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春日大社のレイライン
古代の英知を結集して特定された藤原一族の聖地

春日大社の創始は、国譲りに関わる神々の一人として知られる武甕槌神に由来します。日本書紀や古事記によると葦原中国平定の時代、天照大神から神託を授かった武甕槌神は、経津主命と共に海原を旅して出雲へと向かい、地域を支配していた神々に剣の権威を誇示しながら大胆に語り、国譲りを見事に実現しました。その直後、力づくで反抗しようとした建御名方神(タケミナカタ)を征伐するため、武甕槌神は内陸の諏訪まで建御名方神を追走し、自らの支配下に置いた後、大国主神と談判するため再び出雲へと向かい、その後、高天原へとお戻りになられました。

国譲りの戦場となった出雲の地は、神々の先祖である伊邪那岐命が葬られた淡路島の中心地、今日では伊弉諾神宮が建立されている場所から見て、夏至の日が沈む方角に位置します。これは、出雲の地が伊邪那岐命と結び付いていることを証しています。そして武甕槌神が建御名方神を追走して戦った諏訪の地は出雲とは逆に、ちょうど夏至の日が昇る方向に位置します。諏訪周辺には阿久遺跡の発掘調査からも確認されたように、縄文時代から大規模な集落が形成されていました。よって古代、諏訪も淡路島と紐付けて考えられていた可能性があります。また、諏訪から見て真東の太平洋沿岸には鹿島の地が存在します。これら2つの聖地は同緯度に並んでいることは、偶然ではないでしょう。武甕槌神が鹿島の国つ神となり、鹿島神宮の御祭神としても祀られるようになったことからしても、武甕槌神が鹿島の歴史に深く関わっていることがわかります。

春日大社 中門・御廊
春日大社 中門・御廊
春日大社の御祭神である武甕槌神が、国譲りの征伐を機に訪れた出雲と諏訪、そして鹿島の地とも深く結び付いていることを理解することは、諏訪、鹿島、出雲という3つの聖地の繋がりだけでなく、武甕槌神を祀る春日大社の背景を見極める上でも重要です。そのため、まず、春日大社の主祭神である武甕槌神の足取りに着眼し、拠点となる出雲、諏訪、鹿島の聖地を結ぶ複数のレイラインを検証しながら、歴史の流れを考察することにします。

武甕槌神と鹿島との繋がり

何故、武甕槌神が鹿島の地にて崇められるようになったのでしょうか。国譲りの際、武甕槌神は諏訪地方を離れた後、大国主神と談判するために一旦出雲へと戻ったことが古事記に記載されていますが、そこには鹿島の記述が見当たりません。記紀においては、その後の神武天皇東征の際に、武甕槌神が神武天皇に神剣を授け、東征において鹿島を含む地域の重要拠点を制覇したことに貢献したこと以外、鹿島については無記のままです。

平安時代末から編纂された霊験集の集大成として春日大社に保管されている「春日権現験記絵」の序章には、武甕槌神が天下って平定し、鹿嶋へ移られ、その後、神護景雲2年(768)春、法相宗を擁護するために御笠山に移られたことが記載されています。この序章の文は不思議な点が多く、例えば武甕槌神が天下ったのは神代のことであり、「御笠山に移られた」768年とは大きな時代の隔たりがあります。また、御笠山への移動は藤原氏による武甕槌神の勧請を意味し、ご自身が生存中の出来事に関する記述ではないこともわかります。よって、鹿嶋へ移られたという記述も、その年代が国譲りの時期か、後世かを特定できないだけでなく、移られたのが武甕槌神ご自身か、それとも御笠山と同様に鹿島に勧請されたかも定かではありません。

鹿島神宮の楼門(春日大社の南門に酷似)
鹿島神宮の楼門(春日大社の南門に酷似)
しかしながら、鹿島神宮が建立され、その御祭神として武甕槌神が祀られ、国つ神として崇められてきた史実があります。また、鹿島を含む常総地方で祭祀職の責務を担っていた中臣氏や、神武天皇の子孫である多氏が、古くから武甕槌神を鹿島神、海上交通の神として崇拝してきた史実も見逃せません。よって、武甕槌神は確かに鹿島に渡来し、地域周辺における港や集落の発展に大きく貢献したことから、鹿島の土着神として多くの人々から崇められるようになったと考えるのが自然です。

