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神宝の行方を追う古代史のロマン Part II
六芒星のレイラインから浮かび上がる古代の聖地

伊勢神宮と剣山に結び付く高野山

剣山と伊勢神宮を結ぶ1本の仮想線上に高野山が存在することに偶然にも気が付き、古代史に絡めて日本の地理を学ぶ面白さに魅了され、日本列島全体を研究する意欲が湧いてきたことは大きな収穫でした。これまでとは全く違った視点から日本の地図を見ることにより、著名な神社や霊峰と呼ばれる高山など、多くの聖地が不思議と一直線に並んでいるという事実が、手に取るようにわかってきたのです。

大勢の人々が神を参拝してきた神社や山の頂上が仮想の線上で繋がっているという事実に目覚めることは、古代史の流れを理解する上で極めて重要です。なぜなら、2点を結ぶ直線上に次の聖地を選ぶからには、それなりの理由があるだけでなく、神社などの聖地が造営された順番も特定できると考えられるからです。例えば高野山の金剛峯寺は剣山と伊勢神宮を結ぶ直線上に並ぶように意図的に特定されたと推測されることから、その直線を結ぶ基点となる剣山と伊勢神宮は、高野山金剛峯寺の創設者である空海にとって極めて重要な存在であったことがわかります。これら神社や地の指標、霊峰等を結ぶ仮想線はレイラインと呼ばれ、歴史の謎を紐解く鍵となりうる大切な情報となります。

剣山頂からのパノラマを展望
剣山頂からのパノラマを展望
しかしながら素朴な疑問が残ります。剣山と伊勢神宮は250㎞も離れていることから、それらを結ぶ直線といっても四国の中心から紀伊半島の東端まで広がり、その線上のどこに拠点を見出すのか、わからないはずなのです。高野山の拠点となる場所を特定するには、おそらく東西拠点のいずれかを基点として、そこから一定の距離を隔てた直線上の場所が新たなる拠点になると想定し、早速、伊勢神宮と高野山の距離に注目してみました。グーグルマップによると、伊勢神宮と高野山の距離は108㎞です。高野山とはいえど、ピンポイントで特定できる場所はなく、山々のエリア全体を指して高野山といいます。それ故、正確な距離を特定できる訳ではないのですが、たまたまグーグルマップの情報に基づき、高野山の中心としてマークされていた場所までの距離が108㎞でした。この数字が、思わぬ展開をもたらすことになります。

伊勢神宮 風日祈宮
伊勢神宮 風日祈宮
さっそく108㎞という距離に注視しながら、伊勢神宮から同じ距離を持つ聖地が他にも存在しないか地図上で検証してみました。もし、108㎞離れた場所に大切な聖地が存在するならば、伊勢神宮から剣山に向けて同距離を持つ場所に新しい聖地を見出すことにより、これらの聖地がすべて仮想線上に繋がる関係になると推測したのです。そこで伊勢神宮から弧を描くように紀伊半島の西方から北方に向けて108㎞離れた地点を見渡すと、北西方向に京都御所を見つけました。しかもグーグルマップの距離をみると、ピタリ、108㎞となっていたのです!これは高野山が伊勢神宮と御所、すなわち日本国天皇がお住まいになられる聖地と密着するだけでなく、しかも剣山との繋がりも持つことを目論んだ結果ではないかと、とっさに思いました。空海の父方は皇族との繋がりが深く、空海も10代の頃から奈良に出入りし、勉学に励んできました。また、京都の地を見出して天皇に進言をした和気清麻呂とも大変親しい仲にあったことから、空海にとって天皇が住まわれる京都は大切な聖地であったに違いありません。よって、伊勢神宮と剣山を結ぶ線上において、京都と伊勢の距離と同じ108㎞の地点を、空海の生涯を全うする高野山の聖地としたのでしょう。

三角形の地図
三角形の地図

伊勢神宮を基点として西には高野山と剣山、北方には京都御所が扇上に広がることから、ごく自然と次に注目したのが、京都御所と高野山金剛峯寺の間に挟まれたエリアです。そして伊勢神宮から北西方向にむけて、ちょうどその中間に仮想線を引くと、その線上には最も由緒ある古代神宮の一つに数えられ、日本書紀や古事記にも記されている石上(いそのかみ)神宮が目に入りました。日本書紀によると、スサノオノミコトが八岐大蛇を切った十握剣は岡山の石上布都魂神社を経由して、石上神宮に収められたことになっています。また古事記には、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原平定の際に用いた剣が布都御魂として石上神宮に宝蔵されたことが書かれています。石上神宮には神剣が古代より宝蔵され、神宝に纏わる由緒が豊富であることから、その歴史の流れに注目することは、神宝の行方を学ぶ上で重要です。実際、これら神宝が石上神宮において管理されるようになったのは垂仁天皇の時代といわれ、それはまさに元伊勢御巡幸の時代に重なります。

