したり、それを塞いで隠蔽するようなことに関連するメッセージが含まれている可能性が見えてきました。

かごめかごめの遊戯
かごめかごめの遊戯
昔から子供達が「かごめかごめ」を歌う時、みんなで手をつないで輪になったのも、もしかして、大切な何かを「囲む」という意識が芽生えた結果なのかもしれません。遊戯の要点は、目隠しされた鬼を子供たちが「囲み」、鬼の背後の友達が誰であるかを言い当てることです。それ故、「カゴメ」という言葉には、大切なものを囲み、それをみんなで守るという意味が含まれていたのではないでしょうか。

「かごめかごめ」遊戯のもうひとつの大切なポイントは、囲まれている鬼の姿です。目隠しされて目が見えなくなってしまう鬼とは、囲まれて守られている中心的な存在が、いつの間にか人の目から隠されてしまうことを象徴しているとも考えられます。鬼は神仏に関わる存在ですから、鬼が目隠しされる姿とは、神格化された大切なものが隠されてしまうという、一種の神隠しのような状態を表現していたのでしょうか。「カゴメ」はヘブライ語で「何を囲むのか」という意味であるという前提で考えると、この目隠しの遊びの背景には、何か大切なものが囲まれて隠されるという状況が考えられていたのかもしれません。

古代社会において最も大切なものが、神宝でした。日本の歴史においても三種の神器に代表される神宝は、歴史の流れに多大なる影響を与えたほど重要な位置を占めています。よって「かごめかごめ」の歌の背景に神宝の存在があっても、決して不思議ではありません。そして一歩踏み込んで、「かごめかごめ」をヘブライ語で読んでいくと、そこには紀元前7世紀のはじめ、イスラエルの歴史から消え去った「契約の箱」に収蔵されていた神宝に関わるメッセージとしか思えないような表現が含まれていることに気が付きます。果たして、「かごめかごめ」のルーツは、イスラエルにあるのでしょうか。

「かごめかごめ」では、「かごめ」を繰り返し歌った後、「籠の中の鳥」が「いついつ出会う」と歌います。この言葉からは、2羽の鳥の存在が浮かび上がり、また「籠の中」という表現からは、何かが「囲まれ」、「封じ込められ」ているような気配を察することができます。この2羽の鳥は、契約の箱の上に飾られたケルビムと呼ばれる鳥の形をした2体の守護神を指していると考えられないでしょうか。すると、「いついつ出会う」とは、それまで隠されていた神宝の秘蔵場所が明らかにされ、守護神のケルビムが再び現れて互いに出会う日を待ち遠しく思う気持ちを、遠まわしに述べた歌とも解釈できるのです。「かごめかごめ」は、日本語とヘブライ語という2つの言語、どちらでも読むことのできる歌であり、折り句のように二重の意味を含む歌として創作されていた可能性に驚きを隠せません。

封じられていたのは神宝か!

ヘブライ語を用いて「かごめかごめ」の歌詞を読み続けてみましょう。「籠の中の」は「カゴ・ノ・ナカ・ノ」という4つのヘブライ語で形成された言葉です。まず「籠の」は、「囲む」「守護する」を意味するkhagor、カゴー(khagor、カゴー)に、「鍵をかける」または「閉じ込める」を意味するnoel、ノェ(noel、ノェ)を合わせ、「カゴーノェ」となり、「囲んで閉じ込める」「守護して封印する」ことを意味します。次に「ナカノ」は、「置かれた」「そこにあった」を意味するnakh、ナカ(nakh、ナカ)に、「ノェ」の語尾を足して「置いて鍵をかける」、または「安置して閉ざした」を意味します。つまり、「籠の中の」はヘブライ語で、「守護して封印し、安置して閉ざした」と解釈できます。これはまさに大切な神宝が、どこかに秘蔵されたことを指していると考えられます。