武甕槌神と鹿島との関係については、日本の地勢とレイライン、及び武甕槌神のライフワークに関する足跡を垣間見ることにより、およその流れが見えてきます。武甕槌神は海上交通の神と言われているだけに、その得意とする手段は船による移動であったことは明白です。当初、葦原中国を制定する役目を授かった武甕槌神は、日本列島の南方から船で北上し、日本海側に回って出雲へと到達しました。そこで剣を地面に突き刺すという一世一代のバトルを終えた後、力比べに負けて逃げる建御名方神を追って、長野の諏訪へと向かいました。

ところが日本海側から諏訪地方に向けては主流となる川もないことから、陸地を追って行くしかなかったのです。しかも諏訪は、日本海沿岸から最短距離でも100㎞以上内陸にあり、周辺が山々に囲まれていることから、徒歩による旅は決して生易しいものではありませんでした。それ故、建御名方神と和解した後、武甕槌神は諏訪から出雲へと戻る際に、これまで来た道とは逆の東方へと向かう決断をしたとは考えられないでしょうか。つまり、来た道を戻るのではなく、諏訪から真東へ向かい、諏訪と同緯度にあたる太平洋岸へと旅を続けた可能性があります。

諏訪から北東方向に35㎞ほど山道を歩くだけで、そこには千曲川と利根川の支流が交差する水路があります。その15~20km先、今日の軽井沢近くには利根川の支流があり、渋川周辺にまで行くと、そこから利根川の本流を下りながら、太平洋側の鹿島沿岸まで一気に船で下ることができました。船旅を得意とする武甕槌神にとって、  鹿島神宮 拝殿
鹿島神宮 拝殿
利根川の水路は天与の恵と考えられたのではないでしょうか。そして太平洋沿岸に辿り着いた後、河口周辺において諏訪と同じ緯度線上にある場所が地域の拠点と定められ、そこに港と集落が造成されたのです。2つの地点が同緯度線上に並ぶことにより、天体を観測しながら双方の場所をピンポイントで探し当てることができます。よって古代の知者は、大切な拠点同士を同緯度に定めたのです。それ故、鹿島と諏訪は同緯度となるレイライン上で結び付いていたのです。

春日大社に紐付く鹿島の重要性

春日大社の境内で戯れる鹿
春日大社の境内で戯れる鹿
国譲りをはじめとする多大なる貢献を成し遂げ、鹿島の神として知られるようになった武甕槌神は、長い年月を経た後、藤原氏により春日大社に勧請され、その御祭神として知られるようになりました。その際、武甕槌神は白鹿に乗って御笠山に来られたという伝説も残されており、春日曼荼羅の図には鹿の背に神影や、鹿の背の上に鏡が掛けられた榊などが描かれています。また、香取神宮でも、遠い昔、鹿島から香取に向けて鹿が使いとして文書を運んでいたという伝承が残されています。こうしていつしか鹿は霊威ある動物として大切に取り扱われるようになり、春日大社の鹿も神鹿とも呼ばれるようになったのです。鹿島神宮の神鹿に由来する鹿を通じて、鹿島神宮と春日大社は固く結び付くことになります。

こうして春日大社では中臣氏が神官となる鹿島神宮の神、武甕槌神が第一殿、そして香取神宮の神であり、葦原中国平定の際には出雲で武甕槌神と共に戦った経津主命が第二殿で祀られています。第三殿では中臣氏の祖先神とし古事記にも記され、天岩戸を開いて天照大神を暗闇から導き出した天児屋根命が、そして第四殿では比売神を祀っています。これらの神々を合わせて中臣氏、藤原氏の氏神として、更には平城京の守り神としたのです。

春日大社 御蓋山浮雲峰遥拝所
春日大社 御蓋山浮雲峰遥拝所
ではなぜ、藤原一族の長としても知られる藤原不比等は710年、藤原氏の氏神である武甕槌神を奈良の三笠山で祀り、春日神と称したのでしょうか。なぜ、それまで発展してきた一族ゆかりの地である鹿島ではなく、そこから500㎞ほど西方に離れている奈良の三笠山に藤原一族の総本山とも言える春日大社を建立し、そこに武甕槌神を勧請したのでしょうか。「春日権現験記絵」によると、春日大社の聖地が正式に決まった768年、法相宗を擁護するために三笠山に移られた武甕槌神は、新天地となる奈良に到達し、盆地を囲む小高い山々の中でもひと際美しい山を見出し、その風景を見て、「日本に山野は多いが月が出た時の御蓋山ほど素晴らしい所はなく、花の匂いも春日野に勝るところはない。」と絶賛したのです。そして経津主命と天児屋根命を春日大社へとお誘いしたことが記されています。また武甕槌神が惚れ込んだ標高283mの山は御蓋山(三笠山)と呼ばれ、通称春日山としても知られるようになります。