石上神宮 拝殿
石上神宮 拝殿
石上神宮は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)をご神体とし、神宝に絡む古代の神社として名高いことから、石上神宮がレイライン上で伊勢神宮と京都御所、剣山と繋がっているとういことは、他の聖地も同様に神宝と深い関わりを持つことにならないでしょうか。実際、伊勢神宮を基点として結ばれているこれらすべての聖地は、神宝というテーマを共有し、見事にレイラインで結ばれていたのです。伊勢神宮に限らず、皇族がお住まいになられる京の都においても神宝は大切に保管されています。また、元伊勢御巡幸による神宝の遷座によって最終的に神宝が秘蔵された場所は、「元伊勢のレイライン」で解説した通り剣山であったことから、剣山周辺の集落では、神宝に纏わる伝承が今日まで残されてきたのです。

その石上神宮からの距離を測ると、京都御所までは48.3㎞。金剛峯寺までは49.3㎞と、ほぼ同等です。これは偶然の一致とは言えないでしょう。物部氏が統括する武器倉庫の本丸である石上神宮を中心に、その北方には京都御所が、南方には金剛峯寺があるように見えます。石上神宮は長年、物部氏によって祭祀が行われてきた経緯があり、その物部氏こそ、イスラエルの祭祀一族であるレビ族の血統である可能性が高いことも注目に値します。その石上神宮が、元伊勢御巡幸の最終拠点となった伊勢神宮内宮とレイラインで結び付けられ、そこが京都御所と高野山、剣山をも結ぶ接点になったのです。

石上神宮の摂社 七座社
石上神宮の摂社 七座社
これら拠点のすべては、古代の神宝に絡む大切な聖地であり、それらが見事に仮想線上で紐付けられていることは、もはや偶然とは言えません。その線上に空海は自らの最終拠点となる高野山を見出し、そこに金剛峯寺を建立したのです。こうして金剛峯寺は、いつの日もレイラインという仮想線上にて、神宝に結び付く伊勢神宮、京都御所、石上神宮、そして剣山とも繋がったのです。そして無名の山麓であった高野山は今日、世界遺産になるまで発展を遂げることになります。神宝を大切に秘蔵する責務と、それらを後世に託すことをライフワークとした空海の熱い思いを、高野山の存在から垣間見ることができます。

六芒星から浮かび上がる元伊勢の聖地

これまでの考察から浮かびあがった三つの拠点、伊勢神宮と京都御所、高野山を結ぶと、正三角形に近い二等辺三角形になります。その形状を思い浮かべながら、もしかして同じ形状の二等辺三角形を逆方向にずらして重ねたら、イスラエルのシンボルでもあるダビデの星、六芒星の形が作れると思い、地図上で線引きをしてみました。問題は伊勢神宮に相対する西側の拠点が定まっていないことでした。そこで、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ同一線上で、逆二等辺三角形の頂点として六芒星を描くことができそうな神社や遺跡、その他史跡があるかを検証したのです。すると一か所だけ、六芒星の頂点となり得る場所が見つかりました。

六芒星のレイライン
六芒星のレイライン

大龍寺 大師堂
大龍寺 大師堂
兵庫県の新神戸駅北側には再度山と呼ばれる山があり、そこに大龍寺というお寺があります。普段は聞いたこともない山と寺の名前ですが、伊勢神宮と石上神宮という神宝に関わる極めて重要な古代の聖地を結ぶ線上に存在することから、有無を問わず再度山の背景を調べてみました。すると驚くことに、この再度山は空海ゆかりの地であり、また、和気清麻呂という皇族にお仕えし、京都の聖地を見出した天才的な地理学者が拠点とした場所であり、大龍寺の基となる道場を創設したことがすぐにわかりました。天皇がお住まいになられる御所と、伊勢神宮、高野山が、地理的には二等辺三角形の形で繋がっているだけでなく、その中心となる伊勢神宮と石上神宮を結ぶ線上に、空海と和気清麻呂が拠点とした大龍寺、再度山があるという事実を目の当たりにし、もはやレイラインの存在を疑う理由はありませんでした。早速大龍寺を西側の頂点として、そこから二等辺三角形を描き、ダビデの星となる六芒星を地図上に線引きしてみました。古代史ロマンの幕開けです!