続く「鳥は」は、「取り外せ!」の意味を持つtorid、トリー(torid、トリー)という言葉と、「そして」を意味する接続詞のva、ヴァ(va、ヴァ)を合わせたヘブライ語が語源であると考えられます。「トリー」には強い命令形としての意味合いがあり、「取り外せ!」「下ろせ!」という想いが込められています。すると「籠の中の鳥は」の意味が、ヘブライ語で明確に浮かび上がってきます。それは、「守護して封じ、安置して閉ざれていた物を取り出せ!」という命令文だったのです。「取り下ろせ!」とういヘブライ語は、高い所にあるものを外す、あるいは下ろす、という主旨が含まれることから、封じられていた物は高い位置にあったと推測されます。それ故、守護されている物が神宝と想定するならば、それらが秘蔵されていた場所は、山上のような標高の高い場所にあったと考えられます。大切な神宝が人目のつかぬ山奥に安置され、その場所が長らく守られてきたからこそ、「取ってきて下ろせ」、「取り出せ!」「取り外せ!」という言葉が使われたのではないでしょうか。

しかしながら、そこにはひとつの重大な問題が存在しました。それは、聖なるご神体とも言える神宝に一体誰が、手をかけるのかということです。ご神体に触れることは危険極まりなく、神宝に不用意に触ろうとした人は神の怒りに触れ、死去したことさえ旧約聖書に記載されています。周りを囲まれている鬼とは、誰も触れることができない神宝の象徴とも考えられます。そのような聖なる神宝を大切に守ろうとする想いが「かごめかごめ」に込められているようです。いったい誰が、その神宝を守るのでしょうか。いよいよ「かごめかごめ」の真相が解明される時がきました。

聖なる神宝を取り出して新しい聖地に遷すことは困難を極めたプロジェクトでしたが、それでも決行されなければならなかったのは、政変や疫病の流行に伴う治安の悪化など、既存の統治下において神宝の存在が脅かされてしまうような緊急事態が、その背景にあったと推測されます。そして当時、霊峰の山頂付近に安置されていた神宝は、それらが囲まれて収められていた「籠」とも言われる収蔵庫の中から取り出され、別の場所へと遷されることになったのです。

恐ろしい火の裁きについての証言

直後、これまで神宝が収蔵されていた山頂周辺一帯には、とてつもない災害がおきたようです。その緊迫した状況が、「籠の中の鳥は」の後に続く「かごめかごめ」の歌詞の中で説明されています。それまで宝物を収めるために用いられていた神の箱や、その周辺一帯の山までもが、丸ごと焼かれてしまうという、厳しい神の裁きが定められていたことを、ヘブライ語の歌詞から読み取ることができます。

「いついつ」という歌詞は、ヘブライ語で「火を付ける」を意味するhitsit、ヒィツィ(hitsit、ヒィツィ)が語源です。それを繰り返し語ることによって、燃やさなければならなかったことが強調されています。つまり「いついつ」とは、「火を付けろ、燃やせ!」という命令の言葉だったのです。これは、火による神の裁きを象徴する表現として捉えることができます。

「かごめかごめ」の歌詞をヘブライ語で読み続けると、そこには裁きの深刻さについて、更に言及されています。「であう」はヘブライ語で、収納庫、容器、家を意味するdiyur、ディユゥー(diyur、ディユゥー)です。「ディユゥー」の発音は、日本語の「出会う」と類似しているだけでなく、その意味は収納庫、もしくは箱であることにも注目です。その言葉に神を意味する「や」または「よ」と読む漢字の「夜」を加えて「ディユゥー・ヤ―」とすると、「神の箱」「神の社」の意味になります。そして「明け」はakar、アカー(akar、アカー)というヘブライ語で、「根絶する」を意味します。つまり、「出会う夜明け」はヘブライ語で、「神の箱を根絶する」「神の社を根絶やしにする」ことを意味していたのです。何という恐ろしい言葉ではないでしょうか。つまり、火を付けて燃やす対象は、神の社、もしくは神の箱だったのです。「ヒィツィ・ヒィツィ・ディユゥー・ヤ・アカー」というヘブライ語は、「火をつけろ、燃やせ、神の社を根絶せよ!」という裁きの言葉であったことがわかります。