武甕槌神が鹿島から奈良の三笠山へと勧請され、藤原一族が春日大社を基軸として奈良に一族の土台となる礎を築いた理由は想像するに難くありません。国家体制が激動し、権力闘争が厳しさを増す最中、政権を担う立場に置かれた藤原氏にとって、一族の存在そのものを建国の神々に結び付け、世間一般に周知させることが重要視されました。また、奈良は列島の中心に位置することから、聖地同士を結ぶ多くのレイラインが交差する地点でもあり、地の力と一族の権威を示す拠点を造営するには、最適な場所でもありました。

さらに奈良には、神ご自身が「そこに住まわれたい」と語られた三輪山があります。その不思議なるメッセージの結果、三輪山は最も聖なる地として古くから認知され、その頂上周辺には古代、多くの神宝が秘蔵されてきたのです。三輪山は今日、大神神社のご神体となる霊峰として禁足地に指定されています。三輪山周辺には檜原神社、長谷寺など由緒ある神社がその後、建立されました。そして初代神武天皇の御所となる橿原神宮も三輪山から5㎞の地点に建立されました。多くの聖地が周辺に名を連ねる三輪山の重要性は明らかです。その霊峰の真北、およそ

16㎞離れた場所に見出されたのが三笠山です。武甕槌神が、三笠山を最高の場所と断言することに躊躇しなかった理由は、三笠山が三輪山の近くに南北一直線に並んでいるということだけでなく、他の霊峰や聖地ともレイライン上に繋がっているからに他なりません。春日大社のルーツとなる三笠山は、優れた地勢だけでなく、その場所を通り抜ける多くのレイラインの存在により、最重要視されたのです。武甕槌神にとって三笠山は、他のどの山々よりも大切な拠点と考えられた理由を、レイラインの考察から検証してみましょう。

春日大社の見事なレイライン

春日大社が建立された背後に聳える三笠山は、日本列島の聖地をくまなく歩き回りながら調べつくした藤原一族が特定した地点だけに、レイライン上においてもその場所は、多くの聖地を結び付ける線が交差する重要な地点となっています。特に注目すべきは、武甕槌神ご自身が関わった列島の聖地を通り抜けるレイラインに着眼し、それらが交差する地点が春日大社と関わっているかどうかを見極めることです。武甕槌神が登場する舞台として、記紀には出雲、諏訪、鹿嶋の地名が明記されています。よって、これらの聖地に纏わるレイラインの存在と交差点を確認することにより、春日大社が果たして、レイラインを用いて見出されたどうかを理解することができます。

まず、国譲りの舞台となった出雲の聖地として、その原点に聳え立つ八雲山のレイラインを検証してみましょう。驚くことに、八雲山と伊勢神宮の内宮を結ぶレイラインは、春日大社の上をピタリと通り抜けます。武甕槌神が活躍した神代ではまだ、伊勢神宮は建立されていませんでしたが、藤原不比等が政権を握るベく台頭してきた時代では、伊勢神宮はすでに由緒ある聖地として認知されていたのです。よって、八雲山と春日大社、そして伊勢神宮が一直線上に並ぶことは、決して偶然ではないようです。

次に注目したいレイラインの拠点が、紀伊半島の最南端にある紀伊大島の東岸です。今日、トルコ軍艦遭難記念碑が立つ紀伊大島の樫野崎は、古代から地域の重要拠点として船旅の道しるべになっただけでなく、レイライン上でもその存在の重要性が確認されています。それ故、樫野崎から真北に向かって引く線が、重要な意味を持っています。事実、その線上には金峰山寺、崇峻天皇陵、檜原神社、石上神宮、春日大社、そして近江神宮が並びます。これだけ多くの聖地が並ぶことからしても、紀伊大島のレイラインの重要性を無視することはできません。その結果、八雲山と伊勢神宮内宮を結ぶレイラインと、紀伊大島のレイラインが交差する地点が、春日大社の聖地となることがわかります。これは偶然でしょうか。