まず、伊勢神宮を基点として京都御所と高野山双方が108㎞の距離に位置するように、今度は再度山を基点として、同じ108㎞の辺を持つ2等辺三角形を描いてみました。もし、レイラインの構想が背後で働いているとするならば、その頂点に何かしら大切な拠点となる神社や聖地があると考えたのです。東北東の方向を注視すると、108㎞の地点は古代の霊峰として名高い御在所岳に近く、周辺には甲賀市、亀山市があります。そして108kmの地点を見ていくと、滋賀県蒲生郡の若宮神社が目に入りました。再度山からちょうど108㎞の地点に建立されているだけでなく、若宮神社といえば元伊勢御巡幸地の比定地のひとつ数えられていたはずです。「これだ!」と思い、調べていくうちに、元伊勢の御巡幸地のひとつである甲可日雲宮の比定地となっていたのは、若宮神社から南東方向に2.5km程向かった場所にある、もうひとつの若宮神社でした。

若宮神社 鳥居
若宮神社 鳥居
甲賀市の大河原にある若宮神社は、再度山から見てちょうど110㎞となる地点にあり、御在所岳の頂上からは約8.5㎞手前に位置します。社伝によると若宮神社の創建は奈良時代初期の718年と記載されています。境内社は皇大神宮とも呼ばれ、元伊勢御巡幸の際に倭姫命御一行が滞在された甲可日雲宮の比定地として知られています。元伊勢御巡幸の主なる目的は神宝を加護するため、各地を巡り周りながら、神宝の最終的な遷座地を見出すことにありました。よって、若宮神社も神宝と深い関わりあいを持つ神社なのです。それ故、伊勢神宮、石上神宮、京都御所、高野山と同様に、神宝という共通のテーマを介してレイラインという仮想線を通して互いに繋がっていることに何ら不思議はありません。残るは、再度山から見て、南東方向に存在するであろう、もうひとつの六芒星頂点です。

紀伊半島の秘境を有する大台ヶ原

神宝の歴史に繋がる若宮神社が再度山から110㎞離れているという事実からして、南東方向にも重要な聖地が存在している可能性が見えてきました。もし、再度山を頂点として正三角形に近い二等辺三角形を構成するレイラインが存在するならば、伊勢神宮を頂点とする三角形に重ねて六芒星を形成することができます。そこで地図を再び検証しながら、再度山から108km前後離れている地点を検証してみました。

当初注目したのが、熊野灘沿いの尾鷲市近くにある標高611mの便石(びんし)山です。山の頂上近くには「象の背」とよばれる巨石があり、そこから太平洋の絶景を眺めることができます。四国剣山の「馬の背」と呼ばれる頂上からの光景を彷彿させる巨石であるだけに、再度山、若宮神社と共に三角形を成すレイラインの頂点を形成するのに、便石山はもってこいの指標に思えたのです。しかしながら、再度山からの距離は115㎞となり、当初の想定である108から110㎞の距離よりも、さらに5㎞長くなってしまいます。

他に該当する聖地がないかと地図上を探していると、ふと大台ヶ原が目に入りました。大台ヶ原は複数の山から形成され、三重県最高峰の日出ヶ岳、標高1695mも含まれています。日本屈指の豪雨山地としても知られ、年間の平均雨量は5000㎜に達します。2004年には1日の雨量としては驚異的な1886㎜の豪雨があり、1920年には年間8214㎜という雨量の記録も残っています。大台ヶ原に降る雨は、そこから大阪湾へは紀ノ川、太平洋には熊野川、伊勢湾には宮川を介して注がれています。それは古代、船を用いて大台ヶ原周辺まで川を上って旅することができたことも意味しています。

大台ヶ原 大蛇嵓
大台ヶ原 大蛇嵓
大台ヶ原の最高峰、日出ヶ岳から東をのぞむと、御嶽山や乗鞍岳、志摩半島まで見渡すことができ、時折富士山ものぞむことができるだけでなく、西方には世界遺産の大峰山脈を成す山上ヶ岳をはじめ、釈迦ヶ岳や大塔山など、紀伊半島の山々がパノラマ上に広がります。今日、大台ヶ原の頂上周辺までは車でアプローチすることができ、やや観光地化されています。それでも、少し足を運ぶだけで大自然の原始林が未だに存在し、山を散策しながら自然の力を満喫することができ、大台ヶ原でも著名な大蛇嵓からは800m下の東ノ川にせり出した断崖絶壁の光景が真下に広がります。また、大台ヶ原周辺には牛石ヶ原や正木ヶ原と呼ばれる山腹も広がり、登山する人の心を和ませてくれます。

