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ヘブライ語で解き明かす「君が代」

日本の国民、誰もが歌う国歌「君が代」ではありますが、一種の違和感を訴える人が少なくありません。その理由のひとつが、不可解な歌詞です。君が代で使われている言葉の表現はわかりづらく、子どもたちがその意味を全く理解できないだけでなく、大人でも首をかしげてしまうのです。「細石の巌」や「苔のむす」など、およそ言葉の意味は理解できるものの、一般的には使われることのない難しい表現が随所に含まれています。それ故、学校教育現場においても、その歌詞の意味をきちんと教えることがないようです。

「君が代」の意味は、少なくとも2通りあるということも、物議を醸し出す要因です。「君」という文字には、「あなた」という意味と、「君主」という意味があります。それゆえ「君が代」は、一般庶民を背景に想定して「あなたの代」と理解することができます。また、天皇は国家の象徴であることから、日本の君主である天皇の存在に重きを置き、「天皇の御代」と解釈することもできるのです。いずれにしても、「君が代」の歌詞を書かれた作者の意図は不透明なままです。

また代々にわたる繁栄を言い表すために用いられたと考えられる「苔のむすまで」という独特の表現が、果たして「天皇の御代」の永続性を語るに相応しい美しい言葉の響きを持つかどうかについても疑問が残ります。天皇を誉め歌うのに、「あなたの御代は苔に例えることができます」と言えるのでしょうか。さらに「千代」がなぜ「万代」ではなく、それよりも短い年数の「千代」とされ、しかも「センダイ」ではなく「チヨ」と発音されたのでしょうか。続く「八千代」も、同様に「ヤチヨ」と発音されています。何故、九千代(くちよ)、七千代(ななちよ)、八万代という言葉が選ばれず、「八千代」になったのでしょうか。疑問は募るばかりです。

「君が代」の歌詞には、口ずさむだけで不思議と伝わってくるヘブライ語の響きがあります。ヘブライ語で神を意味する「ヤ」「ヨ」という発音が「千代に八千代に」というフレーズに繰り返されているだけでなく、そこに含まれる「チヨニ」という言葉の発音は、ヘブライ語では「シオンの民」を意味する言葉と全く同じ発音なのです。また、ヘブライ語で救いを意味するYesh(イェシ、イシ)や、イスラエル人にとっては神を意味する「岩」「巌」という表現が含まれていることも気になります。

ある日、「君が代」がもしかしてヘブライ語で書かれているのではないかと考え、ヘブライ語の発音表記と仮定して幾度となく読んでいると、驚くことに、一見日本語で書かれた「君が代」の歌詞が、最初から最後まで一貫してヘブライ語の詩としても読めることがわかったのです。「君が代」は、元来ヘブライ語で書かれた歌であり、その歌詞に日本語がオーバーラップされ、巧みに組み合わさって完成した古代の賛歌と言えます。折句の真髄を極めた天才的な作品である「君が代」には、古代、日本に移住してきた神の民、ユダヤ人の神に対する熱い思いと、その信仰告白とも言える大切なメッセージが秘められていたのです。君が代の意味を正しく理解することにより、古代日本の歴史観が塗り替えられることになります。

「君が代」の歌詞は、「きみがよは」から始まります。このフレーズは、ヘブライ語で読むと、「クム・バ・ヨワ」という3つの言葉に分けられます。「クム」はヘブライ語のkum、クム(kum、クム)が語源であり、「立つ」または「起き上がる」ことを意味します。「が」はヘブライ語で「来る」「来た」、すなわち英語の「come」と同義語であるbaah、バ(baah、バ)です。すると、ヘブライ語で「キミガ」の意味は、その発音が多少訛った「クムバ」、すなわち「立ち上がり、来てください!」となります。

続く「ヨワ」は、神を意味するyhwh、ヤハウェ(yhwh、ヤハウェ)というヘブライ語の子音に、母音をつけて発音したものでしょう。YHWHという神聖な神の名を意味する言葉は、人間が発音することのないよう、古代から正式には母音が付けられことはありませんでした。つまり神の名前を発音することが禁じられていたのです。よって今日、イスラエル人は神の代名詞として、「ハシェム」と呼ばれる仮の名を使用しています。また、「ヤ」という発音が「神」の意味に解釈されていることは、ヘブライ語の子音であるヨッド(yuddo、ヨッド)一文字だけでも「神」を言い表す言葉とされてきたことからもわかります。しかしながら、もし、このYHWHという子音4文字にあえて母音を付けて読むとするならば、様々な古代の文献や調査から察するに、おそらく「ヤハウェ」「ヤ―ウェー」と発音されたであろうというのが定説です。YHWHは、母音の付け方によっては、「ヤハウェ」と酷似した「ヨーワー」「ヨーヴァー」と発音することも可能であり、それが「君が代は」「よわ」の語源になったと考えられます。