「かごめかごめ」の歌については、その歌詞に呪いのような怖い意味が含まれていると、昨今のメディアでも報道されることがあります。単に内容が謎めいているだけでなく、実際には人を震撼させるような恐怖のストーリーがその背後にあるというのです。根拠はともあれ、その指摘は決して間違いではなかったようです。ヘブライ語による「かごめかごめ」の中核となるメッセージは神宝です。それら神宝が収蔵場所から取り除かれた直後、神宝が安置されていた収納箱や、社の周辺一帯が火によって焼かれてしまったことを、「かごめかごめ」は証しているようです。その収納箱がもし、イスラエルの契約の箱であったとするならば、人類の歴史に大きな影響を与える一大事であったことになります。

神宝の収納箱が焼かれるという背景には、神の社にて長年、不信仰な行いが蔓延し、神の怒りをかったことが原因ではないかと推測されます。神の怒りに触れて聖絶され、根絶やしになった町、村、都市の事例は、聖書にも数多く記載されています。大きい町ではソドムとゴモラが火で焼かれてしまった話が有名です。その他、不信仰の罪より、古代イスラエルにおいてもエルサレムの町に火が放たれ、国家が壊滅した歴史について記録が残されているだけでなく、イスラエル周辺の国家でも、幾度となく不信仰な民は神の裁きにあい、滅ぼされたことが旧約聖書に記載されています。

同様の出来事が、「かごめかごめ」の背景に存在していたのではないでしょうか。山上国家の聖地に収蔵されていたと想定される大切な神宝は、一旦、そこから取り出されて保護され、山から下ろされるやいなや、直後、「根絶やしにせよ!」という聖絶の命令が実行に移されたのです。そして神宝が取り除かれた後の社を含む、山頂の近郊一帯に火が付けられ、山々は丸ごと燃え尽きたのです。これまで国家統治と権力のシンボルでもあった山頂の聖地が、神の裁きを受けて消滅したことを、「かごめかごめ」は証していたのです。

焼かれて見捨てられた荒れ地?

火による裁きの後、何が起きたかを、次の「晩に鶴と亀が滑った」という歌詞が綴っています。「晩に」は、ヘブライ語で「造られた」、「建てられた」を意味するbanah、バナ(banah、バナ)の未来形となる「バニティ」がルーツと考えられます。その発音が多少訛って「バンニ」となり、「かごめかごめ」の歌詞の中に用いられたのではないでしょうか。

では一体、何が造られたのでしょうか。「鶴と亀」です。「鶴」はヘブライ語のtsur、ツー(tsur、ツー)であり、「岩」を意味します。「亀」は「お守り」を意味するkamea、カメア(kamea、カメア)です。よって、「鶴」と「亀」を合わせると、「お守りの岩」となります。このお守りとは原語の意味から察するに、大きな岩を削って造られた建造物のようなものであり、巨石とも言える磐座のような存在ではなかったかと推測されます。すると、「晩に鶴と亀」はヘブライ語で、「お守りの岩が造られた」と理解することができます。

続く「滑った」には、2通りの解釈があります。まず、「滑った」を「被害を受ける」、または「傷つけられる」のヘブライ語であるsovel、ソヴェル(sovel、ソヴェル)の未来形、sovelet、ソヴェレッ(sovelet、ソヴェレッ)という言葉と仮定してみましょう。前述した「鶴と亀」の後に続いて読むと、「造られたお守りの岩も傷つけられた」、という意味になります。磐座のような巨石からなるお守りも、周辺一帯が火で焼かれるという事態のあおりを受け、大きなダメージを受けたのではないでしょうか。よって「晩に鶴と亀が滑った」の意味は、「造られたお守りの岩も(火による)被害を受けた」となります。これは、神の裁きに関わる貴重な証言とも考えられます。