諏訪大社 神楽殿
諏訪大社 神楽殿
それが偶然でないことは、武甕槌神が出雲にて国譲りの戦いを終えた後、次に向かった諏訪の地点を通るレイラインを検証することによって理解できます。諏訪には複数の聖地が存在し、中でも諏訪大社前宮と上社は重要な位置付けを占めています。三重県と滋賀県の県境には、標高1,212mを誇る御在所岳が聳え立っています。日本二百名山にも選定されている御在所岳は霊峰としても名高く、山頂近郊には多くの磐座が散在し、古代から多くの人の手が加わり、大切にされてきた山であることがわかります。その御在所岳の頂上と、諏訪大社上社をレイラインで結ぶと、その一直線上に春日大社がぴたりと存在します。また、諏訪大社の下社と、四国における地の指標として著名な足摺岬の半島にある足摺巨石群唐人駄馬遺跡を結ぶと、このレイラインも春日大社を通り抜けていきます。これら3本のレイラインの交点に存在する三笠山の存在は特別視されていたと考えても不思議ではありません。さらに中部地方においては、霊峰として語り継がれている伊吹山と金剛山を結ぶレイラインが春日大社を通り抜けることにも注目です。

春日大社の創始に深く関わる鹿島神宮のレイラインも覚えておく必要があります。諏訪大社と同緯度に存在する鹿島神宮と富士山頂を結ぶ線は、鹿児島県の中甑島ヒラバイ山を通ります。富士山の頂上を通るレイラインは複数ありますが、中でも、この鹿島神宮のレイラインは重要です。ヒラバイ山はイスラエルのエルサレムと同緯度にあることから、古代の国生みの時代、南方から船で北上してきた民は、鹿島神宮 奥宮
鹿島神宮 奥宮
中甑島にある小高い山を特定し、その場所をヘブライ山、後に訛ってヒラバイ山と呼んだのでしょう。エルサレムと同緯度にある基点だからこそ、天空を検証しつつ、その場所から多くの拠点が日本列島に見出されていくことになります。中でも、ヒラバイ山と最高峰の富士山を結ぶ線は重要であり、その延長線に古代の港町、鹿島の地が特定されたのです。そして必然的に鹿島神宮と諏訪大社は同緯度線上に並び、双方の位置付けが明確にわかるように配慮されたと考えられます。

古代、淡路島の中心として岩上神社の神籬石が重要視されていました。中国に存在する世界の中心地と言われた「陽城」と同緯度にある神籬石は、古くから地の指標として用いられていたのです。春日大社も、もしかすると陽城に繋がる岩上神社の神籬石と繋がっているかもしれません。陽城のレイラインは、日本列島の最高峰である富士山と淡路島の中心にある岩上神社の神籬石とを結び付けています。その神籬石と富士山頂の南端を結ぶと、そのレイランイ上には多くの聖地が連なり、そこには金毘羅さんとしても知られる海上交通の神を祀る金刀比羅宮や大陸から渡来した秦氏が創建した八幡神社に深く関わる宇佐神宮が名を連ねることにも注視する必要があります。

春日大社のレイラインの中には、日本列島の聖地を結ぶ多くのレイラインの中でも、最重要視されるべき大切な線が含まれています。その基点となるのが富士山と古代の聖地である淡路島の伊弉諾神宮です。国生みのリーダーとなった伊邪那岐命の墓が近くにあるとされる伊弉諾神宮と富士山を結ぶレイライン上には、不思議なことに春日大社、宇佐神宮、そして金刀比羅宮奥社厳魂神社が並びます。春日大社では藤原一族の氏神として海上交通の神としても名高い武甕槌神が祀られており、同様に金刀比羅宮では海上交通の神と大神神社の祭神である大物主が祀られていることは、双方が海の神という共通点をもってレイラインにより繋がっていることを意味します。また、イスラエルの出自と考えられる秦氏が創始に関わった宇佐神宮も、このレイライン上に存在することから、春日大社の背景には古代イスラエルの英知が潜んでいる可能性を見出すことができます。春日大社を通るこれらのレイラインは、卓越した天文学と地理学、航海技術を携えて活躍した古代の識者らの英知を結集した結果と言えます。