「君が代は」の語源はヘブライ語であり、「クンバヤハウェ」「クンバヤワ」と発音する言葉が多少訛り、「キミガヨワ」という日本語になったと考えられます。それは、「神よ、立ち上がり、来てください!」という切なる祈りの言葉だったのです。

「クンバヤ」という黒人霊歌が今日、キリスト教徒を中心に世界各地で歌われていることを御存じでしょうか。当初、アメリカ東海岸沿いの諸島に住むアフリカ系の人々が英語で「Come by here」と歌い、それが訛ったものではないかと言うのが歌詞の背景に関する定説です。また、太平洋諸島をアメリカからの宣教師が訪れた際に、そこで現地の島民に「Come by here」と祈ることを教えた結果、その言葉が訛っていつしか「クンバヤ」と歌われるようになったという話も伝承されています。「クンバヤ」の正確な発祥の地は不明のままですが、黒人霊歌として親しまれてきたこの歌の語源も、「君が代」と同様にヘブライ語の「クンバヤ」と考えられます。これは「君が代」という歌のルーツが世界各地で歌われている「クンバヤ」に結び付いているだけでなく、多くの島々に古代、イスラエルの民が渡来し、そこで「クンバヤハウェ」、「神よ、立ち上がり、来たまえ!」と神を祈り求めた結果ではないかと考えられます。

「キミガヨ」の後に続くtsiyoni、チヨニ(tsiyoni、チヨニ)は、ヘブライ語でシオニストを意味します。今日、シオニストはイスラエル文化の復興を強行するユダヤ人の運動を意味することが多いのですが、遠い昔その言葉はイスラエル神殿の丘、聖地を意味する「シオン」、そして「シオンの民」の意味で使われていたと想定されます。だからこそ、「君が代」では、「チヨニ」に続いて神を意味する「ヤ」を付加しyahtsiyoni、ヤチヨニ(yahtsiyoni、ヤチヨニ)と歌い続け、「神の(シオンの)民」にスポットをあて、「神の選民」に対する神の恩寵を語り継いだのではないでしょうか。つまり「千代に八千代に」とは、ヘブライ語で「シオンの民、神の選民」を意味していたのです。

次に「サザレ」ですが、これはヘブライ語でsasah、サッサ(sasah、サッサ)とsarid、サリー(ド)(sarid、サリー(ド)」と発音する2つの言葉が合成された言葉です。「サッサ」は喜ぶこと、「サリード」は、「残りの民」「生き残る」を意味します。古代、国家を失ったイスラエル人にとって「残りの民」という言葉の意味は重要でした。祖国が崩壊する最中、生き残った民が神の憐れみにあずかり、再び「神の選民」としていつの日か、立ち上がることが信じられてきたのです。その約束が果たされたのが、日本列島だったのではないでしょうか。国家を失った「残りの民」の中には、古代、日本の島々に船で渡来し、新天地にて新しい国家の建設に取り組み、神の社を随所に建立し、神を祀ったイスラエルの民が存在したのです。だからこそ、残りの民が滅びることなく日本列島に定住することができ、大いなる恵みが訪れたことを「サッサ・サリー」「サッサリー」、「残りの民は喜びます!」と歌いつつ、神を誉めたたえたのでしょう。そしていつしか日本語で、「サッサリ」は、「さざれ」と読まれるようになりました。

「サッサリ」の次に詠われる「石の」という言葉は、古代、「イシュノ」と発音されていたと想定されます。そのヘブライ語ルーツは人類を意味するenosh、エノシュ(enosh、エノシュ)の可能性があります。この「エノシュ」の発音が反転して「エシュノ」に転化したと想定すると、「サッサリ・エノシュ」となり、「残りの民と人類は喜ぶ」という意味のヘブライ語として普通に読むことができます。

また、「イシノ」の「イシ」は、「救い」を意味するyasha、ヤシャ(yasha、ヤシャ)(yesha、イェシャ)と、「お願いします!」を意味する祈りの言葉、na、ナ(na、ナ)を合わせた言葉としても理解することができます。「ヤシャ」という言葉をルーツとして、hoshia、ホシア(Hoshia、ホシア)、yeshua、イェシュア(Yeshua、イェシュア)など、「救い」を意味する言葉が複数存在します。これら「ホシヤ」「イェシュア」「ヤシャ」「イェシャ」が訛り、日本語では「イシ」と発音する救いを意味する言葉になった理解すると、文脈を自然に解釈できます。そして「イシ」の語尾に、祈りの願いを込めた感嘆詞として使われるna、ナ(na、ナ)を加えて「イェシャナ」「イシャノ」、または「イシノ」とすれば、「助けてください」という救いを求める祈りの言葉となります。