もう一つの解釈は「滑った」を、ヘブライ語で「働きをやめた」、「ストライキした」を意味するshovetet、ショーヴェテ(shovetet、ショーヴェテ)と解釈することです。お守りが働きをやめるということは、御利益がなくなることを意味します。よって、「鶴と亀が滑った」は、「造られたお守りの岩は働きをやめ」、もしくは「造られたお守りの岩はご利益のないままに」、と解釈することが可能です。「滑った」が「被害を受けた」か「働きをやめた」のいずれかであるかを検討する鍵となるのが、次の「後ろの正面、だーれ?」という歌詞です。

「かごめかごめ」の歌の中で一番不可解な歌詞が、「後ろの正面、だーれ?」です。誰もが知っている歌詞でありながら、日本語での理解が困難な言葉です。そのまま読むと、後部と正面とが相まみえた支離滅裂な表現であるようにしか考えられないことから、この歌詞の解釈については、これまでも様々な憶測が飛び交っています。鬼の真後ろに誰がいるかを言い当てるための遊戯の歌詞であるとか、現世と神の、世界の目には見えない通り道であることを示唆する、または、お寺の正面の後ろに葬られた人物を指すとか、あげくの果てには遊女の次の相手を意味するだの、その解釈は様々です。しかしながら、どれも納得のいく説明ではありません。

「後ろの正面、だーれ」もヘブライ語に置き換えて読むことにより、その意味だけでなく、「かごめかごめ」全体の文脈と主旨をまとめて、無理なく理解することができます。前文までは、大切な箱に収納されていた「神宝」が取り出され、その後、周辺一帯が焼かれたことが言及されています。そして、岩が切られて造られたお守りの岩も、もはや火の海による被害から周辺を守ることができなかったのです。それが「滑った」という言葉に集約されています。お守りの岩は「被害を受け」、もしくは、「働きをやめ」、付近一帯は焼かれる運命にあったのです。

その後の成り行きが、最後の一文「後ろの正面だーれ」に記されています。まず、「後ろの」の意味は、場所や物が「見捨てられる」「放置される」を意味するhushar、フーシャー(hushar、フーシャー)が語源と考えられます。次に「正面」は、ヘブライ語でShomem、ショーメム(Shomem、ショーメム)と書き、人の住まない僻地や荒地を指します。「だーれ」は、dalak、ダラッ(dalak、ダラッ)というヘブライ語の発音に酷似していることから、「焼かれた」という意味の言葉と考えられます。この文脈に沿うと、「後ろの正面、だーれ」はヘブライ語で、「焼かれた荒地は見放された」という意味になります。

これらのヘブライ語をまとめて「晩に鶴と亀が滑った。後ろの正面、だーれ」を読むと、「お守りの岩も造られたが被害を受け、焼かれた荒地は見放された」、もしくは「造られたお守りの岩のご利益もなく、焼かれた荒地は見捨てられた」という意味で理解することができます。すると、「かごめかごめ」の歌は、神宝が秘蔵されていた場所から取り出された後、周辺一帯に火が付けられただけでなく、その守護神であった磐座も一緒に焼かれて、そのまま放置されてしまう、という悲劇のシナリオについて、証していたと考えられるのです。

何が守られているのか?誰が守られているのか?

守護されて封印され、安置して閉ざされたものを取り出せ!

そして火をつけろ、燃やせ、社を根絶せよ!

造られたお守りの岩の御利益もなく

焼かれた荒れ地は見捨てられた

救いの道を示すお守りの岩

これまで「かごめかごめ」の背景には怖い過去や、呪いが秘められていると、各種メディアにて噂されてきました。ヘブライ語訳を読む限り、確かに火による裁きと、炎上後の荒廃について記載されていることから、怖い印象を否めません。ところがヘブライ語で繰り返し読んでいる内に、その解釈には、同等の発音でもうひとつ、全く別の意味を持つ読み方があることがわかりました。一見、呪いの言葉のように見える「かごめかごめ」には、実は未来の希望に繋がる救いの道を示す言葉も含まれていたのです。