鹿島神宮のレイライン
春日大社のレイライン

春日大社の創始に絡むユダヤルーツ

古代、国生みの神々は遠い西アジア、イスラエルから船で渡来し、琉球地方を経由して北上してきたことから(別紙参照)、日本の文化や言語の随所に、その痕跡を見出すことができます。ここでは春日大社の名前の由来と、その創始者である藤原不比等の出自がイスラエルであることについて簡単に解説します。

「春日」を「かすが」と読むようになったのは、春日大社の創始が起源と考えられます。しかしながら、その根拠は定かではなく、一説では奈良の「かすが」が関わる和歌に、「春日のかすが」と詠む枕詞があり、その「はるひ(春日)」を、いつしか「かすが」と読むようになったと言われ、また、「神が住む箇所」という意味から「かすか」という地名がつけられたという説もあります。

しかしながら古代の地名には、その場所の意味や目的が含まれていることが多く、藤原一族の総本山となる春日大社の名前が和歌の枕詞に由来すると結論付けるには無理があります。「かすが」という名称は、ヘブライ語に由来すると考えられます。2つのヘブライ語を考えてみましょう。まず、Khatser、カツァー(Khatser、カツァー)というヘブライ語は、 国家の行政権を持つ君主や王子の家族を言い表す言葉です。次にgaal、ガー(gaal、ガー)は、贖われた、もしくは救われたことを意味します。これら2つの言葉を合わせると、「カツァーガー」と発音する言葉になります。そのヘブライ語の意味は「国家行政を担う君主の救い」になります。激動の奈良時代、日本国のリーダーとして、国家行政の頂点に立った藤原不比等であったからこそ、一族の総本山を「カツァーガー」と呼び、その名称に「春日」という漢字をあてたのです。

藤原不比等
藤原不比等
また、春日大社とその創始者である藤原不比等が、イスラエルの出自である決定的な理由も、「不比等」という名前に秘められています。669年、藤原不比等の父である中臣鎌足が生涯の功績により藤原の姓を賜った際、自身の名を藤原不比等に変えました。不比等(ふひと)という名前にも定説はなく、一説によると、その漢字の意味からして、「比類なき優れた者」であるとも言われています。人の名前であり、歴史に名を残した偉大な統治者であったことからしても、無意味な名前をつけたとは考えられません。「ふひと」の名は文献によっては「史」とも記載されていることから、いずれも当て字であり、大切なことはその名前の発音となる「ふひと」の意味であることがわかります。

ところがこれら所説が的を射ることができない理由は、藤原不比等がイスラエルから渡来した国生みの神々の末裔であり、神を祀る聖所や神宝を取り扱う任務を授かったイスラエル12部族の中の、レビ族の出自であることを理解していないためです。「ふひと」という名はヘブライ語に由来し、神聖な意味が含まれています。その名には、藤原一族の長である藤原不比等とその子孫が、神の民であることを示す強い思いが込められており、「ふひと」という言葉自体が「神」を意味する暗号にもなっています。

ヘブライ語は古代より今日まで、右から左に読みます。しかしながら、時には逆読みをして、別の意味を込めるというような、折句の一種として用いられることもあります。古代の日本社会では、多くの渡来系の民が大陸より日本列島に移住してきたことから、ヘブライ語を理解できる民が少なくありませんでした。よって、それらイスラエル系の識者にとって「ふひと」は決して不可解な名ではなく、むしろヘブライ語で綴るだけで理解することができる、貴重な暗号のような名だったです。

「ふひと」はアルファベットでhuhitoと綴り、それをヘブライ語にするとhuhito、フヒト(huhito、ふひと)となります。それを逆読みすると、atyhwh、アトヤーウェー(atyhwh、アトヤーウェー)となります。そこにはイスラエルの民にとって、神聖なる神の名前、YHWH(ヤーウェー、アドナイ)の4文字が含まれています。そしてATの後にスペースを入れてatyhwh、アトヤーウェーと書くと、その言葉も正に「神」を意味する言葉になります。つまり、藤原不比等という名前は、「藤原の神」、「藤原神」を意味していたことがわかります。

国家のリーダーとして天命を授かり、神の民として、祭祀職を担い、国家を統治するために全身全霊を注いだ藤原一族の長であったからこそ、その名前を「ふひと」、「神」としました。そして一族の聖地を「かすが」と呼び、その名称には「国家行政を担う君主の救い」という意味を込めたのです。藤原不比等の名前をヘブライ語で理解することにより、飛鳥、奈良時代の多くの謎が、一気に紐解かれていくことでしょう。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部