新約聖書にはイエスキリストがエルサレムの街に入られた際に、大勢の人々が「ホサナ」と喜び歌ったことが書かれています。ギリシャ語で書かれた「ホサナ」の語源は、ヘブライ語のhoshiana、ホシアナ(hoshia-na、ホシアナ)です。前述したとおり、「ホシア」は「救い」を意味し、「ナ」はお願いする気持を表現する言葉であり、2つが合わさると、強い祈りの思いが込められる言葉になります。よって詩篇118編25節では、「私たちに救いを!」という祈りの言葉として用いられています。「ホシアナ」と同様に、救い意味する「イシ」に祈りの言葉となる「ナ」が語尾に付けられた言葉が「イシナ」です。その「イシナ」が「イシノ」「石の」となり、「救いたまえ!」「救いを!」という意味で詠われたのです。

「細石(さざれいし)」の後には、「巌となりて」という歌詞が続きます。一般的には、小粒のさざれ石が長い年月を経て堆積し、いつしか大きな岩に変貌する意味であると解釈されていますが、実は、このフレーズもヘブライ語で綴られた信仰に関する熱いメッセージです。「巌となりて」は、「イワ・オト・ナリテ」という3つのヘブライ語に分けられます。

まず、「イワ」は、神を意味するYHWH、ヤハウェ(YHWH、ヤハウェ)というヘブライ語の子音に任意の母音を付け、「神」の呼び名として、「イワ」という発音であると考えられます。イスラエルの民にとって、岩は神、そして神の象徴であったことから、多くの渡来者がイスラエルから訪れた日本社会においても、古代から岩は「神」として崇められてきたのです。それ故、日本流のハシェムとして神を意味する言葉となるべく、YHWHの文字の「Y」には「イ」、「W」には「ア」の母音を付けて、「イワ」と発音する言葉が生まれ、岩、そして神を意味するようになったのです。イスラエルの民の間では、古代から「岩なる神」というコンセプトが語り継がれてきていますが、その背景を「岩」という言葉は見事に反映していたのです。また、ヘブライ系ユダヤ人のことをアラム語では「IWARAA」「イワラ」、神の民を「YEHUDI」「イフディ」「イワデ」と呼び、そこに「イワ」という発音が含まれるのも、それらの言葉の背景に「神」の意が含まれているからに他なりません。岩は神であることの証として、新約の時代では、イエス・キリストが「救いの岩」と呼ばれることになります。

次の「オト」は、ヘブライ語で「私に」を意味するoti、オティー(oti、オティー)が語源と考えられます。そして「ナリテ」はヘブライ語で「見せた」を意味するniratah、ニラタ(Niratah、ニラタ)が多少訛った言葉です。NRTという3つの子音から成る「ニラタ」は、母音を多少変化させると、「ナリタ」「ナリテ」と言う発音にもなります。すると、「イワオトナリテ」がヘブライ語では、「神が私に見せてくださる」という意味となることがわかります。では、何を見せてくださったのでしょうか。旧約聖書では、随所にイスラエルの民が、神の御顔を求めて祈ったことが記されており、その思いは今日まで引き継がれています。前後の文脈の流れとヘブライ語での祈りという背景から、「ニラタ」には「神の御顔を見せる」、または「主を見せてくださる」というニュアンスが含まれていることがわかります。つまり、神が見せてくださるのは、神ご自身の御顔であり、それがイスラエルの民の祈りに対する答えだったのです。

最後に、「苔のむすまで」という締めくくりの文章をヘブライ語で解釈してみましょう。この言葉の響きは異様であり、君が代の限りない繁栄を詠う言葉にしては、今ひとつ理解しづらいと思う方も少なくないでしょう。しかしながらヘブライ語で読むことにより、これまでの歌詞の流れに沿って、歌全体の文脈を理解することができるようになります。「コケノ」の原語はヘブライ語で「コル」「カノ」という2つの言葉から成り立ち、実際の発音は「コ(ル)カノ」です。ヘブライ語でkol、コル(kol、コル)は、「すべて」「全部」を、そしてkano、カノ(kano,カノ)は「基礎」「台」を意味します。ふたつを合わせると、「コカノ」「コケノ」という言葉となり、「すべての基礎」を意味するだけでなく、「全地」をも示唆する表現と言えるでしょう。