まず、「滑った」という歌詞を振り返ってみましょう。ヘブライ語で「晩に鶴と亀が」は「お守りの岩が造られた」、を意味することから、後に続く「滑った」が解釈の要となります。「すーべった」に類似する発音を持つヘブライ語には、もうひとつ、「水を引く」、「水を出す」を意味するshoevet、ショエヴェ(shoevet、ショーエヴェ)という言葉があります。すると「晩に鶴と亀が滑った」の意味が一変し、「お守りの岩を造り水を引く」、「造られたお守りの岩から水が湧く」という意味になります。これは、水が溢れる場所において、お守りとなる岩を切り、磐座を造ったということではないでしょうか。つまり、「水際にお守りの岩が造られた」と解釈できるのです。

その後に続く歌詞も、「焼かれた荒地は見捨てられた」という悲劇を語るのではなく、ヘブライ語で類似した読みを持ちながらも、正反対の前向きな意味に解釈することができるのです。そして「晩に鶴と亀が滑った」を「水際にお守りの岩が造られた」と理解することにより、火で焼かれた後の、救いの道を示す復興の預言であった可能性が見えてくるのです。

復興という明るい展開を前提に考えた場合、「後ろの」は、ヘブライ語で「地域を支配する」を意味するhushlat、フシュラッ(hushlat、フシュラッ)と解します。そして「正面」は前述のとおり「僻地」「荒地」とし、最後の「だーれ」はヘブライ語で「水を引く」のDalah、ダラー(Dalah、ダラー)とします。「だーれ」は、「焼かれた」を意味するdalak(ダラッ)と、「水を引く」dalah(ダラー)という、どちらもほぼ同じ発音を持つ言葉のいずれかを選ぶことにより、紙一重でその意味が正反対に変わってしまうことがわかります。その「だーれ」を水源に関する「水を引く」と理解することにより、「後ろの正面、だーれ」は、「水を引いた無人の地を支配する」という意味になります。この解釈は、前文の「水が出るお守りの岩」と、焼かれた後、水が枯れてしまう「荒地」の存在を自然に結び付けることにも注目です。

こうして「晩に鶴と亀が滑った」と「後ろの正面、だーれ」の意味は、ヘブライ語で「水際にお守りの岩を造り、荒地に水を引いて支配する」と理解することができます。「かごめかごめ」は単なる呪いの歌ではなく、原語となるヘブライ語の類似した読み方により、二重の意味が込められていたと考えられます。そこには、焼かれた後、水辺に造られたお守りの岩の恩恵によって導かれ、その無人の地にも水が引かれて、最終的には祝福されるという預言の言葉が含まれていたのです。

「かごめかごめ」の歌詞の意味は、救いの道を示す預言の言葉としても受け止めることができるようです。その歌詞の意味は重大です。そこにはヘブライ語でこう、書かれていたのです。

何が守られているのか?誰が守られているのか?

守護されて封印し、安置して閉ざされていた神宝を、取り出せ!

そして、火を付けろ、燃やせ!神の社を根絶せよ。

水際にお守りの岩を造り、無人の地に水を引いて支配せよ!

「後ろの正面だーれ」を前向きに解釈することにより、「かごめかごめ」の歌詞の意味が一辺倒の裁きの言葉ではなく、火による裁きの後、一筋の光となる「お守りの岩」の存在が語られ、そこに希望の道が残されていたという可能性を見出すことができます。

「かごめかごめ」は三重の折句か!

「晩に鶴と亀が滑った、後ろの正面、だーれ」をヘブライ語で読むと、2つの全く異なる解釈に辿り着くことがわかりました。「造られたお守りの岩も被害を受け、焼かれた荒地は見捨てられた」という、神の裁きによる結末と受け止めることができるだけでなく、「水際にお守りの岩を造り、無人の地に水を引いて支配せよ!」という、未来志向の意味にも理解できるのです。「かごめかごめ」の歌詞が、神の社が焼かれてしまうという単なる裁きに関わる呪いの言葉で終始するとは考えづらいことから、どちらかというと、後者の未来志向を優先して理解するべきでしょう。「かごめかごめ」の歌詞全体の流れから察するに、神宝が取り出された後に火が付けられた訳ですから、そこから逆戻りして「焼かれた荒地」の話に舞い戻るよりも、取り出された神宝に関する次の展開が記されたと考える方が、より自然に読み取れるからです。また、焼かれるというテーマに終始するよりも、火による裁きと水による清め、という前後のコントラストが目論まれたと想定できることも、未来志向が優先される理由です。神宝が取り除かれた後、神の裁きにより山は焼かれてしまいますが、その怒りの火を癒す水が存在し、次世代への希望へと繋がることが、「かごめかごめ」のメッセージの中に残されているように考えられるのです。