明治時代では魔の山と恐れられたこともある大台ヶ原ですが、その優れた景色だけでなく、紀伊半島の分水点として三方向へ注がれる河川の頂点に存在するという地勢からしても、古代から神霊が宿る聖なる山として崇められてきた可能性があります。近年においては明治24年、古川嵩氏によって正式に開山されたことが証され、大台ヶ原は「神霊の宿る聖なる山」と位置付けられ、そこに修行道場なる教会が作られたのです。同様に、古代においても大峰山周辺を行き来する修験道の行者も大台ヶ原を訪れたに違いなく、古代から大台ヶ原は重要な拠点とみなされたことでしょう。

大台ヶ原から熊野灘を望む
大台ヶ原から熊野灘を望む
その大台ヶ原でも、秘境を極める場所として知られるのが、日出ヶ丘から東南東へ5㎞弱離れた標高1109mの奥坊主です。すぐそばには口坊主と呼ばれる岩山もあり、近くの断崖絶壁を滝が流れています。奥坊主の山頂からは景色を見ることができませんが、すぐそばの展望スポットからは、遠くに熊野灘を見渡すことができます。なぜ、大台ヶ原の秘境が奥坊主と命名されたかは定かではありません。江戸時代、将軍や大名の茶室を管理し、接待を務めたのが奥坊主であることから、もしかして、その秘境の地を茶室と捉え、そこで天の神を崇め、接待する思いで神に仕えたことから、奥坊主という名がつけられたのかもしれません。

その奥坊主から再度山までの距離は、ちょうど108㎞です。すると、再度山を頂点として元伊勢の比定地である若宮神社と大台ヶ原の奥坊主を結ぶと、二等辺三角形ができあがります。そして伊勢神宮、京都御所、高野山金剛峯寺を結ぶ三角形と向かい合わせで重ねると、六芒星のような形になります。双方とも同じ形をした二等辺三角形であることから、綺麗な六芒星の形にはなりません。しかしながら、期待を裏切らない素晴らしい聖地が六芒星の頂点すべてに存在することから、古代史のロマンに浸る思いで、さらなるリサーチを進めていくことにしました。

六芒星のレイラインに関する検証を締めくくるにあたり、伊勢神宮と高野山の延長線に剣山が繋がっているように、伊勢神宮と石上神宮を結ぶ延長線上にも、何か重要な史跡や指標となる聖地がないかと、今一度、地図を調べてみました。まず気が付いたことは、日本神話において伊邪那美命が葬られたとされる比婆山が、その直線上の中国山地に存在することです。標高1264mの比婆山は、古くは出雲の国と伯耆(ほうき)の国の境目にある山として知られていました。伊勢神宮と石上神宮という日本書紀や古事記に記されている古代の由緒ある神宮を結ぶ延長線上に、国生みの神々の一人である伊邪那美命の墓が存在するということは、偶然とは思えませんでした。この六芒星に繋がる聖地が、四国の剣山だけでなく、比婆山とも結び付いていたことに、驚きを覚えました。

伊勢神宮と石上神宮を結ぶレイラインには、再度山と比婆山だけでなく、実はもうひとつ、極めて重要な聖地が並んでいました。それが国譲りの神である大穴牟遅神(おおなむぢ)を祀る生石(おうしこ)神社の石の宝殿です。日本三奇の一つに数えられている石の宝殿は、高さ5.7m、縦横7.2m、6.4mの巨大な建造物です。社伝によると、神社の創設は崇神天皇の時代まで遡ります。その時代はまさに元伊勢の御巡幸が行われていた時であり、国難を乗り越えるべく、大切な神宝を安全な場所に遷座し、守護するために、様々な施策がとられたのです。生石神社はそれら神宝の行く末を占う象徴の奇石と考えられます。六芒星頂点の一つに位置する若宮神社も元伊勢御巡幸の比定地であることから、六芒星と生石神社が紐付けられていることにもはや不思議はありません。剣山と伊勢神宮を結ぶ線を発端に、高野山をはじめとする様々な聖地が六芒星の頂点に見出されました。そしてその中心に存在する石上神宮を通り抜ける仮想線は、和気清麻呂と空海が拠点とした再度山だけでなく、生石神社の石の宝殿や比婆山とも繋がっていたのです。そしてこれらは、すべて神宝が絡む聖地であることを確信し、その拠点の一つである再度山を訪ねてみることにしました。その登頂が、古代史のロマンを開花することになるとは、夢にも思いませんでした。

(文・中島尚彦)

© 日本シティジャーナル編集部