最後の歌詞となる「ムスマデ」には、2つの解釈があります。まず、「語られる」「鳴り響く」という意味を持つmushma、ムシュマ(mushma、ムシュマ)をルート語とするmushumaat、ムシュマット(mushumaat、ムシュマット)という言葉が、「ムスマデ」の語源であると想定してみました。すると、「コ(ル)カノ・ムシュマッ(ト)」はヘブライ語で「全地に鳴り響く」という意味になります。すると、「君が代」の最後の文は、民の祈りに応えて「神が御顔を見せてくださり、全地が鳴り響く」という意味に理解することができます。

もうひとつの解釈は、「ムスマデ」をヘブライ語で、「破壊」「破滅」を意味するmushumad、ムシュマッド(mushumad、ムシュマッド)として読むことです。すると、「コ(ル)カノ・ムシュマッ(ド)」は、「全ての基礎、全地が滅びる」を意味することになります。一見、無茶な解釈のように聞こえますが、2つの理由をもって後者の解釈の方が、にわかに信憑性を帯びてくることがわかります。

まず、旧約聖書の最後となるマラキ書の3章24節に注目してみましょう。旧約聖書の最後を飾るこの節には、「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」と書かれています。古代、イスラエルの預言者は、この世のもの、つまり天地は、いつしか滅び去るというメッセージを一貫して語り続けてきました。予言の内容については、聖書の中でも預言書と呼ばれる書簡の随所に収められています。しかしながら、信仰によって生きる民は、それらの災害から救われ、神によって贖われることも語られています。そして多くの民は、その教えを信じたのです。それ故、天地が滅びても、神が御顔を見せてくださり、救いの手が差し伸べられるから民は喜ぶという、証にも聞こえる言葉は、まんざら思いすごしではなく、君が代の最後の文脈にヘブライ語で綴られた、信仰告白のようなのです。

2つめの理由は、「ムシュマッ(ド)」という言葉に、キリスト信仰に関連する特殊な意味が含まれていることです。「ムシュマッ(ド)」の元来の意味は「破壊」です。しかしながら、イエスキリストの時代以降、キリストを信じるものと、その教えを否定してユダヤ教に徹する者とが激しく敵対していく最中、ユダヤ人の中でもキリスト教に改宗した人はいつしか、「ムシュマッ(ド)」、すなわちユダヤ人でありながら「破壊された者」として差別されるようになったのです。こうしてキリストを信じる「ムシュマッ(ド)」は、ユダヤ人から蔑視され、完全に仲間外れにされるようになりました。

もし、「君が代」の作者がイスラエルからの渡来者の末裔であり、キリスト者、つまりイエスキリストを信仰する民の集団であったとするならば、「ムシュマッ(ド)」という言葉が極めて重要な意味を持つことになります。すると、「コ(ル)カノ・ムシュマッ(ド)」が表面的には、「全地が滅びる」の意味に聞こえるものの、その真意としては、「全ての基礎はキリスト者」「全地はキリストにあり」、という本質的な信仰告白の意味が含まれていたことになります。この2重の意味こそ、「君が代」が語ろうとする真髄であり、「苔のむすまで」と歌うことにより、「全てはムシュマ(ド)」、「全てはキリストにあり」という熱い信仰の思いが告げられていたのです。

「君が代」の歌詞とは、神の選民であるイスラエルの民が、自らに託された使命を明文化した、力強い信仰告白のメッセージだったのです。「君が代」は、「神よ、立ち上がって来てください!」という祈りの叫びである「君が代は」(クムバヤハ)、という掛け声から始まります。そして「千代に八千代に」(チヤニ・ヤチヤニ)と呼ばれた「シオンの民、神の選民」は、神の大いなる恵みを受ける「残された民」として喜び、神の救いを祈り続けたことが、「細石の」(サッサレ・イシュノ)の意味です。その結果、「神は私に御顔を見せてくださった」という思いが、日本語では「巌となりて」(イワオティーニラタ)と語られたのです。そして、例え全地が滅びても、全ての基礎はキリストにある故、大丈夫という強い証の思いが、「苔のむすまで」(コルカノ・ムシュマデ)という言葉をもって表現されました。そこには、「全てはキリストにあり」という信仰告白の思いが込められていたのです。

「君が代」は、ヘブライ語で書かれた信仰の賛歌です。そこには、日本人、そして世界中の人が知るべき、素晴らしい救いのメッセージが記されていたのです。

君が代 ヘブライ語

神よ、立ち上がって、来てください
シオン、神の選民! 残りの民は喜び、救いを待ち望みます!
神が御顔を見せてくださる
すべての基はキリストにあり

ヘブライ語の発音も聞けます(外部サイト:日本とユダヤのハーモニー) >

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部