どちらの意味を選ぶかは、「かごめかごめ」の最後の文言である「後ろの正面、だーれ?」を如何に理解するかによっても決められることになります。特に、「後ろ」の解釈は重要であり、それをヘブライ語で「見捨てられる」を意味する「フーシャー」か、「(地域を)支配する」を意味する「フシュラッ」という2つの相反する言葉のいずれかを選択することで、文脈が決定付けられます。「うしろ」という日本語の発音は、どちらかというと「フシュラッ」、「支配する」という読み方に近いことから、「うしろ」だけをとってみても、未来志向の解釈の方に分があるかもしれません。

いずれにしても「かごめかごめ」を、裁きと呪いの歌として読むか、例え裁かれてもその後の救いと希望の言葉として理解するかは、読む人の心持ちに左右されることでしょう。もしかすると、「かごめかごめ」の歌詞は当初から、ヘブライ語の折り句として、2通りの意味を重ねて創作されていたのかもしません。そして、ヘブライ語では、どちらの意味にもとれるような読みでありながら、しかもその読みに重なる日本語の発音を持つ言葉までも見出された結果、表立っては「かごめかごめ」が日本語の歌として伝承されたと考えられます。つまり、「かごめかごめ」には、ヘブライ語と日本語を合わせて、三つ巴の意味が含まれていることになります。このとてつもない創作意欲とノウハウの結集があったからこそ、今日まで「かごめかごめ」の歌は、謎に包まれてきたのです。

古代史の真相を解き明かす霊歌

古代、日本ではいつの日も、神宝が大切に取り扱われていました。そのルーツには、イスラエルの契約の箱や、その中に収蔵されていた神宝が関わっていた可能性があることは、別章で解説しているとおりです。もしかすると、「かごめかごめ」の歌は、それらイスラエルの神宝とその行方について、ヘブライ語で証していたのかもしれません。それら出来事の流れについては、以下のような想定が可能です。

いつの時代か、大切な神宝は山の頂上付近に造られた神の社の一角に収蔵されていたところ、国家体制に一大事が起き、山上国家は崩壊の一途をたどりました。その後、神宝を取り出す命令がくだされ、収蔵場所は遷されたのです。そして周囲一帯には火が付けられ、跡形もなく焼かれてしまいます。しかしながら、水が湧き出る岩場にてお守りとなる磐座が造られ、大切な神宝は、その新天地に遷されたのです。そして誰もいない荒地に不思議と水が引かれ、お守りの岩がある地域一体が統治されたことを、「かごめかごめ」はヘブライ語で証していたのではないでしょうか。後述するとおり、「かごめかごめ」の舞台は四国の剣山と考えられ、剣山界隈にはイスラエル・ルーツの伝承が多いことからしても、その信憑性については更なる検証が必要です。

世界が注目すべきユダヤの象徴である神の「契約の箱」の到達点が日本であり、その中に秘蔵された神宝について、もし、「かごめかごめ」が歌っているとするならば、私たちは知らぬうちにこの童謡を歌いながら、神宝の行く末について語り継いでいたことになります。そして「さくらさくら」の創作者が空海であると考えられるように、同じく3重の意味を折句として連ねた「かごめかごめ」の歌も、次章で解説するとおり、空海の作品である可能性があります。誰もが知っている「かごめかごめ」は、古代日本の歴史の謎を解き明かすためのヒントを後世に残す為に創作された、極めて重要な霊歌であり、そこには空前の知恵が秘められていたのです。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部